Sightsong

自縄自縛日記

荒井英郎+京極高英『朝鮮の子』

2011-08-20 08:14:01 | 韓国・朝鮮

荒井英郎京極高英により監督された映画、『朝鮮の子』(1955年)を観る。

>> 映画『朝鮮の子』


『東京のコリアンタウン 枝川物語』(樹花舎)より

1949年に全国のコリアンの民族学校に廃校命令が出され、東京では同年から都立の朝鮮人学校となった。しかし、1952年4月の講和条約発効により、在日コリアンが「外国人」となり、今度は「外国人」の学校を都民の税金で運営することはないという議論から、1954年10月、都立朝鮮人学校の廃校が決定された。この映画は、その動きに対抗して作られたものだ。なお、その後1955年4月、朝鮮学校として再出発している。

監督の2人はドキュメンタリー畑の存在であったようで、調べてみると、荒井には『われわれは監視する-核基地横須賀』(1975年)、京極には信州の養蚕農家を撮った『ひとりの母の記録』(1955年)という興味深い作品もある。もちろん『朝鮮の子』は組織的なアピールという側面があって製作されたものであり、在日コリアンの団体が名前を連ねている。

ロケは主に江東区枝川東京朝鮮第二初級学校やその近くの町で行われており、学校の表札は「都立」である。また、地域の重要な存在だったという江東朝鮮人生活協同組合(既に取り壊し)も見ることができる。1953年には「アサヒグラフ」誌が「カメラ”枝川町”に入る」といった仰々しい潜入ルポ的な記事を載せるなどの扱いを受ける地域であった。貧困のため、女性たちがごみ捨て場で屑鉄を拾う様子も捉えられている。

当然ながら、差別社会・日本の様相がドラマとして描かれている。ある女の子は、日本人学校に通っていた時、自分が在日コリアンであることを隠していた。友達と一緒に家に帰ってくると、神戸のお婆さんが来ている。白い上着と長いドレス、舟のような形をしたはじめて見る靴。友達に「あんた朝鮮人だったの」と言われた子は泣きだし、お婆さんを責めたために母親から叱責される。典型的な姿を再現したドラマとは言え切なくなってくる。

学校で「アボジ!」「オモニ!」「ウリハッキョ!」と、黒板に書かれた朝鮮語を元気に復唱する子供たち。自分の子には朝鮮語を教えたいと望む親たち。自然なことであり、今では国際人権法で確立されている考えである。しかし、高校無償化の対象から朝鮮人学校が排除されるなど、日本社会は差別意識をまる抱えしている。

●参照
『東京のコリアン・タウン 枝川物語』
枝川でのシンポジウム「高校無償化からの排除、助成金停止 教育における民族差別を許さない」
道岸勝一『ある日』
井筒和幸『パッチギ!Love & Peace』
枝川コリアンタウンの大喜


1996年の祝島の神舞 『いつか 心ひとつに』

2011-08-18 07:37:29 | 中国・四国

祝島(山口県上関町)には、1100年以上前に大分から農業が伝わったとされている。国東半島の宮司が嵐に遭って祝島に漂着したときのことである。これを起源として、4年ごとに大分の伊美別宮社から人々を呼ぶ合同の祭祀が「神舞」(かんまい)である。


2008年神舞のリーフレットより

探してみると、NHK「新日本探訪」で放送された『いつか 心ひとつに』(1996/9/1放送)がYoutubeにアップされている。1996年の神舞の記録である。世話役を橋部好明さんが務めており、14年後の『風の民、練塀の町』(2010/11/14、山口放送制作)では、練塀の研究成果を披露している方である。1984年と1988年には神舞を行うことができず、この4年前の1992年、橋部さんらが中心となって復活させたのだという。

>> その1
>> その2
>> その3

当時、原発推進意見の住民は島の1割。その中には当時の宮司もいて、神舞に欠かせない役割を持つにも関わらず参加しない状況となっていることが示されている。また、推進派住民の声としては、過疎・高齢化地域にあって雇用をつくりだすためには仕方がないという意見が紹介されている。まさに原発や米軍基地の立地に際して全国で共通してみられる現象であり、中央の<機械>以外を切り捨ててきた日本の政治に起因するものに他ならない。

次回の神舞は2012年8月16日~20日に行われる予定だということだ。祝島の注目度が高いこともあり見物客が相当集まるのではないか。私も見てみたい。

>> 2008年の神舞
>> 2008年の神舞(ブログ「街森研究所」)
>> 2012年の神舞

●参照
○長島と祝島 >>
リンク
○長島と祝島(2) 練塀の島、祝島 >> リンク
○長島と祝島(3) 祝島の高台から原発予定地を視る >> リンク
○長島と祝島(4) 長島の山道を歩く >> リンク
○既視感のある暴力 山口県、上関町 >> リンク
○眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』 >> リンク
○『これでいいのか福島原発事故報道』 >> リンク (上関の原発反対運動について紹介した)


羽仁進『初恋・地獄篇』、『教室の子供たち』、『絵を描く子供たち』

2011-08-17 23:30:38 | アート・映画

羽仁進『初恋・地獄篇』(1968年)を観る。以前に最初の部分だけ観たのだが、余りにも青臭くて恥かしくて、途中でやめてしまった。今回は最後まで到達した。


『アートシアター ATG映画の全貌』(夏書館、1986年)より

やっぱり恥かしい。思春期の妄想と暴走(シャレではない)は、きっと誰にとっても恥かしい。思い出すと実に情けない気持ちになる。この映画は素人を使っていることもあって、そのわざとらしさが却ってリアルで、さらに恥かしい。もう初恋の気持ちの揺れ動きや底なし沼を描いた映画なんて観たってしかたがない。

スタッフ陣は豪華で、脚本が寺山修司と共同。美術が金子国義。キャスティングが宇野亜喜良。スチル写真は沢渡朔だそうでこれは探したい。確かに、いかにもこの映画のカラーである。

ついでに、羽仁進の岩波映画時代のドキュメンタリー映画、『教室の子供たち』(1955年)、『絵を描く子供たち』(1956年)も観る。小学校の教室の中に入り込み、子供と共存しながら撮った、骨のある小品である。なるほど、『初恋・地獄篇』も、別に奇を衒って作った映画ではないのだということがわかる気がした。

●参照(ATG)
淺井愼平『キッドナップ・ブルース』
大島渚『夏の妹』
大島渚『少年』
大森一樹『風の歌を聴け』
唐十郎『任侠外伝・玄界灘』
黒木和雄『原子力戦争』
黒木和雄『日本の悪霊』
実相寺昭雄『無常』
新藤兼人『心』
若松孝二『天使の恍惚』
グラウベル・ローシャ『アントニオ・ダス・モルテス』

●参照(岩波映画)
瀬川順一『新しい製鉄所』
高村武次『佐久間ダム 総集編』
土本典昭『ある機関助士』


長島と祝島(4) 長島の山道を歩く

2011-08-17 07:42:01 | 中国・四国

昼の便で祝島をあとにして、再び長島に戻った。タクシーでくねくね道を往く。自動車が入れないところから先は、狭い山道である。

暑いうえに蚊の数がやたらと多い。立ち止まるとすかさず腕に何匹もとまって血を吸いはじめる。他の人の様子を見ると、まるで蚊柱とともに歩いているようだ。森の樹々には、ハンノキ、トベラ、ヤブツバキといった名前を書いた手作りの板が結えてある。


山道 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP

途中に「団結小屋」があったが、残念ながら留守。那須圭子『中電さん、さようなら』(創史社、2007年)によると、2003年に完成した3軒目のログハウスであり、周囲のハヤブサやスナメリなどを観察する拠点にもなっている。横には太陽光パネルも設置してあった。小屋の脇からまた山道をしばらく下っていくと、原発の工事現場に到達する。

いま観察できるのは、資材搬入用の道路であり、ハコは当然まだない。貴重な自然の宝庫と評価されている田ノ浦海岸を見ることはできる。海の向こう側に、つい先までいたばかりの祝島を見ることもできる。しかし、海岸が埋め立て予定地となっており、立ち入りは最高裁判決により禁止されている。

山口県の二井知事は来秋の埋め立て免許期限後の更新を認めないと公言しており、海岸はまた公共のものとなるだろう。


痛々しい Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


田ノ浦と祝島 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


田ノ浦と祝島 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP

「もしも対岸に原発が建設されたら、島の人たちは無気味な原発を押しこんだ、白いコンクリートの塊を朝夕眺めて暮らすことを強制される。3.5キロメートルの海上には、なんの遮断物もない。もしも、原発で事故が発生したとき、祝島は逃げ場のない、人体実験場になってしまう。」
(鎌田慧『原発列島を行く』、集英社新書、2001年)

●参照
○長島と祝島 >> リンク
○長島と祝島(2) 練塀の島、祝島 >> リンク
○長島と祝島(3) 祝島の高台から原発予定地を視る >> リンク
○既視感のある暴力 山口県、上関町 >> リンク
○眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』 >> リンク


長島と祝島(3) 祝島の高台から原発予定地を視る

2011-08-17 01:32:40 | 中国・四国

上関町議の清水さんのご案内で、高台の祝島小学校に足を運んだ。校庭には、「自主・友愛・責任」と彫られた碑がある。これでも島東側の集落に少しのぼった程度である。小学校の遠足では、何時間もかけて山の中をハイキングするという。

全校生徒は7人と少ない。中学校からはみんな「いわい」号に乗って長島まで通わなければならない。部活で遅くなる子どもたちは、チャーター船で帰ってくる。


自主、友愛、責任 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8、Velvia 100F、DP


祝島の山 Pentax MZ-S、Sigma 400mmF5.6、Velvia 100F、DP

海越しに、長島の対岸を眺める。手前の瓦屋根、碧い海、島と素晴らしい眺望である。そして、祝島に面した田ノ浦海岸の少し上には、工事中のブルーシートが見える。原子炉の設置予定地はその少し右側だという。どう見ても悪い冗談だ。しかし、島の住民の方々にとっては、冗談で済みようもない数十年の歴史がある。


祝島の家々 Pentax MZ-S、Sigma 400mmF5.6、Velvia 100F、DP


集落と海と長島のブルーシート Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8、Velvia 100F、DP


長島のブルーシート Pentax MZ-S、Sigma 400mmF5.6、Velvia 100F、DP


原子炉の幻視 Pentax MZ-S、Sigma 400mmF5.6、Velvia 100F、DP

1時間や2時間はあっという間に過ぎる。また坂道を下りて、港の寺の門前に腰掛け、船に乗る前に買い込んでいたおにぎりを食べる。Oさんは、祝島に到着した直後にひろった猫に牛乳をやっている。にゃあにゃあという声、よく見たら側溝に生れたばかりの猫がいたのだった。助けなければ死んでしまう猫だった。Oさんは、島の名前にちなんで、「ほうり」と命名した。「Holy」の意味もあるのだ、とのこと。

何軒かある島の寺は、すべて浄土真宗であるという。抵抗の宗教でもあった。


猫の「ほうり」 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8、Velvia 100F、DP


浄土真宗の寺 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8、Velvia 100F、DP


祝島の港 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8、Velvia 100F、DP

本当に短い滞在だったが、来てよかったと思った。「いわい」号の船尾からは遠ざかっていく祝島がよく見えた。そして船窓からは、いくつもの黄色いブイが見えた。そこから中に入って「妨害」すると、1日あたり500万円を請求されるという最高裁判決が出ている。この国の司法を象徴するような話である。


船尾から祝島 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8、Velvia 100F、DP


船窓から500万円ブイ Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8、Velvia 100F、DP

(つづく)

●参照
○長島と祝島 >> リンク
○長島と祝島(2) 練塀の島、祝島 >> リンク
○既視感のある暴力 山口県、上関町 >> リンク
○眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』 >> リンク


長島と祝島(2) 練塀の島、祝島

2011-08-16 00:44:43 | 中国・四国

2011年8月7日、JR柳井港駅で下車、すぐそばの港からフェリー「いわい」に乗って祝島に向かった。途中の室津で、上関町議の清水敏保さんと合流する。祝島のご出身、上関町議会では12人の議員のうち祝島出身の2人を含む3人が原発に反対している。そのひとりであり、那須圭子『中電さん、さようなら』(創史社、2007年)という写真集を開くと、ところどころに登場する。

この3月に訪れた際には、無計画ゆえ上関に着いたとき既に午前の船が出てしまったあとだった。そのときは、仕方なく、上盛山(かみさかりやま)の展望台までのぼり、そこから祝島や他の多くの島々や、大分県の国東半島や、愛媛県の佐田岬を眺めたのだった。江戸期に入るまで、祝島は海上交通の要所であり、周防にも豊後にも伊予にも属していない島だったという。


乗船券ではなく上陸券


上関の「上」の旗、清水町議

上関町は、山口県の南東部から瀬戸内海に突き出した室津半島の南部、そこから上関大橋(昭和44年建設)でつながれた長島、長島の先に位置する祝島、さらに他の島々からなる。原発予定地は長島の先端部ながら、長島の港町は本土側にあるため、多くの住民からは見えない場所にある。むしろ、祝島の目の前に面するという立地である。上関町の人口は3500人、一方、祝島の人口は500人。多数決というおかしな原理が歪みを生み出す構造か。

ほどなくして祝島の港に着く。すぐに原発反対の看板や替え歌が目についた。2時間後の船で戻ることにしたため時間はあまりない。急ぎながら、清水さんの案内で、集落の中を歩きながら、高台の小学校を目指す。集落の様子と、海の向こう側の原発予定地を見るためである。


祝島の港 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


祝島の港 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


ふる里三題 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


小屋 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP

「NNNドキュメント'10」の枠で放送された『風の民、練塀の町』(2010/11/14、山口放送制作)は興味深いドキュメントだった。風が強い祝島では、家を守るため、大きめの石を積み上げた「練塀」(ねりへい)が独自に発達している。単なる塀ではなく、複数の家の一部を成していたりもする。かつて農業を祝島にもたらした国東半島にも一見同様の塀があるものの、それは家の補強にすぎず、類似性に乏しい。どうやら練塀のルーツは、韓国の済州島にあるというのだった。

確かに練塀だらけだ。ひとつひとつに個性がある。最近は保存のため補強もしているようで、セメントや漆喰で固められていた。

道を知らないと迷子になってしまいそうだ。清水さんは、そんなときは海に向かえばいいのですよ、と笑った。


練塀 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


練塀 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


練塀 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


枕干し Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


井戸 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


練塀 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


練塀 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


井戸と自転車と消防ホース Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


練塀の路地 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP


練塀 Pentax MZ-S、FA 77mmF1.8 Limited、Velvia 100F、DP

(つづく)

●参照
○長島と祝島 >> リンク
○既視感のある暴力 山口県、上関町 >> リンク
○眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』 >> リンク


鬼海弘雄『東京ポートレイト』

2011-08-14 23:08:32 | 関東

東京都写真美術館で、鬼海弘雄の写真展『東京ポートレイト』を観る。午前中グータラにしていたところ、14時からトークショーがあると知り、慌てて出かけたのだ。間に合った。私にとっては非常に気になる写真家のひとりである。


写真集とチラシに署名をいただいた

この写真群は、浅草の人びとに対峙し続けた『PERSONA』と、東京(および川崎などの周辺)の街を撮った『東京迷路』『東京夢譚』のシリーズから選ばれたものだ。街の写真も何か特徴や機能を簡単に説明できるようなものではなく、その意味で、やはりそれぞれ違う顔のポートレートなのである。

相変わらず、モノクロプリントのトーンをどんなミクロな場所にも見出すことができる。言葉では言い尽くせない、吐きそうなほどの感覚である。これらを次々に目の当たりにできるのは、やはり特別な体験と言わなければならない。そして、鬼海写真になのか、それとも「人間」になのか、底知れぬユーモアや生命力のようなものがある。

鬼海さんの解説付きで、1時間ほどぞろぞろと会場を歩く。もともとマグロ漁船など職を転々としていて、ある時写真をはじめ、哲学者の故・福田定良氏にポンと30万円を出してもらってハッセルブラッド500C/Mを買ったという伝説的な話。ハッセルのレンズは高いため、標準レンズだけを使うということを逆に強みとして使い、10冊ほどの作品をこのカメラとレンズの組み合わせで出したという話。そしてこれらの極めて独特な作品群の背後にある写真哲学。

被写体となった浅草の人々は、あまりにも自己が溢れており、つまらぬ意味での「真っ当」ではない。ホームレスも多い。鬼海さんは、声をかけて対峙するとき、何か上から見るとか決めつけるとかしてしまうと、そこで想像力は全停止するのだという。そうではなく、皆がナザレのイエスであるかのように向かわなければならぬのだ、と。「写真はコピーではない」と繰り返す氏の写真哲学には、人間との<際>の切実性のようなものがある。

街のポートレートについては、あえて人間を排除し、普遍性を意識しているという。話を聴いている間、横目でストゥーパの写真をどこかで見たなと気にしていると、「吉展ちゃん事件」で遺体が遺棄された場所だと説明してくれた。そうだった、一度足を運んだことがある、荒川区南千住の円通寺だった。シンクロにより記憶の引き出しが開けられるのは奇妙な感覚だ。

写真集『東京ポートレイト』(クレヴィス、2011年)とチラシに署名を頂くとき、デジカメについて訊いてみた。一度、『写真家たちの日本紀行』というキヤノンがスポンサーのテレビ番組で、鬼海さんがキヤノンのデジタル一眼レフを使っているのを観て、仰天していたのだ。曰く、いやキヤノンに1台もらったんだけど、便利すぎてつまらない、と。ヤッパリね。

●参照
鬼海弘雄『しあわせ インド大地の子どもたち』
鬼海弘雄『東京夢譚』


重慶大爆撃訴訟 広島―重慶を結ぶ集い

2011-08-14 09:10:09 | 中国・台湾

広島では、「広島―重慶を結ぶ集い」にも参加した(2011/8/6)。直前の「被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい」(>> リンク)でも被害を訴えていた簡全碧さんたちが、ここでは、詳細な資料をもとに説明を行った。

重慶大爆撃は、1938年から1944年にかけて、旧日本軍が200回以上にわたり中国・重慶市に空爆を行ったものであり、時に隣接する四川省の成都、楽山、自貢も攻撃対象となっている。死者は万単位に及んだ。ゲルニカ空爆(1937年)、東京大空襲(1944-45年)、広島・長崎への原爆投下(1945年)などと同様に、民間人を対象とした無差別虐殺事件である。

東京地裁への謝罪と賠償を求めての訴訟は、2006年以降4次にわたって行われている(原告は重慶市住民を中心に延べ188名)。

簡全碧さんは1939年の爆撃当時1歳で家を破壊され、翌1940年の爆撃では爆弾の破片が突き刺さり重傷を負っている。そのとき簡さんをかばって覆いかぶさってきた祖母が死亡したのだという。簡さんは、腹部に残る傷がまだ痛むのだと4センチの傷痕を見せ、その後の苦しい生活、精神的な傷について語った。


腹部の傷痕を見せる簡全碧さん

●参照(日本軍の中国における戦争犯罪)
平頂山事件とは何だったのか
『細菌戦が中国人民にもたらしたもの』(寧波での化学兵器使用)
盧溝橋・中国人民抗日戦争記念館(南京事件、化学兵器についても展示)
陸川『南京!南京!』(南京事件、ようやく今月日本公開)


アルンダティ・ロイ『帝国を壊すために』

2011-08-14 01:40:28 | 南アジア

インド人作家、アルンダティ・ロイ『帝国を壊すために―戦争と正義をめぐるエッセイ―』(岩波新書、原著2001-03年)を読む。しばらく姿を消していたが、今月復刊されるとのこと。

2001年9月11日の後、帝国=米国とそのフォロワーたちによる暴力が世界を席巻した。ロイが皮肉をもって偽善を暴こうとするのは、しかし、「9・11」後だけではない。太田昌国らによって、チリのアジェンデ民主政権がCIAの支援を受けたピノチェト将軍のクーデターによって転覆されたのも、1973年の同じ9月11日であったことが示されている。ロイはそれを含め、帝国が深く傷痕を残した事件として記憶にとどめるべき「9・11」を列挙している。

1922年9月11日、英国はバルフォア宣言(ユダヤ人のための国家建設)に基づきパレスチナに委任統治を宣言。
1973年9月11日、CIAとピノチェト将軍によるクーデター。
1990年9月11日、米国ブッシュ大統領(父)が、議会演説で、イラクに対する戦争行使決定を発表。
2001年9月11日、米国ワールド・トレード・センターに航空機が突撃。

帝国の暴力的な権力行使は歴史として刻みこまれ、繰り返される。しかし、自分たちは既に、ロイが挙げる問題群をある程度は認識している。これだって、帝国に抗した人たちの共通の記憶に違いない。

米国が、国外で軍事独裁教唆や住民大虐殺を実施してきたことも、
米国がアフガニスタンの麻薬製造の原因となり自国民を苦しめていることも、
米国がタリバンに力をつけたことも、
米国がオサマ・ビン・ラディンという存在を作りだしたことも、
米国が中東にこだわっている大きな理由は石油利権にあることも、
米国のイラク攻撃やアフガニスタン攻撃の大義に論理などなかったことも、
インドがスリランカのLTTEをサポートして事態をより悪化させたことも、
インドのヒンドゥー・ナショナリズムも、
そういったことを大メディアがサポートしてきたことも。

ロイが前提として強く念を押すのは、帝国であろうとも、政府と社会や国民とを同一視してはならないことだ。そして帝国に抗することができるのは、何かビッグ・パワーではなく、ひとりひとりの力であることを、力強くアピールしている。このあたりは、アントニオ・ネグリが<マルチチュード>を標榜しながらも、実はそれは組織化を前提としていることとは性質を異にする。

「指導者たちが市民社会を失望させてきた、それと同じくらい、市民社会も指導者たちを失望させてきたのではないだろうか。わたしたちは認めなくてはならない、自分たちの議会民主主義に危険で組織的な欠陥があるということを。」

「わたしたちの戦略、それはたんに<帝国>に立ち向かうだけでなく、それを包囲してしまうことだ。その酸素を奪うこと。恥をかかせること。馬鹿にしてやること。わたしたちの芸術、わたしたちの音楽、わたしたちの文学、わたしたちの頑固さ、わたしたちの喜び、わたしたちのすばらしさ、わたしたちのけっして諦めないしぶとさ、そして、自分自身の物語を語ることのできるわたしたちの能力でもって。わたしたちが信じるようにと洗脳されているものとは違う、わたしたち自身の物語。」

「むしろわたしたちの戦略は、<帝国>を動かす部品がどこにあるかを見きわめ、それをひとつずつ役に立たなくさせていくことにある。どんな標的も、小さすぎる、ということはない。どんな些細な勝利も、意味を持たない、ということはない。」

●参照
吉田敏浩氏の著作 『反空爆の思想』『民間人も「戦地」へ』
戦争被害と相容れない国際政治
太田昌国『暴力批判論』を読む
イラクの「石油法」
中東の今と日本 私たちに何ができるか(2010/11/23)
ソ連のアフガニスタン侵攻 30年の後(2009/6/6)
中島岳志『インドの時代』
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(上)
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)


新藤兼人『原爆の子』

2011-08-13 10:35:18 | 中国・四国

新藤兼人『原爆の子』(1952年)を観る。翌年のカンヌ映画祭では米国が受賞しないよう圧力をかけたという曰く付きの映画である。

敗戦後。原爆投下時に広島で幼稚園の先生をしていた主人公(乙羽信子)は、いまでは瀬戸内海の小島で先生をして暮らしている。ある日、休暇を取って5年ぶりに広島を訪れたところ、相生橋(原爆投下の目標になったT字型の橋)の横、原爆ドームの川向いで物乞いをしている老人に目を止める。かつての実家の使用人(滝沢修)であった。さらに、幼稚園の教え子たちの生き残り3人を訪ねる。ひとりは父親が原爆後遺症で亡くなるところだった。ひとりは教会に身を寄せて死者に祈りを捧げるも、10歳にもならぬうちに亡くなろうとしていた。ひとりはちょうど姉が嫁ぐ日だった。主人公は居たたまれない。そして、孤児院に入っている使用人の孫を引き取り、島に帰っていく。

原爆が爆発した後の地獄絵のイメージが凄絶だ。新藤は意図的にか、焼けただれて死にゆく者も、いまを生きる者も、まるで西洋彫刻のトルソのように描く。それは尊厳についての強い思いかもしれない。ケロイドなどの後遺症を持つ者たちの描写と相まって、米国が拒否反応を示したことも納得できるというものだ。

俳優陣が劇団民芸の宇野重吉、滝沢修、北林谷栄といった面々で、決して好みではない重さがある。大滝秀治も出ているらしいが、どの役だろう。船長役の殿山泰司はこのときまだ30代、別人のようだ。


相生橋(2011年8月)


原爆ドーム(2011年8月)

●参照
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
新藤兼人『心』
被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(1)
被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(2)


唐十郎『任侠外伝・玄界灘』

2011-08-13 01:13:10 | 中国・四国

唐十郎『任侠外伝・玄界灘』(1976年)を観る。舞台は下関である。

朝鮮戦争時、学生の沢木(宍戸錠)と近藤(安藤昇)は米軍の死体処理のバイトをしていた。飛び出た内臓を思い出して、食っていたラーメンを吐く始末。謎の男(唐十郎)が現れ、どうだ朝鮮半島に渡ってみないか、倍は稼げるぞと唆す。釜山では遺族に戦死を告げる仕事、どさくさ紛れに強姦さえしてしまう。そこで殺してしまった女性は翌日蘇生するも、やがて恨死する。

二十数年後。沢木と近藤は韓国からの密航と東京への人身売買によって稼ぐやくざになっている。彼らとその手下たちも、密航者たちを暴行する。近藤の舎弟は直情の男(根津甚八)。そして密航者の中には、かつての強姦により生まれた娘(李麗仙)と証人の男(小松方正)とがいた。近藤への復讐のためだ。

業と獣欲にまみれた、あまりにも酷い物語だが、なぜかフィルムには唐の情と色が溢れている。主役の宍戸錠と安藤昇という組み合わせが凄まじく、他の面々も異常なほど濃い。李麗仙は唐十郎の妻だった時期である。唐の底知れない迫力もいつも通りだ。何年前だったか、井の頭公園に赤テントが張ってあって、その囲まれた真ん中に椅子を置き、唐が座っていた。写真を撮ってよいかと迂闊にも訊ねると、「あっちを通してください」とニコヤカに答えられた。とても怖かった。

下関は昔も今も国境に面した<際>である。どちらかと言えば、映画の題名を『玄界灘』ではなく『響灘』としてほしかったところだ。かつて私の父は、下関で警官をしていた。勿論、映画では日本権力の走狗として描かれている。在日コリアンの多い町にあって、数年間、何を考え何を視ていたのだろうか。

私にとっても関釜フェリーは今に至るまで憧れだ。夜、AMラジオを聴いていると、韓国語放送ばかりになり日本語を探すのが困難なほどだった。



『アートシアター ATG映画の全貌』(夏書館、1986年)より

ところで、この映画は初めて映倫の「R指定」を受けた作品である。先日所用のついでに東銀座をぶらついていると、何気なく覗いた雑居ビルの中に映倫があった。奇妙な感覚だった。

●参照(下関)
関門海峡と唐戸市場
巌流島
角島

●参照(ATG)
実相寺昭雄『無常』
黒木和雄『原子力戦争』
黒木和雄『日本の悪霊』
若松孝二『天使の恍惚』
大森一樹『風の歌を聴け』
淺井愼平『キッドナップ・ブルース』
大島渚『夏の妹』
大島渚『少年』
新藤兼人『心』
グラウベル・ローシャ『アントニオ・ダス・モルテス』


川満信一『沖縄発―復帰運動から40年』

2011-08-12 07:33:31 | 沖縄

川満信一『沖縄発―復帰運動から40年』(情況新書、2010)を読む。

宮古島出身、詩人・思想家。沖縄の施政権返還時には反復帰論を展開し、また、沖縄独立を想い独自の憲法案「琉球共和社会憲法C私(試)案」を発表している(1981年)。しかし、それはキーワードにすぎない。本書には、復帰前の声も、現在の発言も収められている。時にとっちらかるようなこれらの声を聴かなければ、キーワード論は意味を持たない。

なぜ復帰に異を唱えたのか。前提とされる「同一民族」も、漠然と遠くに視た近代国家も、反米も、新鮮な憲法も幻想であり(憲法9条のとらえなおしには異論もあろうが)、それらを旗印にして「祖国に帰る」のもまた幻想であると批判したからである。逆に体制の強化拡大に収斂するに過ぎないとの批判でもあった。

「”復帰、返還、奪還、沖縄解放”いずれも典型的な擬制のことばであって、そのなかでは底辺から発しられる民衆の思想が死滅に瀕していることは疑い得ない。」(1969年)

それに対して、川満は政治的に独立を考えているわけではなかった。今なお続く国家権力の暴力に対し、あたう限りひとりひとりが想像力を働かせるための楔なのだ。従って、「琉球共和社会憲法C私(試)案」も、私たちの想像力を試すものになっている。

川満の立脚点は、<ネイション>や<国体>(!)に背を向け、<個>という装置の強さに期待を寄せているところにもありそうだ。不戦、差別の撤廃、直接民主主義、納税義務の廃止などに加え、司法機関の廃止さえも謳われているのである。常に<個>の中に裁判所を持って自分を裁け、そうでなければ<個>の立ち位置はゆらぐというわけだ。単なるコミュニティ妄想ではない。やはり時間を超えてこちらを試す、過激さである。越境はその次に当然のようにやってくる。

●参照
仲宗根政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』、川満信一『カオスの貌』
『情況』の、尹健次『思想体験の交錯』特集(川満信一による朝鮮と沖縄への視線)


被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(2)

2011-08-12 00:59:49 | 中国・四国

(つづき)

■ 笹口孝明さん(新潟県旧巻町・元町長)

新潟県巻町(現・新潟市)には、かつて巻町原発の建設が計画されていた。1995年の住民自主管理による住民投票、推進派町長のリコール・辞任と住民投票を実施した会からの新市長(笹口市長)の誕生、1996年の町による住民投票、町有地の反対派への売却と最高裁での勝利、東北電力による原発断念と、まさに住民主導の合意形成プロセスを実現させた例である。

共通の記憶とされるべき歴史であり、私も『これでいいのか福島原発事故報道 マスコミ報道で欠落している重大問題を明示する』(丸山重威 編・著、あけび書房、2011)(>> リンク)において大事な事例として取りあげた。(なお詳細には、伊藤守・渡辺登・松井克浩・杉原名穂子著『デモクラシー・リフレクション:巻町住民投票の社会学』(リベルタ出版、2005)にまとめられている。)

その笹口町長である。いまは元の「造り酒屋のオヤジ」に戻っているのだという。直接話を聴けることは嬉しい限りだ。笹口氏はこのプロセスを振り返り次のように述べた。

1965年頃には、東北電力が土地ブローカーを使い、観光名目で角海浜(かくみはま)の土地買収を始めていた。それをスクープしたのは1969年の「新潟日報」であった。その後、概して町長は2期目になると原発推進に転じ、そのたびに原発に慎重な新町長が選ばれることが続いていた。しかし1994年、笹口町長前任の佐藤町長が「世界一の原発をつくる義務がある」との公約を掲げて三選を果たし、急に話が現実味を帯びてきた。このとき出てきた問題点は、「本当に町民は原発建設に同意しているのか?」ということだった。当選したとはいえ、原発に反対する候補の票のほうが佐藤町長の票を上回っていたのだ。

笹口氏を含め、地元の商工業社長と弁護士の計7人は「住民投票を実行する会」を結成、本気であることを示すために、プレハブの事務所をつくり、常駐職員を置き、マスコミへの発表と住民説明を行った。佐藤町長に原発の是非に関する住民投票への立会人派遣を要請するも拒否され、住民自主管理での投票となった。推進派は投票実施すると負けるために投票自体のボイコットを呼び掛けた。すなわち、「住民投票に行くこと」が「反原発」と見なされる雰囲気となり、住民は相互監視の目にさらされることとなった。カメラに写されるのを嫌がり帰る人、マスクとマフラーで顔を隠してくる人、家族を投票所に連れてくるも自分だけ自動車から出ない人などがいた。「会」はマスコミへの撮影自粛を要請した。そして住民投票は投票率45.3%、反対95%という結果になった。

佐藤町長は、「ルールにないため町政とは関係ない」と「会」との面談を拒否し、町有地を東北電力に売却しようとする。押しかけた住民により町議会は流会、そして町長リコール、辞任。次の選挙で「会」の笹口町長が誕生する。

あらためての住民投票は集票合戦となった。結果、投票率88.3%、反対60.9%という結果が出た。民意は明らかであった。しかし、町議会は推進多数であり県知事も推進派、放っておいたら危ないため、笹口町長は町有地の反対派への売却を行う。推進派の町議が裁判を起こしたものの、一審・二審ともに売却を是とし、2003年12月、最高裁は上告を受理しなかった。ほどなくして東北電力は建設を断念した。

この過程のなかで、住民投票という方法への批判が一部メディアからなされた。曰く、混乱させる。議会の存在意義を無にするものだ。国策に口を出してはならない。

しかし、そうではない。この過程は、民主主義とは何か、を問うものだ。

■ 音楽演奏(ウリ・ゲッテさん、ディエゴ・ヤスカレーヴィッチさん)

ドイツから来日中のウリ・ゲッテさんによるコンセプチュアルな感覚のピアノ演奏、ディエゴ・ヤスカレーヴィッチさんによるチャランゴ演奏があった。チャランゴは弦の本数が多い難しそうな弦楽器で、ずいぶん小さい。これをヤスカレーヴィッチさんは抱えるようにして弾いた。見事だった。

■ 藤本安馬さん(元毒ガス工場工員)

戦時中、広島の大野久島は毒ガス工場を抱えていた。機密のため地図から消されたりもした島である。藤本さんは、この島の工場で工員として働いていた。

藤本さんは、「ど田舎」の島での毒ガス製造と、「ど田舎」の地域での原発建設に共通点を見出している。そして、「あなたの問題はあなたの問題、私には関係ありません」という現代社会の共通意識が如実に顕れたのが原発であるとし、「あなたの問題は私の問題」とする団結の論理こそが求められるものだと訴えた。

■ 簡全碧さん(重慶大爆撃被害者)

簡全碧さんは旧日本軍による重慶大爆撃の被害者である。これにより家族の運命が一変し、精神的な傷が癒えないのだと語った。簡さんたちは、現在、日本政府に対して謝罪と賠償を求め、東京地裁での訴訟を起こしている。

簡さんは、真の中日友好は、この問題を解決してからだと訴えた。


重慶大爆撃の絵

■ 安次富浩さん(沖縄・ヘリ基地反対協議会)

広島から祝島行きにも同行する予定だった安次富さんは、結局、台風のために飛行機が飛ばず、電話でのアピールとなった。基地と原発は根っこは一緒であり、「僻地」や沖縄は虐げられる一方でアメによってがんじがらめになり、都市が受益者になっているのだと語った。

■ けしば誠一さん(杉並区議)

今回同行の新城せつこさん(杉並区議)と戸田ひさよしさん(門真市議)を紹介するとともに、中央からでは難しい反原発を進めるため、「反原発地方議員の会」を発足させたとアピールした。


被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(1)

2011-08-11 07:26:38 | 中国・四国

シンポジウム「被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい」(2011/8/6、広島市文化交流会館)に参加した。

■ 開会宣言

大橋ひかりさんによる開会宣言。大橋さんは、祖父の軍隊での差別体験を寄稿した。

■ 被爆アオギリのねがいを広める会

今年の7月12日に亡くなった「アオギリの語り部」こと沼田鈴子さんを悼んでのスピーチがあった。沼田さんは、原爆に焼かれながらも芽吹いた平和記念公園のアオギリを分身に見たて、被爆体験を語り続けた。そのような体験から、3・11直後から被災者に想いを馳せ、「私達は二度と被爆者になりたくない」と語っていたという。

なお、8月24日未明には、フジテレビで『託す~語り部 沼田鈴子がまいた種~』(テレビ新広島制作)が放送される。


故・沼田鈴子さん


広島平和記念公園の被爆アオギリ

■ 李金異(イ・クミ)さん

広島市の福島町で被爆した在日コリアン2世の李さん。69歳の李さんは、去年、被爆者健康手帳を交付された。広島県庁に両親が被爆した記録があったが李さんはそれを知らず、ようやく申請して認められている。そのような政府のあり方に、李さんは、日本は差別のある国だ、絶対に許せないと怒りを表した。被差別に加えて在日コリアンという二重の差別構造を生きてこられた方の生の声である。

李さんは去年あたりからガンの恐怖にとらわれているのだという。これも被爆者の実感として記憶されるべきことである。

この日の夜に呑んだときの李さんは、うって変わって、周りを明るく盛り上げる愉しい方だった。


李金異さん


夜、観音町の「晴屋」にて

■ 上田由美子さん(詩人)

広島と福島の共通性を語る上田さんは、自作の詩を朗読した。その一方で、福島についての詩作を依頼されたが、断ったのだという。現地の傷痕や苦しみをわがものとして受けとめなければ詩は書けないという理由だった。

上田さんは、原発が地震に対して絶対に大丈夫だとの謳い文句がいかに空虚だったか、そしてなお原発を推進する者たちは将来に汚名を残すであろうと警告した。

■ 大塚愛さん

大塚さんは、福島第一原発の20km圏内にある川内村で12年前から自給自足生活に取りくみ、さらに4年前から大工修行をしていた。原発城下町の当地では、白血病で亡くなる方がいることもあって、村民は決して安全だとは思っていなかったのだという。自給自足ゆえ止められて困るライフラインはなかったのだと言うが、放射能の危険性を考え、自身で建てた家を捨て、すぐに岡山県の実家に移り住んでいる(その後3月16日、村長決断により全村避難)。

大塚さんはいま、原発に頼らない地域づくりを掲げ、廃炉アクションを起こそうとしている。そして「アロハでハイロ」だと会場を笑わせつつ、ジョン・レノン「イマジン」にあわせてフラを踊った。

(つづく)


広島の水主亭

2011-08-11 01:13:48 | 中国・四国

編集者のSさんにお誘いいただき、杉並区議のKさん・Sさん主催の広島・祝島行きに同行した。他にも門真市議のTさん、出版社社長のUさんなど多士済々、まったく愉快な方々である(失礼)。早朝の新幹線に乗り込み、昼前には広島の平和記念公園に到着した。

まずは昼食を取ろうと、近くの「水主亭」に入った。「すいしゅてい」ではなく、過去の地名から「かこてい」と呼ぶらしい。暖簾をくぐるとそこは昭和そのもの。壁のメニューはいたってシンプルであり、えらく安い。「一品料理」って何でしょうね、店のお婆さんは「今日は無い」。そんなわけで、全員うどんを注文する。

呉うどんというのか、細めの麺である。上には葱、とろろ昆布、揚げ玉。これが結構旨い。敢えて作った揚げ玉ではなく本当の天ぷらの副産物だから本物だね、旨い旨い、と皆で褒めちぎる。

今ひとつ満腹にならずもじもじしていると、お婆さんが「カレーがあるけえ」と言って持ってきた。氷山のようにご飯が持ってあり、ルーが皿から垂れまくっている。玉葱はそのままの形、信じられないくらい豪快である。これがまた妙に旨い。何皿か持って来てくれたカレーのルーは2種類作ったもののようで、お婆さんはフランクにも、辛いほうとそうでないほうとどっちがおいしいかね、と訊いてきたりする。さらには、唐突に韓国ドラマ『イ・サン』のガイドブックを持ってきて、見ちょる?見ちょる?と嬉しそうに話すのだった。

こんな店は東京にはない(たぶん)。広島いい店ひとの店。