Sightsong

自縄自縛日記

市川光太郎『ジュゴンの上手なつかまえ方』

2014-09-17 23:58:46 | 環境・自然

市川光太郎『ジュゴンの上手なつかまえ方 海の歌姫を追いかけて』(岩波書店、2014年)を読む。

著者はジュゴンの研究者。日本には沖縄に極めて限られた数のジュゴンが棲息しているだけなので(+鳥羽水族館)、タイやオーストラリアといったジュゴンが多い地帯にフィールドワークに出ており、その研究成果を本書で紹介してくれている。(なお、沖縄には、辺野古近辺に父親が、反対の西側の古宇利島近辺に母親と子供が棲んでおり、その子供が西と東を行き来しているのだという。)

これが、自虐的な書きぶりも相まって、滅法面白い。何でも、ジュゴンは、夜明け前に、えさ場(海草)の外でのみ鳴き、その鳴き声は、短い「ぴよぴよ」の後に長い「ぴーよ」が付け足されるらしい。著者は、「ぴよぴよ」が注意喚起で、「ぴーよ」が仲間に伝えたいメッセージだと推測している。なるほど、ロマンチックな話である。

しかし、声のデータ採取は実に大変なもののようで、しかも、テッポウエビがつめを叩いて出すノイズの中から抽出するのだという。大変なのは声データだけではない。泳ぐジュゴンの横に舟をつけて複数名で飛び込み、ダメージを与えないよう捕獲し、データ取りをするというやり方も紹介されている。「好きこそ・・・」とはこのことだ。わたしなど生まれ変わってもジュゴン研究者にはなれまい。

本書には、「ジュゴン食い」についても言及されている。実際に、オーストラリアの一部ではいまも食べることがあるというし、辺見庸『もの食う人びと』(角川文庫)には、フィリピンでも最近までジュゴンを食べていたとある。柳田國男も、「肉ありその色は朱のごとく美味なり、仁羹(にんかん、人魚の肉)と名づく」と書いており、南方熊楠は「千六六八年、コリン著『非列賓(フィリピン)島宣教志』八○頁に、人魚の肉食うべく、その骨も歯も金瘡(切り傷)に神効あり、とあり」と書いている。また、八重山の新城島(あらぐすくじま)には、食べた後のジュゴンの骨を祀る「七門(ナナゾ)御嶽」があり、琉球王朝に献上していたジュゴンの干肉も残されている。(テレビ朝日『テレメンタリー2007 人魚の棲む海・ジュゴンと生きる沖縄の人々』、2007年) 沖縄本島でも、昔は「獲れてしまった」ジュゴンを食べていたよという話を聞いたことがある。

もちろん、ここで著者が食べたというジュゴンは、漁網にかかって死んでしまった後であり、そのことに問題はまったくない。むしろ、食べた結果、硬くて獣臭かったということには、読んでいて少しがっかりさせられた。

ところで、わたしは米軍基地の新設にも、環境アセスを真っ当に行わなかったことも、もちろん稀少なジュゴンの生態系を脅かすことにも、反対する。しかし、それが、基地に反対する手段としてのジュゴンの利用と感じられるときには、首をかしげてしまう。まずはジュゴンについて知るべし。わたしのような素人にはとても興味深く面白い本である。

●参照
池田和子『ジュゴン』
名古屋COP10&アブダビ・ジュゴン国際会議報告会
ジュゴンと共に生きる国々から学ぶ(2009年)
ジュゴンと生きるアジアの国々に学ぶ(2006年)
『テレメンタリー2007 人魚の棲む海・ジュゴンと生きる沖縄の人々』(沖縄本島、宮古、八重山におけるジュゴン伝承を紹介)
澁澤龍彦『高丘親王航海記』(ジュゴンが「儒艮」として登場)
タイ湾、どこかにジュゴンが?
二度目の辺野古
高江・辺野古訪問記(2) 辺野古、ジュゴンの見える丘


岡田温司『黙示録』

2014-09-16 07:40:55 | 中東・アフリカ

岡田温司『黙示録―イメージの源泉』(岩波新書、2014年)を読む。

『ヨハネの黙示録』は、紀元1世紀後半、つまりイエスの死後100年に満たない時期に書かれた預言書であり、新約聖書の正典である。ここには、「七つの封印」をはじめとして、暗号のようなメッセージや謎めいた語り口とともに、おどろおどろしいイメージが書かれている。 

本書は、ここに展開されているコードが、現代にいたるまで、その後の西洋史に大きな影響を与えたとする。著者が引用するジャック・デリダの発言がある。『死を与える』においてキリスト教の理不尽な深淵を示したデリダらしい言葉ではあるが、実際にその通りなのだろう。

「黙示録的なものは、あらゆる言説の、あらゆる経験そのものの、あらゆる刻印もしくはあらゆる痕跡の超越論的条件ではないでしょうか?」

本書を読むと、<終末思想>そのものというよりも、<敵>(アンチキリストや大淫婦)をつくりだす発想様式が、宗教や戦争の大きな駆動力となりえた(なりえている)ということが納得できる。キリスト教はイスラム教を、カトリックはプロテスタントを、プロテスタントはローマ教会を、<敵>と見立てた。それは、さまざまに変奏される物語やイメージとセットであった。

それも、『黙示録』を出発点として無数の者たちによって描き出されたヴィジョンが、決して単純なものではなく、謎と矛盾を内包さざるを得ないものであったからである。ダンテ『神曲』(13-14世紀)も、フリッツ・ラング『メトロポリス』(1926年)も、スタンリー・キューブリック『博士の異常な愛情』(1963年)も、これらの系譜のなかにある。 

●参照
長谷川修一『旧約聖書の謎』
長谷川修一『聖書考古学 遺跡が語る史実』
ハル・ハートリー『ブック・オブ・ライフ』
ジャック・デリダ『死を与える』 他者とは、応答とは 


オーネット・コールマンの映像『David, Moffett and Ornette』と、ローランド・カークの映像『Sound?』

2014-09-15 08:17:49 | アヴァンギャルド・ジャズ

『David, Moffett and Ornette』(リチャード・"ディック"・フォンテーン、1966年)は懐かしいフィルムで、昔、Rhapsody Filmのヴィデオを持っていた。VHSゆえすぐに画質が劣化し、そのうえ、ノイズ音が入るようになってしまった。ここまで繰り返し観たのだから、気持よくDVDに買い替えることができるというものだ。(もっとも、中古棚で見つけただけだが。)

なお、日本盤のジャケットに記載されているモフェットのスペルが間違っている。ときどきあることだが、なぜこんな基本的なチェックができないのだろう。

Ornette Coleman (as, tp, vn)
David Izenzon (b)
Charles Moffett (ds)

これは、映画『Who's Crazy?』の音楽を吹きこむためにパリにやってきたオーネット・コールマン・トリオを捉えたドキュメンタリーである。若き日のオーネットは、黒人ゆえの社会的な抑圧と、音楽上のアイデンティティについて語る。そのことは、アイゼンソン、モフェットも同じである。(かれらのしゃべりは聞きとりにくいので、DVD化で字幕が入ったことは大歓迎だ。)

演奏はもちろんカッコいい。スタイリッシュで、かつ、即興の生々しさが溢れている。

それにしても、この『Who's Crazy?』という映画を観ることはできないものか。吹き込むシーンでは、映画のイカレたフッテージが少しだけ挿入される。同時期のコンラッド・ルークス『Chappaqua』(1966年)において、オーネットの音楽が結局は使われなかったことを考えても、かなり貴重な作品の筈である。オーネットが登場する映画としては、シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』(1985年)があるが、これもアメリカでDVD化される模様であり(2014年11月)、とても嬉しい。

『Sound?』(リチャード・"ディック"・フォンテーン、1967年)は、ローランド・カークジョン・ケージの映像を交互に組み合わせた奇妙なドキュメンタリー。といっても、ふたりのコラボレーションはない。おそらくは、「変わった音楽」という切り口での作品なのだろう。

Roland Kirk (reeds)
不明 (b)
不明 (ds)
John Cage (composition, performance)
David Tudor (p) 

カークの演奏には、接するたびに圧倒されてしまう。確かに管3本同時吹きは見た目からして凄いのだが、それ以上に、混濁した音のなかから生命のカオスとでもいった力が創出されることこそが素晴らしいのである。「Here Comes the Whistleman」や「Nightingale Sang in Berkeley Square」の演奏がいい。

●参照
スリランカの映像(6) コンラッド・ルークス『チャパクァ』
シャーリー・クラーク『Ornette: Made in America』 オーネット・コールマンの貴重な映像
オーネット・コールマン『Waiting for You』
オーネット・コールマン『White Church』、『Sound Grammar』
オーネット・コールマンの最初期ライヴ
オーネット・コールマン集2枚


ハル・ハートリー『ブック・オブ・ライフ』

2014-09-14 22:21:49 | 北米

ハル・ハートリー『ブック・オブ・ライフ』(1998年)を観る。

20世紀末における『黙示録』の物語である。

イエスとマグダラのマリアが、ニューヨークに現われる。イエスのパソコンの中には、「The Book of Life」が入っており、7つの封印のうち4つまでが解かれている。5つ目の封印をほどくと、『黙示録』通り、殉教者の魂が現われる。イエスは、人を裁けと訴える殉教者に対しても、サタンに対しても、また他の関係者に対しても、さらに封印をほどくことを拒否する。それは、人間世界を滅ぼすことへの、かれの迷いによるものだった。

映像はデジタルヴィデオで撮られており、今観ると、iphoneの画像よりも低画質であり、それがまた新鮮(無理に言えば)。まあ、しょうもない物語ではあるのだが、イングマール・ベルイマン『第七の封印』の厳かさが冗談としか思えないことを考えると、このスピード感のあるポップな現代劇のほうが余程マシなのだった。

そんなわけで、映画に刺激されて思い出し、岡田温司『黙示録』(岩波新書)を読み始めた。このような直接的な映画だけでなく、『黙示録』が与えた影響は非常に広範囲に及んでいそうだ。

●参照
ハル・ハートリー『シンプルメン』、『はなしかわって』


奈賀悟『閉山 三井三池炭坑1889-1997』

2014-09-14 10:29:39 | 九州

奈賀悟『閉山 三井三池炭坑1889-1997』(岩波書店、1997年)を読む。

三井三池鉱山は、福岡県大牟田市を中心とした坑道の入り口から有明海の海底にまで広がる、巨大な炭鉱であった。その総延長は300kmとも言われたという。官営三池炭鉱が三井に払い下げられたのが1889年(大日本帝国憲法の公布年)、そこから明治、大正、昭和と、日本の経済発展に貢献した。歴史的役割を終え、本書が刊行された1997年に閉山。いまでは、坑道掘りの炭鉱は、日本国内では釧路にしか存在しない。

などと書くと、産業発展史の教科書のようになる。実際には、それは、無数の炭鉱労働者に対する暴力的な抑圧によって維持されていた。(なお、北九州の炭鉱は多数の小規模な炭坑の集合体、三井三池はより大規模なものだと思っていたが、本書によれば、三井三池でも、入口単位での管理をしていたようだ。)

炭坑労働者の間でも激しい差別的な扱いがあった。よく知られたことだが、当初は囚人使役があり(払い下げには、囚人使用権まで含まれていた)、やがて、中国や朝鮮から労働者を連れてきた(強制的に、あるいは、二年間などと騙して)。中国人労働者・朝鮮人労働者に対する扱いは熾烈を極めた。言うことをきかないと直接殺すこともあり、また、「使えなく」なってから、亡くなってからは、ひとりひとりとしては扱われなかった。

外国人だけではない。飢餓や貧困に苦しんでいた与論島からは多くの労働者が渡ってきて、港湾で働いた。かれらも差別の対象となった。(このあたりは、熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』に詳しい。)

戦後、会社はさらに効率化を進めた。つまり、労働条件の過酷化を進め、安全対策を適切に行わなかった。その結果として起きた事故が、1963年の炭塵爆発である。炭塵が放置され、あるきっかけで火が付き、爆発・落盤するとともに、発生したCOガスで、多くの労働者が亡くなり、また、激しい後遺症に苦しむこととなった。

しかし、このように因果関係が明らか過ぎるほど明らかな事故に対しても、会社や国の対応はあまりにも不適切だった。その過程では、原因を炭塵ではないとする「学者」や、誤った判断をくだす「医者」や、条件闘争のなかで個人を押しつぶそうとする「労組」や、経済発展を最優先させる「国」が、犠牲者に立ちはだかった。こう見ると、歴史は現在につながっているのだということがよくわかる。

●参照
熊谷博子『むかし原発いま炭鉱』
熊谷博子『三池 終わらない炭鉱の物語』
上野英信『追われゆく坑夫たち』
山本作兵衛の映像 工藤敏樹『ある人生/ぼた山よ・・・』、『新日曜美術館/よみがえる地底の記憶』
勅使河原宏『おとし穴』(北九州の炭鉱)
友田義行『戦後前衛映画と文学 安部公房×勅使河原宏』
本多猪四郎『空の大怪獣ラドン』(九州の仮想的な炭鉱)
佐藤仁『「持たざる国」の資源論』
外村大『朝鮮人強制連行』
原田正純『豊かさと棄民たち―水俣学事始め』
石井寛治『日本の産業革命』


旨いサウジアラビア

2014-09-14 00:41:12 | 中東・アフリカ

4回目のサウジアラビア。今回も、いちどだけ、カプサという羊肉の炊き込みご飯を食べたものの(しかも、羊の頭が骨ごと入っている)、大勢の仕事相手と一緒であり、頭がいっぱいで、あまり食に気が回らない。

そんなわけで、他の中東料理といえば、シリア料理、レバノン料理、ショッピングモールのフードコート。どれがどのように違うのか、よくわからない。旨いのではあるが、やはり、ビールが欲しい。言うまでもないことだが、アルコールはご法度である。

■ 蜂蜜

箱から取ってきたばかりの蜂蜜。何を隠そうこれが好物で、つい、沢山。

■ ABOU KAMAL(シリア料理)

安いシリア料理の店。と言っても物価はそれなりに高い。

チキンやケバブをクレープ状のパンと一緒に食べるメニューがいろいろあり、なかなか旨い。しかし、人参ジュースは昔のくさい人参そのものの味だった。

刻んだ野菜を食べていると、中に、カメムシのような虫が紛れていた。これも真っ当な野菜を使っている証拠だ、と、自分に言い聞かせた。

■ スターバックス

一番小さいコーヒーが300円程度であるから、味も値段も日本と同じ。Wifiも使える。東京でもニューヨークでもジャカルタでもバンコクでも、スタバがあると妙に安心してしまう。コンビニと同様に、同じ規格だからか。

ところで、冗談のように大きいクロワッサンを売っていた。動かず高カロリーなものを食べ、立派な体格になっていく国であることは間違いない。

■ フードコート

とあるショッピングモールの一角にあるフードコート。現地料理も、マクドナルドも、アンティ・アンズも、サブウェイも、サムライとか鎧とか妙な名前が書いてある日本料理もある。

取り敢えず欲しいものを指さして弁当箱に入れてもらうものにした。想像以上に旨かった。

■ KARAM(レバノン料理)

入ろうと思ったらアザンが鳴り響いた。こうなると店が閉じてしまって入店もできない。15分くらい待って、ようやく、ノンアルコール・ビールで乾杯。肉料理はさすがに旨い。ホモスというひよこ豆のペーストが名物のようだった。

■ チーズとかペーストとか

チーズの多くは山羊や羊の乳から作られていて、これが例外なくしょっぱいのは何故だろう。

ペーストにもいろいろあって、上のホモスの他にも、パンに合う甘いタイプは悪くない。

■ 東京レストラン(日本料理)

4時間をかけてダンマンに移動し、疲れていたこともあって、日本料理。

カツ丼を頼んでみると(豚肉を使えないため牛肉)、それなりに旨くはあって嬉しくなる。しかし、ご飯がパサパサで、残ってしまった。エジプトかイタリアのコメを使っているという話だが、コメの質が日本料理に向いていないのか、炊き方がよくないのかはわからない。

海外カツ丼勝負をするなら、ミャンマーの勝ち(2箇所しか食べていないが)。


アピチャッポン・ウィーラセタクン『Fireworks (Archives)』

2014-09-13 22:13:55 | 東南アジア

谷中のSCAI THE BATHHOUSEに足を運び、アピチャッポン・ウィーラセタクンの個展『Fireworks (Archives)』を観た。

同名の映像作品が中心となった展示である。

タイ北部、ラオスとの国境近くにあるノンカイ。アピチャッポンによる『ブンミおじさんの森』(2010年)の舞台も、ラオスから働き手が来る、このあたりの森の中だった。『Fireworks (Archives)』では、夜、花火や人工的な閃光により、不連続的に、寺院のオブジェや彷徨う人びとを浮かび上がらせている。

石で出来たオブジェには、さまざまなものがある。象、犬、猿、よくわからない生き物。それらは、おそらくは民間信仰の対象であり、またおそらくは中央に抑圧された人びとの表現の場である。森と人びとの息遣いとともに、潜在的な叫びが鮮烈に提示されているように思える。

●参照
アピチャッポン・ウィーラセタクン『ブンミおじさんの森』


ジョイス・キャロル・オーツ『Daddy Love』

2014-09-13 08:32:54 | 北米

サウジへの行き帰りに、ジョイス・キャロル・オーツ『Daddy Love』(The Mysterious Press、2013年)を読む。

6歳の男の子ロビーは、突然、駐車場で誘拐される。母親ダイナは、息子をさらったバンを止めようとして、顔も身体も滅茶苦茶にされてしまう。誘拐犯は、「ダディ・ラヴ」と名乗り、ロビーを自分の息子「ギデオン」として育て、支配する。 

この、ダディ・ラヴの狂気があまりにも怖い。まずは、顔と身体とが別個に開く木箱にロビーを閉じ込める。逃げようとすると銃で撃つ。友達作りを許さず、ギデオンに与えた犬が吠えると途端に銃殺する。やがて、ダディ・ラヴは、ギデオンを精神的に支配し、ギデオンは逃げる機会があっても逃げることができなくなる。

オーツは、短いセンテンスのひとつひとつにおいて「Daddy Loveは・・・」と書く。それは畳みかけるような技術であり、読む者にも強迫観念を抱かせるものだ。実際に、怖れながらも、次へ次へと読むことをやめることができない。しかも、この極端に独りよがりな「愛情」は、たとえその1パーセントであっても、おそらく誰もが身に覚えのある人間の狂気なのであり、だからこそ怖いのである。

ダディ・ラヴは、12歳になったギデオンに厭き、殺そうとする(彼の美意識では、もはやその年齢では純真さを失う)。ギデオンは逃げ、6年ぶりに発見され、親元に戻されることになる。しかし、時間は戻らない。母親の抱く恐怖は、また別の姿になっていく。このあたりの迫りくる描写もさすがである。 

●参照
ジョイス・キャロル・オーツ『Evil Eye』
林壮一『マイノリティーの拳』、ジョイス・キャロル・オーツ『オン・ボクシング』


ダンテ・ラム『魔警』

2014-09-13 00:16:16 | 香港

香港からの帰国便で、ダンテ・ラム『魔警』(That Demon Within)(2014年)を観る。

香港警察の主人公(ダニエル・ウー)は、生真面目だが、精神のバランスを欠き、しばしば暴走する。理由は、幼少時のトラウマであった。

宝石犯グループを追うが、その中心人物(ニック・チョン)は、主人公の幼少時に父親を殺した人物であり、その報復として殺した人物であり(つまり、もうこの世にはいない)、また自分の二重人格的な存在でもある。

出来が良いとはとても言えないサイコ・ホラー。せっかくのジョニー・トー映画の常連ニック・チョンを活かしてもいない。こんな映画作ってんじゃない。『火龍』(2010年)も、冴えない映画だった。ダンテ・ラムは自分には合わないようである。

●参照
ダンテ・ラム『コンシェンス/裏切りの炎』


2014年9月、アラビア砂漠

2014-09-11 10:40:12 | 中東・アフリカ

昨年末以来およそ9か月ぶりのサウジアラビア。何日かリヤドに滞在し、東部のダンマンまで自動車で移動した。飛行機が満席で取れなかったのだ。

250kmくらいを、休憩を含め、3時間半くらいで走る。高速道路はしっかりと整備されているが、ドライヴインがほとんどない。走っている自動車の半分くらいはトラックだが、なかには、昔のフェアレディZもいた。

このあたりは、アラビア砂漠のなかでも北部のネフド砂漠の一部である(南部がルブアルハリ砂漠)。リヤド郊外は白かったが、やがて、有名な赤い砂漠へと変わっていった。先日訪れたゴビ砂漠では岩や草が目立っていたが、ここはずいぶん植生が異なり、灌木があってもほとんどは砂ばかり。ときどき、ラクダを連れたベドウィンの姿が見えた。


フェアレディZ



何かを燃やしている


赤い砂漠


赤い砂漠


ベドウィン


ガソリンスタンドの音楽ショップ


スタバみたい


映画の看板か


※写真はすべて、Nikon V1+30-110mmF3.8-5.6

●参照
2012年11月、リヤドうろうろ
2012年11月、リヤドの朝
リヤドの国立博物館
リヤドのビルと鍵と扉
保坂修司『サウジアラビア』


ギャレス・エドワーズ『ゴジラ』

2014-09-07 04:46:25 | 北米

香港からリヤドに向かう機内で、ギャレス・エドワーズ『ゴジラ』(2014年)を観る。

(悪い意味で)典型的なアメリカ映画である。軍人はヒロイックな使命感に満ちており、自己犠牲を厭わない。妻子が主人公を待って大変な目に遭い、最後に抱き合う。

ゴジラの造形にも違和感がある。あごがない。背びれのラインが三本。叫び声が違う。目が小さすぎる。そんなに強くない。人間の業を背負った雰囲気が皆無。

ああ、あほらし。


キース・ジャレット『Facing You』

2014-09-06 06:47:30 | アヴァンギャルド・ジャズ

キース・ジャレット『Facing You』(ECM、1971年)は、活動の最初期に吹きこまれたソロピアノ作品である。

それにしても、70年代のキースは(も)素晴らしい。このソロピアノでは、明快なタッチと明快な和音とが耳を惹きつける。アメリカ的というのか、フォーク的というのか、奇妙な明るさもある。もっとも、この後に現在まで断続的に発表されているソロピアノ作品では、過激な抒情性と張り詰めるような緊張感とが支配するようになっていき、またそれも魅力的なのだが。

Keith Jarrett (p)

●参照
キース・ジャレット『Arbour Zena』
キース・ジャレットのインパルス盤
70年代のキース・ジャレットの映像
キース・ジャレット『Standards Live』 
ピーター・ブルック『注目すべき人々との出会い』、クリストのドキュ、キース・ジャレットのグルジェフ集
 


マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』

2014-09-05 23:38:07 | 北米

マーク・トウェイン『トム・ソーヤーの冒険』(新潮文庫、原著1876年)を読む。名翻訳家・柴田元幸による2012年の新訳である。

もちろん少年時代にジュブナイル版を読んだし、映画などで、漆喰の塀塗り、家出と悪党の発見といった有名なエピソードに何度も触れてもいる。(そういえば、父親が8ミリか16ミリの映画フィルムと映写機をどこかから借りてきて、自宅で上映会をやったことがあった。弟の顔にケーキをぶつけるラストシーンだった。)

それでも、あらためてオトナになって読んでみると、描写が実に味わい深い上に、幼少期の記憶をほじくり返されるような感覚を覚える。少年時代が甘美な記憶に彩られているというわけではない。むしろ逆で、思い出すと情けなくて叫びたいほど恥ずかしいことばかり。それゆえ、トムに感情移入しながらも、いたたまれない気持ちになるわけである。

トウェインがこの小説を執筆したのは南北戦争の後だが、かれは、戦争前を思い出しながら書いたのだという。黒人差別もある。アメリカの田舎(ミズーリ州)は、こんな雰囲気だったのかという楽しさもある。

些細なことだが、口琴(ジューズハープ)が、当時からあったのだということが発見だった。いまと同じ形だったのかな。

●参照
酔い醒ましには口琴 


古田元夫『ホー・チ・ミン』

2014-09-04 22:55:19 | 東南アジア

古田元夫『ホー・チ・ミン 民族解放とドイモイ』(岩波書店、1996年)を読む。

ホー・チ・ミンの評伝を探したのだが、何しろ、いま売られている本でそのようなものが見当たらない。そんなわけで、割と新しい本書を入手した。よくまとまった本である。

ホーが生まれた1890年前後には、既にフランスの支配により、中国との行政・教育上のつながりは断たれていた(ホーの父の時代は、科挙試験がエリートへの門であった)。日露戦争(1904年~)の後には、ベトナムでも、日本に学ぼうとする運動があったという。しかし、ホーの父は、フランスに抗するために別の力に与することを良しとせず、フランス式教育を選んだ。仮に、ホーが日本に来て、孫文、頭山満や大川周明らのアジア主義者、インドから亡命してきていたラス・ビハリ・ボースらと接していたとしたら、その後の歴史はまた違ったものになったのかもしれないと考えると、興味深い。

やがて、1910年代から20年代にかけて、フランスにおいて、抑圧された自民族のことを考えるナショナリストとしての面と、レーニン主義に影響された共産主義者としての面とを持つようになる。このことは、ホーが、自分自身を極めてあやうい位置に置いていたことを意味する。思想それ自体についてではない。ソ連のコミンテルンが、ソ連を頂点とするエリート主義・教条主義へと突き進んでゆき、ホーが考えたような、地域からの独自な運動、階級闘争とは違う民族解放運動とは、相矛盾するものであった。

ここでも、たとえば独自の革命をなし遂げた者が粛清され、ソ連色に染まったモンゴルといった国とは、随分異なった道を歩むことができたわけである。中国に接近した時期もあった。

もちろん、最大のインパクトを持つホーの功績は、大戦終了時の独立と、長いインドシナ戦争・ベトナム戦争の主導である。著者によると、フランスをやぶったディエンビエンフーの戦い(1954年)や、アメリカに打撃を与えたテト攻勢(1968年)は、周辺国や相手国の状況を分析してこその成果であったのだという。

ホーの一貫して高い評価は、親しみやすさや、政治的な綱渡りの手腕に加えて、好機を見出す能力によるものでもあったということか。

ホー・チ・ミン廟、2012年6月

●参照
石川文洋写真展『戦争と平和・ベトナムの50年』
石川文洋講演会「私の見た、沖縄・米軍基地そしてベトナム」
石川文洋『ベトナム 戦争と平和』
大宮浩一『石川文洋を旅する』
スーザン・ソンタグ『ハノイで考えたこと』
伊藤千尋『新版・観光コースでないベトナム』
枯葉剤の現在 『花はどこへ行った』
『ヴェトナム新時代』、ゾルキー2C


エド・ブラックウェルとトランペッターとのデュオ

2014-09-04 07:33:50 | アヴァンギャルド・ジャズ

最近、ワダダ・レオ・スミスエド・ブラックウェルと共演した盤『The Blue Mountain's Sun Drummer』(Kabell Records、1986年)をよく聴いている。

この形となれば、どうしても、ドン・チェリー『Mu』(BYG、1969年)を思い出してしまう。やはりエド・ブラックウェルとのデュオである。わたしが持っているのは、ジャケットもオリジナルと違うカップリング盤(もともと2枚のLPで出されていた)。

聴き比べてみるとさらに面白い。スミスのトランペットには、無限空間におけるヴィジョナリーな響きがある。一方、チェリーのトランペットは、手作業的で、自分の手の届くところから、やはり広大なヴィジョンを聴く者に想像させるような感覚。そして、両盤ともに、ブラックウェルのタイコは一聴してすぐにそれとわかる。土俗的とでもいうのか、ダサカッコよくもあり、親しみやすくもあり。

Wadada Leo Smith (tp, flh, fl, mbira, voice)
Ed Blackwell (ds, perc)

Don Cherry (pocket tp, p, indian fl, bamboo fl, bells, perc)
Ed Blackwell (ds, perc, bells)

●参照
エド・ブラックウェル『Walls-Bridges』 旧盤と新盤
カール・ベルガー+デイヴ・ホランド+エド・ブラックウェル『Crystal Fire』
ワダダ・レオ・スミス『The Great Lakes Suites』
ワダダ・レオ・スミス『Spiritual Dimensions』
ワダダ・レオ・スミスのゴールデン・カルテットの映像
ドン・チェリーの『Live at the Cafe Monmartre 1966』とESPサンプラー