Sightsong

自縄自縛日記

ミルフォード・グレイヴス+ビル・ラズウェル『Space / Time * Redemption』

2015-01-17 07:57:59 | アヴァンギャルド・ジャズ

ミルフォード・グレイヴス+ビル・ラズウェル『Space / Time * Redemption』(TUM Records、2013年)を何度も聴いている。

Milford Graves (ds, perc)
Bill Laswell (b)

あっと声を出してしまうほど意表を突いた組み合わせ。グレイヴスがアンソニー・ブラクストン、ウィリアム・パーカーと組んだ『Beyond Quantum』も衝撃的だったが、そのときの仕掛け人は、このビル・ラズウェルだったという。名前が演奏スタイルの代名詞になるような音楽家たちを組ませるというのは、異種格闘技戦に似た興奮がある。

ラズウェルによる電気音楽は、聴き手を置いてけぼりにして妙に壮大な宇宙のヴィジョンを展開する。しかも、それは「かつて見た未来」のようで、テンションが無理やり励起されながらも哀しい気持ちになってしまう(否定的な意味ではなく)。

それに対して、登場以来、アフリカ回帰を演奏に取り入れることを意識していたであろうグレイヴスのタイコ。かつての荒々しさは無いのかもしれないが、演奏はやはりこの人だけのスタイルなのであり、巨大な異物ぶりは永遠に健在なのだった。

●参照
ブラクストン、グレイヴス、パーカー『Beyond Quantum』
ローウェル・デヴィッドソン(グレイヴス参加)
デイヴィッド・マレイ『Saxophone Man』(グレイヴス参加)
『Improvised Music New York 1981』(ラズウェル参加)
デレク・ベイリー+トニー・ウィリアムス+ビル・ラズウェル『The Last Wave』


マリリン・クリスペル+バリー・ガイ+ジェリー・ヘミングウェイ『Cascades』

2015-01-16 00:33:16 | アヴァンギャルド・ジャズ

マリリン・クリスペル+バリー・ガイ+ジェリー・ヘミングウェイ『Cascades』(Music & Arts、1993年)を聴く。

Marilyn Crispell (p)
Barry Guy (b)
Gerry Hemingway (ds, vib, gamelon)

いつも感じることだが、バリー・ガイの音は、弦をかちかちに張ったベースを力強く弾いているのか、岩のように硬い。おそらくナマで聴いたならたいへんな高密度のパルスが聴き手の身体を震わせるのではないかと想像する。今後そのような機会が訪れるだろうか。

マリリン・クリスペルのピアノもまた硬質で知的。あえて中心を設定せずあらゆる方面から攻めてくるというのか、あらゆる場所で火花を散らすというのか。

このふたりと、やはりクリアな中心を設定せずマッスで攻めるジェリー・ヘミングウェイ。こんどの来日時にこのイメージがどう変わるのか楽しみなのだ。

●参照
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(マリリン・クリスペル)
ペーター・ブロッツマン(マリリン・クリスペル)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(バリー・ガイ)
マッツ・グスタフソン+バリー・ガイ『Frogging』
レジー・ワークマン『Summit Conference』、『Cerebral Caverns』(ジェリー・ヘミングウェイ)


日野元彦『Sailing Stone』

2015-01-14 07:19:37 | アヴァンギャルド・ジャズ

日野元彦『Sailing Stone』(Fun House、1991年)。普段はほとんど聴かないジャズロック路線だが(ストーンズを4曲も)、たまにかけると耳が吸い寄せられる。

日野元彦 (ds)
Steve Swallow (b)
Karen Mantler (org, harmonica)
Mike Stern (g)
Marc Muller (g)
Dave Liebman (ts, ss)
日野皓正 (cor)

故・日野元彦のドラムスは、固い鉄の箱の中にさまざまな要素をぎっちり詰め込んだような感覚で、エネルギーとスタイルとが同居していた。(1999年に亡くなってからもう15年以上が経つ。大西順子との共演をいちど観たきりだ。)

この盤では、そのような「ご馳走感」が、本人のプレイだけでなくぎっちり詰まっている。なかでも、スティーヴ・スワロウの柔軟でゆっくりとしたベースが音楽全体に甘酸っぱいような味を付けていて動悸動悸する。カレン・マントラーのオルガンは生き物のようなナマ感があってとてもよい。ヒノテルのためて絞り出すトランペットや、スタイルだけを追求したようなデイヴ・リーブマンのサックスも、やはり普段は好みと違っていてあまり聴かないのだが、くだらぬ思い込みを捨てて聴けば、実にハマっている。

同じレーベルから出された本田竹広『BOOGIE-BOGA-BOO』も、同じテイストのものとしてまた聴きたくなってきたりして。

●参照
本田竹広『BOOGIE-BOGA-BOO』(日野元彦参加)


桜井国俊さん講演会「日本の未来を奪う辺野古違法アセス」

2015-01-12 23:06:10 | 沖縄

法政大学に足を運び、桜井国俊さん(沖縄大学名誉教授、沖縄環境ネットワーク世話人)の講演会「日本の未来を奪う辺野古違法アセス」を聴講した(2015/1/12)。講演の主旨は、辺野古新基地の環境アセスの違法性、それを見逃すことにより日本の環境アセス制度が死んでしまうことの2点であるとされた。

なお、桜井さんは、「普天間移設」という言葉を使わなかった。それはおそらく、危険な普天間基地の撤去と辺野古新基地の建設とのパッケージを敢えて前提としていないからではないかと思えた(それは歪な政治合意に過ぎない)。

※文責は当方にあります

○ベトナム戦争当時の1966年、辺野古に、アメリカ海兵隊による飛行場と海軍による軍港とが計画された。仮に施政権返還前の当時に建設されていたら、当然それはアメリカのおカネによるものであった。今回は日本も少なからず負担し、また、作る者(日本)と使う者(アメリカ)とが異なるという違いがある。
○アセスはそもそも、地元も含めて事業の必要性について合意がなされている場合に、環境についての配慮も検討することが目的である。しかし、沖縄では、一貫して反対してきている。
○アセス法では、方法書(調査の方法を定める)→ 準備書(評価の一次的な結果を示す)→ 評価書(修正後、評価の結果を示す)の順を踏むと定められている。しかし、辺野古においては、方法書の前に大掛かりな環境現況調査が実施された。また、方法書には、オスプレイのことや設備の詳細など、重要なことが記載されておらず、後で修正された(後出しジャンケン、意見陳述権の侵害)。方法書・評価書ともに、市民の意見を聞こうという意思が極めて薄い方法で公告・縦覧がなされた。
○「後出しジャンケン」の中身には、辺野古弾薬庫を有効活用するための弾薬搭載エリアや軍港化も含まれている。オスプレイの配備については、1996年SACO合意段階でその意図が示されていたはずのものである(公然の秘密)。
○評価書の県への強行提出(2011年末)は、アセス法改正(2012/4/1)によって知事が環境大臣の助言を聞かなければならない事態を避けるためでもあっただろう。
○評価書に対する知事意見(まだ仲井眞知事は反対の立場であった)、そのバックアップをした県の環境影響評価審査会、有識者意見すべて、アセスの結果について極めて厳しい評価をくだした(2012年末)。また、公有水面埋立法に基づく埋立承認申請に対し、名護市長および県の環境生活部は、やはり承認不可という意見を出した。しかし、知事は態度を変更し、それらの評価や意見を顧みず承認してしまった(2013年末)。
○調査自体も、ジュゴンの棲息状況を把握するために適切なものであったとは言えない。ジュゴンを追い出して、いないことにされた可能性もある。
○むしろ、沖縄に3頭棲息するジュゴンの1頭が、辺野古の海草を求めてやってきているのが実状。また、3頭の個体に対する「害を低減」するのではなく、将来世代のジュゴン個体群の維持を主眼に置くべきである。
○したがって、民主的なプロセス、科学的な適用手法の両面において最悪のアセスであったということができる。
○公有水面埋立法での前知事の承認過程で法的な瑕疵があれば「取り消し」、そうでなくても反対の民意が示されているという理由で「撤回」ができるはずである。

続いて、原科幸彦さん(千葉商科大学教授)が登壇した。原科さんは、『環境アセスメントとは何か』という良書を書いた第一人者である。

○環境基本法(1993年)に基づくものとして制定された環境アセス法だが、その法制化の段階で、本来の主旨からずれていった。最大の問題は、対象とする事業を限られた巨大事業だけにしてしまったことであった。
○したがって、日本のアセス実施件数は年間70件程度であり、アメリカの年間6-8万件、中国の年間数十万件に遠く及ばない。事業検討の初期段階での簡易アセス導入、それによる市民との情報共有、アセスにかかわる事業者の知見蓄積などが必要なはずである。実際に、中国でも、市民の声が大きくなる「しみ出し効果」が見られている。
○また、専門家としての倫理が不可欠である。
○事業実施を大前提とした形だけの応答は、本来の姿とは正反対である。辺野古の場合、使う主体がアメリカということも影響しているのではないか。

会場からはさまざまな意見が出た。以下、大事な論点。

○アセスの対象から「上物」を排除することはおかしい。基地建設だけが対象ではなく、それによって使うオスプレイの飛行影響なども事業とセットである。
○沖縄の外において、埋立用の土砂を採取し運搬することになる(沖縄で採取されている土砂の19年分の量)。「土砂の採取業者がそれぞれアセスを行うべき」となっているが、これは明らかにおかしいことだ。

●参照
原科幸彦『環境アセスメントとは何か』
辺野古の似非アセスにおいて評価書強行提出(2011年末)
シンポジウム 普天間―いま日本の選択を考える(2)(2010年、法政大学、桜井氏講演)
ジュゴンの棲む辺野古に基地がつくられる 環境アセスへの意見(4)(2009年、準備書)
問題だらけの辺野古のアセスが「追加・修正」を施して次に進もうとしている(2008年、方法書の修正)
辺野古アセス「方法書」への意見集(2007年)
島袋純さん講演会「"アイデンティティ"をめぐる戦い―沖縄知事選とその後の展望―」(前回の法政大学講演)


ウィレム・デ・クーニング展@ブリヂストン美術館

2015-01-12 21:20:54 | 北米

会期末になってしまい、慌てて、ブリヂストン美術館に足を運び、ウィレム・デ・クーニング展を観る。

オランダ生まれだが、アメリカに渡って活動し、抽象表現主義の代表的な画家のひとりだとされる。

わたし自身がはじめてデ・クーニングのことを意識した直後に亡くなってしまい(1997年)、ちょうど東京都現代美術館で開かれていた「20世紀絵画の新大陸 ニューヨーク・スクール」展において、絵の横のプレートに没年が書き込んでなかったことを覚えている。そのときの印象は、「汚い」に尽きた。

今日の印象もさほどは変わらない。ただ、たまたま隣にいた女性二人組が、絵を指さして「このピンク色なんか綺麗」とコメントしていたのが聞こえた。実はそれにも共感する。女性の裸体、しかも美醜も何もあったものではない抽象化を経た色の塊である。脂肪のようにも見える。リアルを遥かに通過したリアルであるようにも見える。汚くて同時に綺麗、このような画家は他にはいなかった。

ところで、常設展でふと思ったこと。

●ザオ・ウーキーは、ターナーを意識したことがあっただろうか。
●ゲルハルト・リヒターが、白髪一雄(とくに「観音普陀落浄土」)を観たことはあっただろうか。


ミラン・クンデラ『冗談』

2015-01-12 01:02:55 | ヨーロッパ

チェコ出身の作家ミラン・クンデラ『冗談』(原著1967年)が、なんと、岩波文庫から新訳として出された。

これまでのみすず書房版(改訂版)は1991年にチェコで出版されたものを底本としているが、岩波文庫版は、クンデラ本人が全面的にチェックした1985年のフランス語版を底本としている。プラハの春(1968年)の後のソ連軍侵攻以降、クンデラの作品は母国において発禁となり、本人はフランスに移住するのだが、そのフランス語への訳出時に少なからず改悪がなされた。今回の底本は、それを含め、クンデラ自身が冗長な箇所を削ったりもしたものだという。したがって、これがクンデラの望む版だということができる。

それにしても、最近の岩波文庫は、ラテンアメリカ文学も含め、現代小説にも力を入れているようで大歓迎だ。

若く気位の高いルドヴィークは、共産党の仲間のガールフレンドを狼狽させようと、手紙に、「楽観主義は人民の阿片だ!」「トロツキー万歳!」などと書いた。もちろん若さゆえの軽々しい冗談だったが、そのことが発覚し、ルドヴィークは党に査問され、弁解も受け入れられることなく、党を追放される。かれの行先は炭鉱であった。

絶望と諦めの中で、かれは、イデオロギーや理想とは無関係なところで生きる女性ルツィエと出逢う。ルドヴィークはルツィエに性をもとめ、そのために彼女を失う。ルツィエは犬のように別の町に逃げた。

時が経ち、ルドヴィークは、おのれの人生を狂わせた男の妻ヘレナと出逢う。かれが実行したことは復讐であった。しかし、敵であったはずの男は軽々とイデオロギーを捨て、また、妻も捨てていた。

小説のプロットは斯様に恐ろしいものだ。冷戦時代にあって、東欧の共産主義国家という過酷なポジションや、全体主義の非人間性といった側面が注目されたことはわからなくはない。

しかし、この小説の価値はそのような政治的な背景にあるのではない。登場人物たちの独白がつぎつぎに入れ替わり、かれら・かの女たちそれぞれの声が時間と肉体を超えてお互いに反響するさまが、素晴らしいのである。反響は全体の構成ゆえのものでもあり、またその一方で、ひとつひとつの独白には哲学の襞が描きこまれている。そして、随所で語られるモラヴィア地方の伝統音楽が、作品全体に重なってゆく。洗練と執念とが同居しており、見事という他はない。読みながら感嘆し、唸ってしまう。

ところで、解説によれば、ソ連侵攻前に、この『冗談』がチェコにおいて映画化もされたのだという。映画化されたクンデラ作品は『存在の耐えられない軽さ』だけではなかった。

●参照
ミラン・クンデラ『不滅』


ジョン・イラバゴン@スーパーデラックス

2015-01-11 08:42:19 | アヴァンギャルド・ジャズ

六本木のスーパーデラックスに足を運び、ジョン・イラバゴンの演奏を観た(2015/1/10)。

Jon Irabagon (ts)
John Hegre (g)
Nils Are Dronen (ds) 

ノルウェーからのギターとドラムスのふたりは、破壊と野蛮が大好きだと言わんばかりにノイズを発しまくる。その大音量の中で、イラバゴンは終始目を閉じて、テナーサックスを吹き続けた。まずは極端な倍音でこちらのテンションを高める。サックスの破裂音、異音に擬音、タンポ音もある。ぷすぷすぷすという擦音を循環呼吸でずっと吹くこともあった。45分の短距離走のあと、ようやく開いたイラバゴンの目は充血していた。

素晴らしかったとは言え、ノイズに集中力の半分を持っていかれるのはあまり好みでない。グループ「Mostly Other People Do the Killing (MOPDtK)」での演奏など、より繊細な状況でのイラバゴンの音を聴いてみたい。最近では、メアリー・ハルヴァーソンとも共演しているようでもあり興味津々。

ところで、今回のライヴは4グループによる。それぞれ充実していて大満足だったのではあるが、何しろ最後に灰野敬二。鼓膜が破れそうになった。まだ耳鳴りがする・・・と、1年前にも同じようなことがあった(本田珠也SESSION@新宿ピットイン)。

●参照
直に聴きたいサックス・ソロ その2 ジョン・イラバゴン、柳川芳命
MOPDtK『Forty Fort』
MOPDtK『The Coimbra Concert』


エスペランサ・スポルディングの映像『2009 Live Compilation』

2015-01-11 07:50:19 | アヴァンギャルド・ジャズ

エスペランサ・スポルディングのDVD『2009 Live Compilation』(2009年)を観る。

Esperanza Spalding (b, vo)
Otis Brown III (ds)
Leo Genovese (p)
Ricardo Vogt (g)

プライヴェート盤か、同年のライヴのテレビ放送が2種類収録されている(2009/6/16、7/23)。

ベースを弾きながら口を大きく開けて気持ち良さそうに歌うエスペランサは魅力的。羽根のようだというと月並みだが、実際に軽やかなダブルベースのソロだ。これがエレキベースになるとまた調子が変わって、ファンキーでノリノリ。いやイイな。エスペランサのCDは適当に試聴しただけだが、あらためて聴こうかな。オーティス・ブラウンIIIのドラムスはスタイリッシュ。

ところで、2回のライヴのどちらでも、ウェイン・ショーターへの敬意を口にして、「Endangered Species」を演奏している。『Atlantis』に収録されている曲である。いかにもショーターらしいミステリアスでうねうねとした曲想であり、エスペランサの明るさもあって良い演奏になっている。レイチェルZとのコラボレーションが傑作『High Life』を生んだように、暗いシビアさではない要素をショーターのグループに入れればいいのに・・・と思ったところ、エスペランサとも共演してはいるのだね(彼女は緊張気味に見える)。

●参照
トム・ハレル『Colors of a Dream』(エスペランサ・スポルディング参加)


ミノルタTC-1修理

2015-01-10 08:46:34 | 写真

ミノルタのTC-1というカメラ。デジタル時代の今ではさほど驚くほどでもないが、35mmフィルムを使うカメラとしては異常なほどに小さい。裏蓋を開けてフィルムを装填すると、もう「ぎちぎち」である。胸ポケットに入るのはいいとして、決して使いやすくはない。つい指が写ってしまうことが何度かあったし、スポット測光のボタンなんて使ったことがない。

ただ、Gロッコール28mmF3.5の写りは抜群で、カメラの凝縮感と同様にパキパキのコントラストで、妙にドラマチックなのである。その秘密はレンズそのものだけではなく、絞りが完全に円形であること、レンズからフィルム面までの遮光が完璧であることなど、冗談のように執念深い工夫にもある。

1996年から2005年まで生産されて、ずっとカタログを眺めては憎からず思っていたのだが、結局、2年ほど前に入手した。ところが、昨年10月にモンゴルでこれを使っていたところ、突然液晶画面が全部表示され、動かなくなってしまった。電池を取り換えてもいろいろやっても無駄。

そんなわけで、カメラ部門を手放したコニカミノルタの修理を手掛けているケンコー・トキナーに電話して、修理を依頼した。日通が梱包材をもって集荷にくるので、こちらは電池だけ抜いておけばよい。見積もりはそれからだが、おそらく2万円くらいはかかってしまう。とほほ、仕方がない。

ところで、TC-1の生産中止から10年が経つ。ものにもよるが、高級品とされる種類のカメラであっても、補修部品をメーカー側が持っておく期間は10年間である。つまり、TC-1を安心して修理することができるのは今年までということだ。(なお、やはり惜しまれつつ2001年に生産を中止したペンタックスLXは、もうオーバーホールや修理をメーカーで受け付けない。あのLXが・・・。)


M型ライカと比べても格段に小さい


完全な円形絞り


ソール・バスのデザインによるロゴ


妙にドラマチックな写り(ハノイ、2013年)


トリスタン・ホンジンガー『From the Broken World』、『Sketches of Probability』

2015-01-09 00:28:41 | アヴァンギャルド・ジャズ

トリスタン・ホンジンガーの音楽にはえも言われぬ魅力があって、聴く人によってその理由は違うのだと思うのだが、それはたとえば、チェロの音のなめらかさや深さであったり、幽玄さであったり、手作り感であったり、遊び心や祝祭感覚であったりに違いない。最大の魅力はそれらの混在と混沌かもしれない。そんなわけで、次の2枚をときどき取り出して聴いている。

■ 『From the Broken World』(東芝EMI、1991年)

Tristan Honsinger (cello)
渋谷毅 (p, org)
近藤等則 (el-tp)

浅川マキがプロデュースした「ゼロアワー」シリーズ3枚のうち1枚(他には、宮澤昭『野百合』という大傑作もある)。

近藤等則は「飛び入り」であって、主役はソロと渋谷毅とのデュオである。しかも、弦の多重録音を行っている。

これは、ホンジンガーの魅力のうち「幽玄」か。実ははじめて聴いたとき、つかみどころが無くて、何が面白いのかよくわからなかった。実際、これはそのつかみどころのない音楽でもあって、聴くほどに味わいが増してくる。渋谷さんのピアノやオルガンも「幽玄」である。「Jazz Life」誌の1995年9月号(浅川マキ特集号)には、ホンジンガーへのインタビューもあり、まさに次のようなやり取りがある。しかし、わたしなどにはその「瞬間」がわからない。

「―――ところで、『From the Broken World』では、渋谷毅さんとも共演されていますが、どうでしたか?
TH: 彼のピアノは、まるで幽霊のようだった。そこにあるようで、ないようで、現れたと思うと消えたり、不思議な音なんだ。だけど、私はこのセッションの中で、1度だけ彼を捕まえた瞬間があったんだ(笑)。」

■ 『Sketches of Probability』(AIAI、1996年)

Katie Duck (dance, voice)
Rick Parets (actor, voice)
Peggy Larson (voice)
Sean Bergin (as, fl, voice)
Tobias Delius (ts, voice)
Augusto Forti (cl, voice)
Tristan Honsinger (cello, voice)
Joe Williamson (b)
Alan 'Gunga' Purves (perc, voice)

こちらは、室内楽と演劇と祝祭、その混沌である。

「ボッティチェリを探しているんだ!」「おお、かれはもう死んでいるよ!」などといった戯言と浮かれ話、歌、演奏。人数が少なくてもホンジンガーを捕捉できないが、大人数でのお祭りでもやはり捕捉は無理だ。奇妙な躁状態に連れていかれる面白さがある。


トリスタン・ホンジンガー(2010年) Leica M3、Elmarit 90mmF2.8(初代)、PRESTO 400(+2)、ケントメアRC、3号フィルタ


トリスタン・ホンジンガー(2007年) Leica M3、Elmarit 90mm(初代Mマウント)、TMAX400(+2)、フォルテ・ポリウォームトーンプラスRC、2号フィルタ使用

●参照
「KAIBUTSU LIVEs!」をエルマリート90mmで撮る
「KAIBUTSU LIVEs!」をエルマリート90mmで撮る(2)
1988年、ベルリンのセシル・テイラー


ルイ・ヘイズ@COTTON CLUB

2015-01-07 23:49:58 | アヴァンギャルド・ジャズ

なんとルイ・ヘイズ来日、約25年ぶりだという。その風神ぶりを体感すべく、丸の内のCOTTON CLUBに足を運んだ(2015/1/7、2nd set)。

Abraham Burton (ts)
Steve Nelson (vib)
David Bryant (p)
Dezron Douglas (b)
Louis Hayes (ds) 

最初の曲、マルグリュー・ミラーの「Soul-Leo」。どうもさほどのエネルギーの放出がなく、エイブラハム・バートンのテナーも重たい。ああこんなものかなと思っていると、身体が温まったのか、調子が上がってきた。

ヘイズのドラムスは一音一音のアタックが強烈で、硬質な破裂音を発する。これに絶えることのないシンバルワークが重なるともうたまらない。ずっと一挙手一投足を凝視してしまった。たしかにかつての人間扇風機のような風圧はないのかもしれないのだが、それを感じることはできる。それで十分である。

これまでピンとこなかったスティーヴ・ネルソンのヴァイブも、勢いに乗って攻めるところを見ると、聴きなおしてみようかと思えた。


終演後、サインをいただいた

●参照
ルイ・ヘイズ『Return of the Jazz Communicators』
ルイ・ヘイズ『Dreamin' of Cannonball』 
ルイ・ヘイズ『The Real Thing』
フレディ・ハバード『Without a Song: Live in Europe 1969』


"カラパルーシャ"・モーリス・マッキンタイアー『Dream of ----』

2015-01-07 00:09:58 | アヴァンギャルド・ジャズ

気が向いて、"カラパルーシャ"・モーリス・マッキンタイアー『Dream of ----』(CIMP、1998年)を聴く。

"Kalaparusha" Maurice McIntyre (ts, fl)
Michael Logan (b)
Pheeroan akLaff (ds)

2013年に亡くなったときは一瞬だけ再注目されたものの、昔から地味な存在のサックス吹きである。シカゴAACMの中にあってこの普通さであれば仕方がないのかもしれない。

改めて聴いてみても、渋い、とか、地味、とか、乾いてる、といった言葉しか頭に浮かばない。もっとも、地味で渋いブルースはいいものだ。(ところで、同じCIMPレーベルから出されているフランク・ロウの作品でも、同じテイストの乾きを感じたのだが、これはレーベルの音作りによるものだろうか?)

むしろ、フェローン・アクラフの機敏かつ力強いドラムスが聴きどころなのかもしれない。わたしはこのドラマーが昔から好きなのだ。どうやら今年(2015年)の秋には山下洋輔ニューヨークトリオの日本ツアーが予定されているようで、久しぶりにアクラフやセシル・マクビーのプレイを体感しに行こうかと思っている。


フェローン・アクラフ、2004年 Leica M3、Pentax 43mmF1.9、PRESTO 1600、イルフォードマルチグレードIV(光沢)、2号フィルタ

●参照
”カラパルーシャ”・モーリス・マッキンタイアー『Forces and Feelings』
フェローン・アクラフ、Pentax 43mmF1.9


ジョン・チカイ『In Monk's Mood』

2015-01-06 06:57:18 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョン・チカイ『In Monk's Mood』(Steeple Chase、2008年)を聴く。

John Tchicai (as)
George Colligan (p, org)
Steve Laspina (b)
Billy Drummond (ds)

セロニアス・モンク集であり、意表を突いてくるのかと思いきや、別にけれん味やサプライズはない。なんだか最初は物足りない思いで一杯だった。それというのも、「フリージャズの闘士」的な予断を持って臨むからでもあった。

そのようなくだらぬ決めつけを排して耳を傾けると、悪くないどころか味わいがある。チカイの音色は強弱を微妙に揺れ動いて、しかもフレーズに迷いがあるようで、押し出しは決して強くない。しかし、トーンの揺れ動きは艶やかさでもあり、微妙なゾーンこそ聴きどころではないのかなと思えてきた。

ジョージ・コリガンのハモンドオルガンもその微妙なゾーニング設定を手助けしている。また、ビリー・ドラモンドの呻吟しながら繰り出すパルスも、その呻吟ぶりを思い出すと愉快。


ビリー・ドラモンド(2014年6月、NY SMOKE) 

●参照
ロヴァ・サクソフォン・カルテットとジョン・コルトレーンの『Ascension』(チカイ参加)
『Jazz in Denmark』 1960年代のバド・パウエル、NYC5、ダラー・ブランド(チカイ参加)
藤岡靖洋『コルトレーン』、ジョン・コルトレーン『Ascension』(チカイ参加)
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(チカイ参加)
ESPの映像、『INSIDE OUT IN THE OPEN』(チカイ参加)
ジェレミー・ペルト@SMOKE(ドラモンド参加)


はらだたけひで『放浪の聖画家 ピロスマニ』

2015-01-04 22:08:21 | 北アジア・中央アジア

はらだたけひで『放浪の聖画家 ピロスマニ』(集英社新書、2014年)を読む。

ニコ・ピロスマニ。19世紀後半から20世紀初頭までを生きたグルジアの画家である。

その素朴かつ透徹した画風は、一度観ると魅せられ忘れられない。わたしももちろん以前から知っていたものの、なかなか実物に接する機会がなかった。そんなわけで、2008年に渋谷Bunkamuraで開かれた『青春のロシア・アヴァンギャルド』展において何点も目の当たりにできたことは嬉しかった。

本書の著者は、まさにピロスマニの絵に魅了され、グルジアにも足を運び、研究し続けてきた人である。美術の専門家ではなく、愛情を向けてきた人なのだ。それゆえに、作品のひとつひとつに入り込み、それらが描かれた背景やピロスマニの心情に思いを馳せることができるのだろう。これが滅法面白く、また興味深い。

絵だけに執着したピロスマニは、プライドが非常に高く、決して周囲とうまくやっていたわけではなかった。そのため、終生不遇であった。その一方で、生活圏内のひとびとに愛された存在でもあったようだ。そして、自民族の生活文化や歴史や宗教をとても重んじた(というより、それがかれの世界であったというべきか)。

中世グルジアの詩人ショタ・ルスタヴェリも敬愛の対象であったというのだが、ここで思い出すのは、ニキータ・ミハルコフ版『12人の怒れる男』だ。オリジナルのアメリカ映画とは異なり、映画で冤罪を着せられるのはチェチェンの少年。陪審員のひとりは、少年の属性(チェチェン、貧困)に起因する偏見から自由になれない他の陪審員の発言に対し、「それではカフカス出身だからといって、ショタ・ルスタヴェリも、セルゲイ・パラジャーノフも、ニコ・ピロスマニも、能無しだったというのか!」と怒ってみせる台詞がある。ピロスマニ、ルスタヴェリ、パラジャーノフといった名前は、どのくらい民衆のものなのだろうか、知りたいところだ。

●参照
ニキータ・ミハルコフ版『12人の怒れる男』
フィローノフ、マレーヴィチ、ピロスマニ 『青春のロシア・アヴァンギャルド』


トニー・マラビー『Scorpion Eater』、ユメール+キューン+マラビー『Full Contact』

2015-01-04 09:50:55 | アヴァンギャルド・ジャズ

このところ、自分のなかでは、トニー・マラビーの存在感がどんどん増してきている。幹の中心部を抜いて樹皮や匂いといった「おいしい」部分だけを提示するサックスだなと思うこともあり、ジャズサックスらしすぎるくらいマトモな音色でブロウしていて逆に脱力することもあったり、もちろんヘンな音を出したり。

■ トニー・マラビー『Scorpion Eater』(Clean Feed、2013年)

Tony Malaby (ts, ss)
Dan Peck (tuba)
Christopher Hoffman (cello)
John Hollenbeck (ds, perc, prepared piano)

編成の特徴そのままの「Tubacello」グループ名義。どのような編成がマラビーの音楽としてベストなのか判断できないが、これが凄く面白くてエキサイティングであることは確かだ。

チューバとチェロという低音楽器からは、つい、ヘンリー・スレッギルの諸グループやレスター・ボウイのブラス・ファンタジーを思い出してしまうのだが、これは、前者のように緊密ではなく開かれており、後者のように能天気でもない。低音の奔流の中で、マラビーの音がさらに冴える。しかし、次第に暗鬱な感じになっていくのはなぜだろう。

■ ダニエル・ユメール+ヨアヒム・キューン+トニー・マラビー『Full Contact』(Bee Jazz、2008年)

Daniel Humair (perc)
Joachim Kuhn (p)
Tony Malaby (ts)

大御所ふたりとのセッション。期待通り、ユメールはシンバルを多用したスタイルでテンションをむりやり励起し、キューンも独特のフレイバーのあるピアノを聴かせる。ふたりの個性が突出しているだけに、もう少しマラビーには変化球で攻めてほしかった気もする。

キューン、ユメールとJ.F.ジェニー・クラークとの黄金トリオによる名作『Live, Théâtre De La Ville, Paris, 1989』においても演奏されていた「Ghislene」にはつい感激してしまうのだが、一方で、狂ともいうべきキューンのピアノの執拗さが希薄になっていることが残念。これによらず、近作は・・・


DUGでいただいたダニエル・ユメールのサイン

 ●参照
トニー・マラビー『Adobe』、『Somos Agua』
トニー・マラビー『Paloma Recio』
クリス・デイヴィス『Rye Eclipse』、『Capricorn Climber』(マラビー参加)
ジェシ・スタッケン『Helleborus』(マラビー参加)
ヨアヒム・キューン『Voodoo Sense』
アーチー・シェップ+ヨアヒム・キューン『WO! MAN』