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「戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗」加藤陽子

2025年02月03日 07時47分28秒 | 読書(昭和史/平成史)


「戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗」加藤陽子

読み返し。
とても良い作品。

日本近代史3つの転換点を取りあげている。
①満州事変とリットン報告書
②日独伊三国同盟
③日米交渉

P50
日本にとって戦後とは、戦前を振り返りつつ考えるための時間そのものだったのではないか、そのような感慨が浮かびます。

P68
日本は、唐との間の7世紀後半の緊張した関係を、日本という新たな国だと主張することによって清算したのです。

P78
倒幕攘夷を唱えていればよかった人たちが、新たに主人となった明治政府で、開国和親を唱えなければならなくなる。(中略)外国人の側には、万国公法という、人間のつきあいの方法を定めた法があるらしい。

P67
白村江の戦いは、7世紀に起きた、もう一つの日中戦争といえそうです。

P136
日英同盟というのは、日本は朝鮮を、イギリスは中国を、ということで両国が勝手に勢力範囲を決めてしまった帝国主義的同盟の見本でした。

P217
日米ガイドラインが防衛する場所とは…
1978年/日本本土(ソ連を太平洋方面に出さない)
1997年/周辺事態(日本の安全、極東における平和に寄与)
2015年/無制限(アジア太平洋地域、これを越えた地域の安全と平和)

P276
ドイツと同盟を結ぶことで、ドイツを牽制しようとしているのです。

P299
アメリカを牽制する同盟でしたが、日本が本当にほしかったものは、仏印蘭印など、宗主国を失った植民地だったわけです。

P311
日清戦争では清に対し「朝鮮の改革を拒絶するのは非文明」といい、日露戦争ではロシアに対し「門戸開放しないのは文明の敵」との言葉を投げつけます。しかも、これらの言葉を創造していたのは、福沢諭吉や吉野作造という、当代一流の知識人だったのです。

P348
近衛文麿は、長男の文隆をアメリカに留学させていた人で、文隆のハイスクール卒業式に出席することを口実とし、(中略)三ヵ月、アメリカを訪れたことがありました。

P371
霞ヶ関の外務省に唯一銅像が建っているのは、陸奥のものなのだそうです。


P411
東京の外務省は、陸海軍の圧力に屈し、出先である大使館がどんなに頑張っても不可能な時間と方法で、ワシントンに電報を送っていたのです。


P428
1,944年11月から45年8月まで、マリアナから飛び立った、のべ28,782回の爆撃に対して、日本側が撃墜した数は、50機。その成功率は、なんと0.17%しかありませんでした。

【参考リンク】
アジア歴史資料センター

公文書に見る日米交渉 開戦への経緯

【関連図書】

【ネット上の紹介】
かつて日本は、世界から「どちらを選ぶか」と三度、問われた。より良き道を選べなかったのはなぜか。日本近現代史の最前線。
[目次]
1章 国家が歴史を書くとき、歴史が生まれるとき(「歴史のものさし」で世の中をはかってみる
現代の史料を、過去のデータと照らし合わせて読む
歴史が書かれるとき
歴史の始まりとは)
2章 「選択」するとき、そこでなにが起きているのか―リットン報告書を読む(日本が「世界の道」を提示されるとき
選択肢のかたちはどのようにつくられるか
日本が選ぶとき、為政者はなにを考えていたのか)
3章 軍事同盟とはなにか―二〇日間で結ばれた三国軍事同盟(軍事同盟とはなにか
なぜ、ドイツも日本も急いだのか
「バスに乗り遅れる」から結んだのではない)
4章 日本人が戦争に賭けたのはなぜか―日米交渉の厚み(戦争前夜、敵国同士が交渉の席に着く意味は
史料に残る痕跡
日本はなぜアメリカの制裁を予測できなかったのか
国民は、その道のみを教えられ続けてきた
絶望したから開戦したのではない)
終章 講義の終わりに―敗戦と憲法(講義の終わりに)

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