2015年11月8日朝日新聞の記事を転載しておく。
星野博美さんの「みんな彗星を見ていた」について、
三浦しをんさんが、推薦して誉めている記事である。
『時空と距離を超えて、四百年前の人々と現代に生きる人々の心が結びつく瞬間が、著者の情熱によって到来するのだ。私は強く胸打たれ、もうもう涙で文字が曇って、しゃくりあげながらページをめくるありさまだった。』
『「信じる』とはなんなのか、もう一度深く考えるために、ぜひ本書をおすすめしたい。』
【参考リンク】
「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」星野博美
キリシタン遺物史料館
「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」星野博美
「島へ免許を取りに行く」という作品がある。
なぜ、免許を取る必要が生じたのか、本作品で説明される。
なぜ、長崎の教習所まで、行ったのか、も分かる。
「コンニャク屋漂流記」でスペイン船漂着に触れられたが、本作品で、関係してくる。
著者がかつて訪れた、香港、マカオも関連してくる。
全てが、繋がっている。
過去の集大成とも言うべき作品。
また、久しぶりに「旅の人」となった星野博美さんを見ることができる。
まさに、著者の真骨頂、嬉しい限り、である。
(だから、第七章「スペイン巡礼」篇は、たまらない面白さだ)
P94
イエズス会はポルトガル王室と結びつき、ポルトガルの航海領域で独占的に布教する権利と経済援助を補償されていた(実際にはその金がとだえることが多かったが)。1534年にパリで創設され、40年に教皇から認可されたばかりの新進修道会、イエズス会が短期間で急成長を遂げたのは、ポルトガル王から与えられた排他的な特権のおかげだった。ポルトガルの行くところにイエズス会あり、なのである。(ところが、スペイン王フェリペ二世がポルトガル王位を継承してしまう・・・ショックだったに違いない)
P94
彼らが独占していた布教範囲が「市場開放」され、スペインを後ろ盾にする他の修道会が参入してしまうからだ。
P95
日本の民が与り知らないところで日本の争奪戦が行われていた。それこそ、魂の救済を求めて改宗した日本のキリシタンにはまったく関係のない話だ。
このあたりの経緯を読んでいると、不謹慎だが私は、コカ・コーラとペプシ、あるいはグーグルとアップルといった、グローバル企業の世界シェア争奪を連想してしまう。(おそろしく縁遠い話をしながら、納得してしまう話術だ)
島原へ取材に行った時の話
P209
島原半島のバス停で遭難などしたら世間の笑いものになるだろう。そう遠くないうちに車の免許を取ろう、と固く心に誓った。あてずっぽうに動く人間に、日本の地方は甘くない。(これが「島へ免許を取りに行く」の原点だ!・・・だから次のように書かれている→P225、長崎県内でそう決心したのだから、落とし前も長崎でつけようという思いがどこかにあり、免許を取るため、五島の福江島へ合宿に行った、と)
タイトルの意味が語られる
P362
後世に残された絵や演奏の逸話は、南蛮文化の頂点というより、血なまぐさい迫害がすぐ背後に迫った、最後の一瞬のきらめきだったのである。それは、突然に現れて夜空を照らし、それを見たある者は珍しくて美しいと言い、ある者は不吉だと言う、彗星のようでもある。
【おまけ】1
「私的キリシタン探訪記」とあるように、キリシタンの足跡を訪ねている。
日本のキリシタンの歴史は、殉教の歴史でもある。
血なまぐさい。
その中で、ところどころ著者の個人的なリュートの話が出てくる。
これが、涼風となって心をなごませてくれる。
【おまけ】2
知らないことがけっこう多い、と思い知らされた。
プロテスタント系は、様々な会派に別れているのを知っていたが、カトリックは一枚岩と思っていた。
ところが、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会・・・と、しのぎを削っていたとは。
【著者の言葉】
私は「抱き合わせ商法」って呼んでいるんですけど、はじめて『みんな彗星を見ていた』を読む人は、必ず『島へ免許を取りに行く』や『コンニャク屋漂流記』や『転がる香港に苔は生えない』など、他の本も読まなきゃいけないようになっています(笑)全作、何度も読み返してほしいです。すべてがどこかでつながっていますので。
- 第169回 今を知るために歴史を知りたい(星野博美さん編)(2016.03.07)
- 第170回 400年前と今を重ね合わせる(2016.03.08)
- 第171回 みんな見間違えているので言いたい、という気持ち(2016.03.09)
【参考図書】
【ネット上の紹介】
東と西が出会ったとき、一体何が起きたのか 多くの謎が潜む、キリシタンの世紀。長崎からスペインまで、時代を生き抜いた宣教師や信徒の足跡を辿り、新たな視点で伝える。
「井田真木子著作撰修」井田真木子
以前、「小蓮(シャオリェン)の恋人」を読んで、良いノンフィクション作家がいるな、と思った。
ところが、井田真木子さんは44歳で急逝された。
現在、全作品が絶版となり、入手困難となっている。
「困ったものだ」と思っていたら、里山社から本作が上梓された。
ありがたくも喜ばしいことだ。
とりあえず、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した「プロレス少女伝説」を読んだ。
神取しのぶとジャッキー佐藤の試合について、神取さんのコメント
P153-154
「あの試合のとき、考えていたことは勝つことじゃないもん。相手の心を折ることだったもん。骨でも、肉でもない、心を折ることを考えていた。ただ、それだけを考えていたんで、相手をいためつけようとは思っていなかった。(中略)」
「腕をアームロックにきめたのよ。まず、そこで痛みがあるじゃん。でも、人間って、痛みだけじゃ降参しないよ。痛みはある程度以上、感じることはできないから、それだけじゃ、人間って参らないの。
だから、次に、うしろに回した佐藤さんの腕に足を入れて、膝で首の関節をきめたの。これで、彼女は、首が固定されて、自分がどうなっているか見ることができなくなったわけよ。見ることができないって、人間ってすごく怖いものなのよ。自由がなくなったってことじゃん。自分が、これから何をされるのか、見ることもできないってことになったら、人間って、かなり参るんだよ。
それで、最後に上半身全体を、佐藤さんの肋骨に乗せた。つまり、肺を圧迫したわけよ。これで、彼女は呼吸ができなくなった。息ができないってことは、やっぱ、人間にとって一番の恐怖じゃん。
だから、ここで、彼女の心が折れたのよ。
苦痛と、見る自由を奪われること、息ができない恐怖と、この三つがそろって、初めて、心が折れるのよ。(後略)」
関川夏央さんのコメント
井田真木子さんはしばしば文字通り「寝食を忘れて」仕事をして、「栄養失調」で搬送されたりした。生まれつき「サーモスタット」が欠落していたらしい彼女は、自分の体を燃やしながら回転するエンジンに似ていた。そうやって彼女が発した高い輻射熱は、ときに周囲を焼いた。
『食べる物も食べず、自宅でひとり衰弱しきって亡くなったという井田さんの死も、ほとんど緩慢な自殺といっていい』、と言われている。
我々読者は、残された作品を読んで、心の中で合掌するのみ、である。
【参考リンク】
「心が折れる」、起源は女子プロレスの伝説の試合
『井田真木子 著作撰集』(井田真木子 著、里山社)
【おまけ】
立派な装丁の本であるが、「プロレス少女伝説」だけで、誤植を3箇所見つけた。
よほど大慌てで作ったのだろうか?
しっかり校正をして欲しかった。残念である。
【ネット上の紹介】
あぶれ者の女子プロレスラー、中国残留孤児2世、同性愛者、援助交際をする少女など、社会の「周縁」に居た人々の人生を圧倒的なリアリティを持って描き出した井田真木子。その筆致は第三者の「取材」の域を越えた切実さを持つ。井田真木子の取材方法は、被取材者の人生に介入し、運命を変えていくという強引かつ大胆なやり方だった。だがおそらく取材される側との間には、「魂の契約」とも言うべき結びつきがあった。なぜなら井田にとって「書くこと」は「生きること」であり、人生に苦闘する被取材者同様、切実な行為だったのだ。
「コンニャク屋漂流記」星野博美
「転がる香港に苔は生えない」と並ぶ、もう一つの代表作。
星野博美さんと言えば、香港や中国を旅して、ルポを書かれるイメージがある。
本作は、旅は旅でも、自分のルーツを探る旅。
P311
イワシとコンニャク。漢字で書けば、鰯と蒟蒻。どちらも「弱」という字を当てられている。広辞苑によれば、イワシは「弱シ」の転用だとか。これは弱いという意味よりも、高級でない、とるに足らない、庶民の口に入る、といったニュアンスが強い、一種の蔑視だろう。
海の弱者と陸の弱者。ついでに言えば、祖父と父が従事していたのは零細町工場で、いわば製造業の弱者。ここまで「弱」が三拍子揃うと、「上等じゃないか」と誰かにケンカを売りたくなるような気分になった。
【おまけ】
この作品を著していて、終わり頃に車の免許を取られたようだ。
だから、終わり頃になると、車を自分で運転して千葉に行っておられる。
実家の戸越にも戻られている。
前後の経緯が分かってよかった。
【ネット上の紹介】
先祖は江戸時代、紀州から房総半島へ渡った漁師で、屋号はなぜか「コンニャク屋」!?祖父が遺した手記を手がかりに、東京・五反田から千葉、そして和歌山へ―時空を越えたルーツ探しの珍道中が始まる。笑いと涙の中に、家族や血族の意味を問い直す感動のノンフィクション。読売文学賞、いける本大賞受賞作。
[目次]
第1章 コンニャク屋の人々
第2章 五反田
第3章 御宿・岩和田
第4章 東へ
第5章 紀州
第6章 末裔たち
「新食品成分表 FOODS」新食品成分表編集委員会/編
先日、健康診断の結果が出た。
私が気になるのは、アルブミンである。
これで、現在の栄養状態を知ることが出来る。
私の数値は4.6・・・一応、標準である。
朝と晩は、自分で料理を作っているので、気になったのだ。
ほっとした。
さて、この「新食品成分表」は便利。
オールカラーで782円は安い。
ちょっと調べたいとき、とても便利。
例えば、さつまいもは果物よりビタミン豊富と言われているが、実際どうか?、とか。
一家に1冊あってもよい、と思う。
【ネット上の紹介】
穀類
いも及びでん粉類
砂糖及び甘味類
豆類
種実類
野菜類
果実類
きのこ類
藻類
魚介類
肉類
卵類
乳類
油脂類
菓子類
し好飲料類
調味料及び香辛料類
調理加工食品類
「3・11行方不明 その後を生きる家族たち」石村博子
家族が行方不明、という問題がテーマ。
3.11では、多くの方が行方不明となった。
いったい、心の中で、どう折り合いをつけたらいいのか?
死者として発見されたら、家族は歩き出すことが出来るかもしれない。
しかし、「行方不明」だと、「どこかで生きているんじゃないか」と考えてしまう。
深刻で微妙なテーマを、丁寧に取材されている。
P180
七月半ば、麻野さんは意を決して、死亡届提出のため市役所を訪れる。だが、いざ用紙に記入しようとしても、書き始めることがなかなかできない。提出したらそれきり社会的に存在しないことになる、それでいいのかと用紙の前で固まったようになっていると、年配の女性担当者が近づいてきて、声をかけてきた。
「もし、無事なことが分かったら、裁判所に申し立てれば、いつでも死亡を取り消せますよ」
それは、戸籍法第五章にある、戸籍の訂正のことである。
P181
死亡届の提出は、気持ちの区切りだけでなく、現実的な問題も大きな影響を及ぼしている。死亡認定がされると、生計を維持していた人の場合は500万円、それ以外の人の場合は250万円の災害弔慰金が支給される。一方、行方不明のままでいると、生命保険も下りないし、借入金があった場合は一定猶予期間以降、延滞金として利息がついてしまう。
【ネット上の紹介】
行方不明者の家族は遺族と呼んでいいのだろうか?東日本大震災から二年。いまだ行方不明者約二千七百人。娘を捜し続ける父、妻の勤務先に説明を求め続ける夫、親子二代で地域復興に頑張る経営者…行方不明者と共に生きようとする家族たちの想いを描いたヒューマンドキュメント。
[目次]
第1章 自分で捜せない、大熊町の苦難
第2章 犠牲を無駄にしないため闘う
第3章 捜す人々
第4章 海に嫁いだ娘
第5章 家も家族もみんな消えた
第6章 子どもたちとここで生きていく
第7章 津波との因縁、親子二代の地域復興
「あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書」保阪正康
太平洋戦争を俯瞰する本。
多数のエピソードも挿入されていて、退屈しない。
P55
太平洋戦争開戦前の日米の戦力比は、陸軍省戦備課が内々に試算すると、その総合力は何と1対10であったという。米国を相手に戦争するに当って、首相、陸相の東條英機が、その国力差、戦力比の分析に、いかに甘い考えを持っていたかが今では明らかになっている。
(東條英機は「精神力で勝っているはずだから、五分五分で戦える」、としたそうだ。そんなバカな!と今なら言えるが当時は言えなかったのだろう・・・それが怖い)
P92
東條の秘書官だった赤松はこうも言っていた。
「あの戦争は、陸軍だけが悪者になっているね。しかも東條さんはその中でも悪人中の悪人という始末だ。だが、僕ら陸軍の軍人には大いに異論がある。あの戦争を始めたのは海軍さんだよ・・・・・・」
P105
私は、この戦争が決定的に愚かだったと思う、大きな一つの理由がある。それは、「この戦争はいつ終わりにするのか」をまるで考えていなかったことだ。
P120
例えば、もし「ミッドウェー海戦」で戦争を終結していたら・・・・・・。もちろん、これはありえない歴史上の「イフ」である。しかし、吉田茂がひそかに和平工作を模索しているなど、その時点で全く可能性がゼロだったとは言い切れない。
「戦争を終結させる」とはいわない、なにせまともに「戦争の終結」像すらも日本の首脳部は考えていなかったのだから。でも、せめて“綻び”が出始めた昭和17年末の段階で、「このままの戦い方でいいのか」、あるいはもっと単純に「この戦争は何のために戦っているのか」と、どうして立ち止まって、誰も顧みなかったのか。
P121-122
資料に目を通していて痛感した。軍指導者たちは“戦争を戦っている”のではなく、”自己満足”しているだけなのだと。おかしな美学に酔い、1人悦に入ってしまっているだけなのだ。兵士たちはそれぞれの戦闘地域で飢えや病で死んでいるのに、である。
挙げ句の果てが、「陸軍」と「海軍」の足の引っ張り合いであった。
「日本は太平洋戦争において、本当はアメリカと戦っているのではない。陸軍と海軍が戦っていた、その合い間にアメリカと戦っていた・・・・・・」などと揶揄されてしまう所以である。
P148
昭和18年に戦況が悪化すると、東條の演説や側近への話には筋道の通らない論理が含まれるようになった。たとえば、「戦争が終わるということは、戦いが終わった時のこと、それは我々が勝つということだ。そして、我々が戦争に勝つということは、結局、“我々が負けない”ということである」、という意味不明のことさえ口にした。あるいは「戦争は負けたと思ったときは負け。そのときに彼我の差がでる」とも言うのである。
(う~ん、参りました)
P150
十月に、陸軍の飛行学校に、学生たちへのねぎらいも込めて、視察に行った時のこと。東條は学生に「B-29が飛んできたとする。そうしたら、君は何で打ち落とすか」と問い掛けた。問い掛けられた学生は教科書通りに「15センチ高射砲で撃ち落とします」と答えると、東條は「違う、そうじゃない。精神力で打ち落すんだ」と語ったという。
(じゃ、手本を見せてください、って)
P172
牟田口(廉也)は、実は泥沼の日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件をおこした部隊の連隊長であった。日頃から「支那事変はわしの一発で始まった。だから大東亜戦争はわしがかたをつけねばならん」というのが牟田口の口癖であった。
(その牟田口が考えた作戦が、悪評高い「インパール作戦」だ)
P179
私はインパール作戦で辛うじて生きのこった兵士たちに取材を試みたことがある。彼らの大半は数珠をにぎりしめて私の取材に応じた。そして私がひとたび牟田口の名を口にするや、体をふるわせ、「あんな軍人が畳の上で死んだことは許されない」と悪しざまに罵ることでも共通していた。
P228
“勝ち戦”に乗じて日本の領土が欲しかったスターリンは、トルーマンに「我々は関東軍を掌握し、北海道方面に侵攻している。ソ連の制圧地域として北海道を認めて欲しい」と要求していた。しかし、トルーマンは、決してそれを認めなかった。スターリンはもう一度、「北海道が欲しい」と重ねて訴えるが、やはり断られてしまう。ならばと、「領土の代わりに、関東軍の兵を労働力としてもらう」と勝手に決めてしまった節があるのだ。
こうして「シベリア抑留」が行われた。
P222-223
歴史に他の選択肢はないが、「原爆」を落とされ、負けた。その結果、アメリカに占領されてよかったという見方もできる――。
(結果として、そうかもしれない・・・でも、このあたり、この著者に違和感を感じる。頭の良い方って、理屈が先走ってしまう・・・良識を置き去りにして。広島や長崎の方に、「原爆を落とされてよかった」、と言えるのか?)
昭和史研究では有名な方で、さすがよく調べてあるし、要領よくまとめてある、と思う。
ただ、タイトルから「あの戦争は何だったのか」の明解な答えを期待すると、肩すかしを食らう。
(そういう意味で、タイトルと内容が微妙にかみ合っていない)
太平洋戦争の「流れ」を概観して、「あの戦争は何だったのか」、と考える切っ掛けになる作品。
【言葉の説明】
八紘一宇・・・日本書紀、神武天皇が大和橿原に都を定めた詔に出てくる言葉
「八紘」とは「四方と四隅」を表し、八方のはるかに遠い果てを指す。「一宇」は一つの家のことである。つまり、「地の果てまで一つの家のようにまとめて天皇の統治下におく」という意味となる。P52
東條英機の「戦陣訓」
有名な一節・・・「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」表現は島崎藤村が推敲したとされる。
この思想のために、多くの軍人、兵士たちが玉砕の憂き目にあったのである。P70
【おまけ・・・残念な点】
当時のメディアと大衆の動向に触れていない。
文献が掲載されていないのも残念。
その点、加藤陽子先生は、大学教授だけあって、しっかり記載されている)
→「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」加藤陽子
【ネット上の紹介】
戦後六十年の間、太平洋戦争は様々に語られ、記されてきた。だが、本当にその全体像を明確に捉えたものがあったといえるだろうか―。旧日本軍の構造から説き起こし、どうして戦争を始めなければならなかったのか、引き起こした“真の黒幕”とは誰だったのか、なぜ無謀な戦いを続けざるをえなかったのか、その実態を炙り出す。単純な善悪二元論を排し、「あの戦争」を歴史の中に位置づける唯一無二の試み。
[目次]
第1章 旧日本軍のメカニズム(職業軍人への道
一般兵を募る「徴兵制」の仕組み ほか)
第2章 開戦に至るまでのターニングポイント(発言せざる天皇が怒った「二・二六事件」
坂を転げ落ちるように―「真珠湾」に至るまで)
第3章 快進撃から泥沼へ(「この戦争はなぜ続けるのか」―二つの決定的敗戦
曖昧な“真ん中”、昭和十八年)
第4章 敗戦へ―「負け方」の研究(もはやレールに乗って走るだけ
そして天皇が動いた)
第5章 八月十五日は「終戦記念日」ではない―戦後の日本
「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」加藤陽子
著者は、大学教授。
近代史が専門。
本作品は、高校生を相手に、5日間にわたって講義した記録である。
非常に丁寧、分かりやすく説明されている。
単に講義するだけでなく、質問が出て、高校生が答える、という授業形式。
一方通行でなく、双方向の関係。
内容もハイレベル。
よく、高校生がついていった、と思う。
それも、そのはず。
栄光学園・歴史研究部のメンバーを相手にしている。(ちなみに、加藤先生は桜陰高校出身・・・女子校では全国トップの進学校)
読んでいて、目からうろこの数々。
(講義を受けた高校生がうらやましい・・・この本は、教科書の副読本にしてもいいくらい)
ネット上の紹介によると、
『今までになかった日本近現代史の本。日清戦争から太平洋戦争まで。歴史の面白さ・迫力に圧倒される5日間の講義録』、とある・・・そのとおり、と思う。
内容は、序章+5章ある。
序章 日本近現代史を考える
1章 日清戦争―「侵略・被侵略」では見えてこないもの
2章 日露戦争―朝鮮か満州か、それが問題
3章 第一次世界大戦―日本が抱いた主観的な挫折
4章 満州事変と日中戦争―日本切腹、中国介錯論
5章 太平洋戦争―戦死者の死に場所を教えられなかった国
私が興味深く感じた箇所を、いくつか紹介する。
P63-64、なぜトロツキーでなく、スターリンが選ばれたのか?
この人たち(ボリシェビキ)は、1789年に起きたフランス革命が、ナポレオンという戦争の天才、軍事的なリーダーシップを持ったカリスマの登場によって変質した結果、ヨーロッパが長い間、戦争状態になったと考えていました。
(中略)
レーニンが死んだとき、軍事的なカリスマ性を持っていたトロツキーではなく、国内に向けた支配をきっちりやりそうな人、ということでスターリンを後継者として選んでしまうのです。
(そうだったのか!確かに、スターリンは「支配」をきっちりした・・・やりすぎたけど。スターリンの「粛正」の犠牲者は数百万と言われる)
(中略)
一つの事件は全く関係のないように見える他の事件に影響を与え、教訓をもたらすものなのです。しかも、此処が大切なところですが、これが人類のためになる教訓、あるいは正しい選択であるとは限らない。
P78、ベトナム戦争の遠因
満州事変、日中戦争の時期においてアメリカは、中国の巨大な市場が日本によって独占されるのではないか、門戸開放政策が守られないのではないかと考え、中国国民政策を支持してきたわけです。それが、せっかく敵であった日本が倒れたというのに、また戦中期に大変な額の対中援助を行ったのに、49年以降の中国が共産化してしまった。
これはアメリカにとっては、嘆きであったでしょう。10億の国民にコルゲート歯磨き1本売っただけで、10億本分儲かる、とはよく言われた冗談ですが。こういった景気のよい資本主義的な進出ができなくなる。この中国喪失の体験により、アメリカ人のなかに非常に大きなトラウマが生まれました。戦争の最後の部分で、内戦がその国を支配しそうになったとき、あくまで介入して、自らの望む体制つくりあげなければならない、このような教訓が導きだされました。ですから、北ベトナムと南ベトナムが対立したとき、南ベトナムを傀儡化して間接的に北ベトナムを支配するのに止まるではなく、北ベトナム自体を倒そうとするわけです。
以上が、ベトナム戦争にアメリカが深入りした際、歴史を誤用したという、アーネスト・メイの解釈です。
(う~ん・・・ベトナム戦争の遠因が、「中国喪失」にあったとは!しかも、いまだに引きずっているし)
P166、日露戦争の原因
日露戦争が起きたのはなぜかという質問への答え方には、時代とともにかなり変化があったのです。
(中略)
戦争を避けようとしていたのはむしろ日本で、戦争を、より積極的に訴えたのはロシアだという結論になりそうです。
(2005年国際会議、ルコイヤノフ先生の報告・・・このところは、実際読んでみて・・・私は逆だと思っていた)
P174、代理戦争
日清戦争は帝国主義時代の代理戦争でしたが、日露戦争もやはり代理戦争です。ロシアに財政的援助を与えるのがドイツ・フランス、日本に財政的援助を与えるのがイギリス・アメリカです。
P238、血脈について
吉田茂は自分の妻のお父さんが、パリ講和会議で次席全権大使を務める牧野伸顕だった。(中略)岳父である牧野に連れて行ってくれと頼み、1918年にパリに旅立つのです。
(牧野伸顕は大久保利通の二男である。麻生太郎は牧野伸顕の曾孫・・・権力者の血脈が絡まり合っている)
P241、アメリカ人は「折れた葦」
ケインズは、ドイツから取り立てるべき賠償金の額をできるだけ少なくするとともに、アメリカに対して英仏が負っている戦債の支払い条件を緩和するよう求めたのです。しかしアメリカ側は、このような経済学が支持する妥当な計画に背を向け、とにかく英仏からの戦債返済を第一とする計画を、パリ講和会議において主張したのです。
1919年の時点で、ケインズの言うとおりに、寛容な賠償額をドイツに課していれば、あるいは29年の世界恐慌はなかったのではないか、このように予想したい誘惑にかられてしまいます。そうであれば、第二次世界大戦も起こらなかったかもしれません。けれども、ケインズの案は通らなかった。その結果ケインズは「あなたたちアメリカ人は折れた葦です」という手紙を残してパリを去ることになりました。
P254、関東軍とは?
満州事変のほうは、二年前の29年から、関東軍参謀の石原莞爾らによって、しっかりと事前に準備された計画でした。関東軍というのは、日露戦後、ロシアから日本が獲得した関東州(中心地域は旅順・大連です)の防備と、これまたロシアから譲渡された中東鉄道南支線、日本はこの鉄道に南満州鉄道と名前をつけましたが、この鉄道保護を任務として置かれた軍隊のことをいいます。
P266
長谷部恭男先生の説・・・どんな時に戦争が起きるか?
ある国の国民が、ある相手国に対して、「あの国は我々の国に対して、我々の生存を脅かすことをしている」あるいは、「あの国は我々の国に対して、我々の過去の歴史を否定するようなことをしている」といった認識を強く抱くようになっていた場合、戦争が起こる傾向がある、と。
(これって、現在の韓国、中国の人たちが日本をそう思っているのに近い?そして、日本はその状況を察して憲法解釈を変えた、ということ?カウントダウン始まってる?)
P267、満州とは?
満州というのは「あて字」で、もともとはManjju(マンジュ)と発音する民族が住んでいた地域に対し、ヨーロッパ人や日本人などが、その発音に漢字の音をあてて「満洲」と書き、それが慣用的に戦後の日本では「満州」と表記されるようになったものだといいます。
P323、日本切腹、中国介錯!
日中戦争が始まる前の1935年、胡適は「日本切腹、中国介錯論」を唱えます。すごいネーミングですよね。日本の切腹を中国が介錯するのだと。
(この箇所はすごい・・・最後にリンクしておくから読んでみて)
P394-396、分村移民について
国や県は、ある村が村ぐるみで満州に移民すれば、これこれの特別助成金、別途助成金を、村の道路整備や産業振興のためにあげますよ、という政策を打ちだします。
このような仕組みによる移民を分村移民というのですが、助成金をもらわなければ経営が苦しい村々が、県の移民行政を担当する拓務主事などの熱心な誘いにのせられて分村移民に応じ、結果的に引揚げの課程で多くの犠牲を出していることがわかっている。
(中略)
満州からの引き揚げといったとき、我々はすぐに、ソ連軍侵攻の過酷さ、開拓移民に通告することなく撤退した関東軍を批判しがちなのですが、その前に思いださなければならないことは、分村移民をすすめる際に国や県がなにをしたかということです。
P399、日本とドイツの食糧事情について
戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の一つだと思います。敗戦間近の頃の国民の摂取カロリーは、1933年時点の6割に落ちていた。40年段階で農民が41%もいた日本で、なぜこのようなことが起きたのでしょうか。日本の農業は労働集約型です。そのような国なのに、農民には徴集猶予がほとんどありませんでした。(中略)
それにくらべてドイツは違っていました。ドイツの国土は日本にもまして破壊されましたが、45年3月、降伏する2ヶ月前までのエネルギー消費量は、なんと33年の1、2割増しでした。むしろ戦前よりよかったのです。
【満蒙とはどこか?】P154
P268↓
満州事変・・・柳条湖は奉天の近く
日中戦争・・・盧溝橋は北京郊外
【まとめ】
学者らしく、文献に徹底してこだわっている。
タイトルを見て、この歴史の分岐点で別な行動をとっていたら、戦争を避けられたのか?、といった仮定の話を期待したら裏切られる。少しは出てくるけど、メインの論点ではない、そこが、ジャーナリストの作品とは異なるところで、内容も硬い。
でも、この本は面白く読む価値もある、と思う。
著者の歴史に対する情熱を感じて読み進む事が出来る。
様々な文献も記載されていて、次のステップも示されている。
【参考リンク】
日本切腹中国介錯論
「誕生日を知らない女の子 虐待-その後の子どもたち」黒川祥子
すさまじい内容である。
世の中に、これほど酷い親がいるのか。
でも、現実は枚挙にいとまがない。
虐待を受けた子どもは保護される。
養護施設に入ったり、里子になったり。
それで、一安心なのか?
P24著者の言葉
「殺されずにすんで」児童相談所によって保護された子どもたちは、それで一件落着なのか。そうではなかった。
ならば、保護された膨大な子どもたちの「その後」に何が待っているのか。そこに、きちんと光をあてなければいけないのではないか。何よりも、まずはこの目でありのままを見ていきたい。
P38里子を引き取って育てている里親の言葉
「私は里子を預かるまで、子どもは愛情さえあればスクスク育つものだと思っていました。実子はそうやって育ちましたから。三歳の男の子が里子に来てから、妻は一年間の記憶がないと言います。私もまだつらくて話せない。ひょっとしたら殺してしまうかもと思ったこともあります。正直、子どもへの怒りが湧くこともありました」
P51保護されて里子になったみゆちゃんの夢
「みゆちゃん、怖い夢を見たの?」
「声がするの。お母さんのコワイ声がするの。『おまえなんか、連れて行ってやる。こんなところで幸せになったらだめだ。おまえなんか、不幸にしてやる。おまえみたいなやつはだめだ。おまえなんか、ぶっ殺す』って・・・・・・」
それは、実母の声だった。
P116
2008年2月1日に行われた「児童養護施設入所児童等調査結果」によれば、養護施設の場合、両親の虐待・酷使が14.4%、両親の放任・怠惰が7.6%、両親の行方不明が6.9%と、それぞれ個別にさまざまな事情があってのことだろうが、数字だけを見ていると親の身勝手さに眼を覆いたくなる。
P213
一般に「親の、子への愛は無償だ」と言われているが、虐待を見ている限り、それは逆だとしか思えない。子の、親への愛こそが無償なのだ。
P231虐待を受けた子どもが、年齢を重ねて母親になった場合はどうか?
それにしても、わが子に愛情を注ぎ、普通の親と同じように育てようとすればするほど、自分の過去と向き合わざるを得ないということを初めて知った。「してもらえなかった自分」の悔しさや悲しみが子どもの成長の節目ごとに湧きあがってくるのが、被虐待児にとっての子育てなのか。だとすれば、それは何と困難なことだろう。
児童問題に興味がある方に、一読をお薦めする。
2013年第11回開高健ノンフィクション賞受賞作である。
【おまけ】
今年放映された日本テレビのドラマ『明日、ママがいない』について、黒川祥子さんが、次のようにコメントされている。(押さえておきたい箇所を、私が抜粋した)
何らかの問題によって親から離れて暮らしている子どもは、深い喪失感を持っています。「無条件に愛してほしい」という子どもなら当然の願いが叶えられていないからです。その喪失感や、その喪失感を周囲の大人がどう受けとめていくかについてを描いてほしい。そこが一番大切なポイントだからです。主人公がヒーローのように周囲の子を助けて、勧善懲悪のドラマにするのではなくて。芦田愛菜さんが演じている子こそ、自分の心にふたをしてしまっている子です。「つらい環境でも、子どもたちは健気に生きています」だけで終わってはダメだと思います。
施設出身者の子たちに、「このドラマについてどう思う?」と聞いたら、「フィクションだと思った」と言っていました。その理由を聞いたら、「子どもたちの関係がフラットだから」と。子どもたちの間に階層があって、「ボス」からいじめられることもある。芦田愛菜さんが演じる主人公と新入りの女の子がすぐに仲間になることこそ嘘くさいと。出身者だからこその言葉だと思いました。
全文は次のとおり
→虐待受けた子どもたちを取材した著者が語る「明日ママ ...
【ネット上の紹介】
心の傷と闘う子どもたちの現実と、再生への希望。“お化けの声”が聞こえてくる美由。「カーテンのお部屋」に何時間も引きこもる雅人。家族を知らず、周囲はすべて敵だった拓海。どんなに傷ついても、実母のもとに帰りたいと願う明日香。「子どもを殺してしまうかもしれない」と虐待の連鎖に苦しむ沙織。そして、彼らに寄り添い、再生へと導く医師や里親たち。家族とは何か!?生きるとは何か!?人間の可能性を見つめた感動の記録。2013年第11回開高健ノンフィクション賞受賞作!
[目次]
第1章 美由―壁になっていた女の子
第2章 雅人―カーテンのお部屋
第3章 拓海―「大人になるって、つらいことだろう」
第4章 明日香―「奴隷でもいいから、帰りたい」
第5章 沙織―「無条件に愛せますか」
「セラピスト Silence in Psychotherapy」最相葉月
読みごたえがあった。
「目から鱗」の数々・・・なるほど、そうなのか!、と。
なぜ、この本を著したのか、について、著者自ら次のように書かれている。
P321
守秘義務に守られたカウンセリングの世界で起きていることを知りたい。人はなぜ病むのかではなく、なぜ回復するのかを知りたい。回復への道のりを知り、人が潜在的にもつ力のすばらしさを伝えたい。箱庭療法と風景構成法を窓とし、心理療法の歴史を辿りたい。セラピストとクライエントが同じ時間を過ごした結果、現れる景色を見てみたい。思いはたくさんあった。
さて、内容について、興味深い箇所を列挙していく。
P79
ところが、そのうち、いくら分析しても治らないケースが現れるようになった。(中略)分析で治るというのは、分析そのものよりも、人の話をじっと聞いてくれるとうことが功を奏したとは考えられないか。つまり、相手の話を丁寧に聴くことのもたらす力に気づいた。これがのちに、カウンセリングと呼ばれるようになったものである。
P113
とかく日本の教育者とか宗教家など、りっぱな人は、説教するのが非常に好きでして(外国人はこれほど説教するのが好きではないですが)、そういう日本の教育者の説教ぐせに対して、ロジャースの理論はそれを真っ向うからぶちこわす役割をもった。
P158
ところが、精神分析に限らず、19世紀末、西洋近代に誕生した臨床心理学のほとんどの理論では、意識すれば治る、が大前提となっていた。
P234
統合失調症は認知機能の低下によるものと考えられている現在からみると信じられない話でしょうが、私が学生だった80年代初頭までは、人格水準の低下に陥る人格の病だと教わっていたのです。人の中心に人格があって、それがやられる病だというのです。
P288
「精神科医と心理士は別ものと考えています。医師は、人間の生命をより長く持続させることを目的としています。一方、心理士は、その人個人がいかに自分を生きるか、それに徹底して寄り添うことが目的です」
P289河合隼雄「幸せな死のために」からの引用・・・聞き手は井田真木子
「ユングの理論はあなたにとってものすごく有用なときがあるんです。それは、しかし、あなたにとってですよね。すべての人にとってではないです。
ユングの理論をあなたに適用するとか、フロイトの理論をあなたに適用するというのは間違っているというのが、僕の考え方なんです。
でも、それをやるサイコロジストがすごく多い。それでみんな迷惑するわけ」
P295-296、2007年、病に倒れる直前の河合隼雄のインタビュー
「対人恐怖症は、今はほとんどなくなってきたんです。(中略)今は葛藤なしにポンと引っ込んでしまうんです。赤面恐怖の人もものすごい減っています。(中略)それがなくなってきてる代わりに、途方もない引きこもりになるか、バンと深刻な犯罪になるか」
引きこもるか、深刻な犯罪を引き起こすか。両極端のようでしてその違いが紙一重であることは、数々の凶悪犯罪が証明している。
(中略)
境界例とはパーソナリティ障害の一型で、もとは神経症と精神病の境界領域にあるという意味で「境界例」と名付けられた。親子関係や恋人関係、治療者との関係など二者関係にこだわり、しがみつく。相手を賞賛し理想化したかと思うと、こき下ろす。すさまじい自己主張をし、相手に配慮することはない、などの特徴がある。(中略)
因果関係は定かではないが、バブル経済の形成過程で臨床家たちが境界例の患者と接する機会が増えたと実感していたことは確かである。
ところが、境界例のクライエントも1990年代に入ると徐々に減少し、代わって解離性障害が増加する。(中略)
しかし、この解離性障害もやがて流行が去り、とくに典型的な多重人格のクライエントはあまり見かけなくなる。
代わって、今世紀に入ってから目立つようになったのが、発達障害である。(中略)
発達障害には、授業中や座っているべきときに席を離れてしまう「多動性」や「不注意」、含みのある言葉や嫌みをいわれてもわからず、言葉どおりに受けとめてしまうことがあるなどの「対人関係やこだわり等」に特徴がある。
(引きこもりが犯罪予備軍と曲解されかねない表現は抵抗を感じる。また、境界例が減ってきたと言うが、ストーカーやモンスターペアレントは、境界例のバリエーションのように思える。彼らは自ら受診しないので、症例としてカウントされないのではないか?・・・クレームをつけて申し訳ない。byたきやん)
P301
ところが、近代に入り、「主体の確立」が要請されるようになって、それに応えられない人たちが出てくるようになった。第二次産業化が、それに適応できない人たちを統合失調症としてはじき出し、第三次産業化が、発達障害を生み出した。
P308
「人が変わるって、命がけなんです。時には怒りにもなる。あいつのせいで変わった、といって治療者を殺しにいった人もいますから」
殺しにいった?
「アメリカでは実際にあったことです。つまり、いくら歪んでいても、おかしいといっても、そうなっていることに必然性があるんですね。不登校だった子が、学校に行けるようになってよかったと素直に喜べるほど単純なことではないんです。そこを治療者がわかっていなくて、ああよかったと思っているときに自殺したりするんです」
【ネット上の紹介】
密室で行われ、守秘義務があるため、外からはうかがい知れない。呼称や資格が乱立し、値段はバラバラ。「信頼できるセラピストに出会うまで5年かかる」とも言われる。「心」をめぐる取材は、そんなカウンセリングへの不審と河合隼雄を特集した雑誌の、ある論文をきっかけに始まった。うつ病患者100万人突破のいま、現代人必読のノンフィクション。
[目次]
逐語録
第1章 少年と箱庭
第2章 カウンセラーをつくる
第3章 日本人をカウンセリングせよ
第4章 「私」の箱庭
第5章 ボーン・セラピスト
第6章 砂と画用紙
第7章 黒船の到来
第8章 悩めない病
第9章 回復のかなしみ
【おまけ】
この本とは関係ないけど、以前、最相葉月さんが米原万里さんの「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」を、評されたことがあって、リンクしたことがある。
再度、リンクしておくので、よかったら読んでみて。
→【本の達人 電子書籍を読む】嘘つきアーニャの真っ赤な真実 [著]米原万里
第45回大宅壮一賞が発表された。
遅ればせながら、紹介してリンクしておく。

「悲しき歌姫(ディーヴァ) 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾」大下英治
藤圭子さんの評伝。
全5章。
最初の4章分が藤圭子さん、最後の第5章が宇多田ヒカルさんに充てられている。
本作品を読んで分かったことは、二人ともすごく頭が良い、ということ。
耳と声について、祖母を含めて、(少なくとも)三代続いて良い、ってこと。
P180
「で、詞は?」
「えーっ!?」
「詞だよ、詞。できてんの?」
「あっ、そうか、詞だ」
じつは、一フレーズもできていなかったのだ。
石坂は、目をつむって唸った。」(中略)
「赤く咲くのは けしの花 白く咲くのは 百合の花ってのはどう?」
「うん、うん・・・・・・」
石坂は、あっという間に一番をつくった。
赤く咲くのは けしの花
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜ひらく
五分とかからなかった。
石坂はすぐに二番にとりかかった。(中略)
十五 十六 十七と
私の人生暗かった
過去はどんなに暗くとも
夢は夜ひらく
P187
藤圭子もまた、デビュー前に並々ならぬ苦労を背負っていたのである。藤圭子の抱える「負」と、時代に広がる「負」が溶け合い、当時の若者たちの心を打った。そして、地鳴りのように響き渡ったのである。
P285
ヒカルは、デビュー以来、「歌詞ってどうやって書くんですか?」とよく聞かれるようになって、困った。
自分で一番良い答えかなあ、と思うのは、十九歳の時、ディレクターの沖田英宣との会話の中で言った言葉だろうと思っている。
「どうしようもないくらい絡まってぐちゃぐちゃになったネックレスを、一生懸命ほどくような感じ」
一見複雑に見える物事を、できるだけシンプルに表現する。それは、どんな芸術表現にも通ずると思う。「生きる」ことも、そんな感じなんじゃないかと思った。
P313
「私が曲をつくる原動力って結局“恐怖”と“哀しい”と“暗い”なんですよ、全部」
P321
かつてヒカルは「音楽をやっている自分をどう思うか」と訊かれて、こう答えている。
「呪いです」
辛い道だが、ヒカルは歌手として再び、崖っぷちの厳しい道を歩み続け、光を放出し続ける宿命を負っている。
自殺の原因について、明言を避けている。
(それとなく察することはできる)
私は、それでいい、と思う。
多くの関係者が存命しているのに、全てを白日の下にさらす必要はない。
最後に、故藤圭子さんのご冥福をお祈りします。
【ネット上の紹介】
七〇年代と添い寝した昭和の歌姫・藤圭子はなぜ、孤独な最期をとげたのか。平成の歌姫・宇多田ヒカルとの親子二代にわたる壮絶な宿命を、哀悼を込めて描く巨艦ノンフィクション!
[目次]
序章 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾
第1章 私の人生、暗かった
第2章 演歌の星「藤圭子」誕生前夜
第3章 「藤圭子」伝説
第4章 藤圭子、絶頂からの転落
第5章 宇多田ヒカルの宿痾
【蛇足】
誤植があるのが気になった。
慌てて上梓したからだろうか?
校正者が悪いのだろうか?
「小蓮(シャオリェン)の恋人 新日本人としての残留孤児二世」井田真木子
講談社ノンフィクション賞受賞作品。
中国残留孤児がテーマ。
中国の田舎の農村から東京に来た彼ら。
どのようの問題に直面したのか?
どう生きて来たのか?
今年読んだノンフィクションの中で一番良かった。
いくつか文章を紹介する。
P29
「私の中には、二人の違う人間がいるの。
一人は11歳のとき日本にやってきて、去年成人式をむかえた日本人の真理子です。そしてもう1人は、11歳のときに故郷を出てそのまま大人になるのをやめてしまった、中国人の喜蓮です。私の中には二人がいるの。中国人と日本人。私の中には、だから、ふたつのコドバがあるの。中国語と日本語よ。ふたつの違うコトバよ。(後略)」
P91
三百元ですけど、この意味がわかりますか?
とても大きなお金ということですね。そう答えると、小蓮は目に見えてホットした。中国の農村部で、一家族が一ヶ月暮らす生活費が百元あまりと言われる。
P108
蓮というのは、小蓮の幼名の通称だ。小蓮(シャオリエン)というのが、普通の呼び方だが、親しくなると蓮、または蓮々と呼ぶ。会話の中で呼びかけるときには、蓮也(リェンイエ)とも言う。
P133
正子と長興は、彼らの人生の中で農作業のパートナーだったことはあっても、より精神的な人生の伴走者として生きてはこなかった。
正子と長興は日常生活のいたるところでトラブルに直面する。たとえば、寮の規則を理解することができない。たとえば、ほかの残留孤児家族との共同生活にきしみが生じる。たとえば、スーパーマーケットでの買い物の方法がわからない。日本の社会が中国と異なっている点は、おしなべてトラブルの原因になった。
P142
恋愛は個人と個人の関係であると同時に、社会構造のひとつの指標でもあるからだ。恋愛のありかたは、個人的な事情とともに、その時代と社会のありようを映し出す鏡である。意識するとしないとにかかわらず、その社会が持つ構造とまったく無縁に恋愛を成就させうる人は少ない。たとえば、中国の農村で充分に機能していた正子と長興の夫婦関係は、構造の異なる東京という都市に持ち込んだときまったく無力になった。恋人や夫婦の関係性とは、いわば、彼らが属している社会の構造が生み出す機能なのだ。
素晴らしい内容だった。
著者は、『プロレス少女伝説』で、大宅壮一ノンフィクション賞も受賞している。
実力のあるノンフィクション作家。
他著書も読んでみようと思うが、ほとんどの作品が絶版状態、入手困難。
今回も、図書館で借りるしかなかった。
2001年、44歳で急逝された。
新作を望むことは出来ない。
本当に惜しい才能である。
PS
私は文庫本で読んだが、ハードカバーもチェックしてみた。
すると、単行本では、主人公・小蓮の日本名が満智子となっていた。
文庫化したときに、名前を大幅に入れ替えたようだ。
ハードカバーも文庫本も、両方とも名前は仮名と思われる。
【ネット上の紹介】
「ここ以外ならどこへでも―」死と隣り合わせにいるような貧しい農村を後に、小蓮たちは日本に来た。中国では残留孤児の母ゆえに日本鬼と呼ばれ、日本では「中国人」といじめられた。それでもなおこの国での将来を模索する小蓮の中国帰郷を中心に、戦後日中の実像を描く。講談社ノンフィクション賞受賞。
「民族衣装を着なかったアイヌ──北の女たちから伝えられたこと」瀧口夕美
興味深い話の数々。
著者自身の話、母の話、祖父の話、親戚の話、知り合いの話・・・いろいろ。
P179-180
私は自分自身のルーツとして、アイヌのことがものすごく気になりながらも、アイヌ民族というものと、現代のアイヌである自分自身との距離がずっとつかめずにいた。アイヌ語は“絶滅危惧言語”と言われているし、「滅びゆく民族」というイメージは、私自身にとってさえ根強いものだった。日本史の教科書などで目にするアイヌは、アイヌ文様が刺繍された着物をきて、狩猟・採集をして、茅でつくった家に暮らしている。そういう姿でなければ、アイヌではないかのように。しかし、アイヌは滅んだのではなくて、生活スタイルを変えながら今に至ったのだ。長い時間をかけてそう気づき、日本化した暮らしの中でアイヌとして生きた先輩に話を聞きたいと思うようになった。
P121
少数民族ウイルタのアイ子さんの樺太での話。
日本軍は、国境地帯での奇襲攻撃にそなえ、トナカイ部隊を編成していた。日本とソ連の国境をなす北緯50度線の周辺はツンドラになっているので、苔が分厚く生えていて、馬の体重では馬体が苔にめり込んで立ち往生してしまう。その点、トナカイほどの軽さなら、荷物を積んでその苔の中も歩いていける。トナカイの蹄は前に2つ、後ろに2つあって、ぐっと踏み込むとその蹄が開き、カンジキをつけているような状態になる。冬の間の橇による移動も、おとなしいトナカイにひかせれば、犬ぞりに比べて静かに行えるというのが利点だった。
問題は、トナカイがツンドラの苔しか食べないことだった。
この作品は、あちこちの書評で取り上げられている。
私が読む気になったのは、朝日新聞日曜版で、三浦しをんさんが誉めていたから。
困ったのは、一般の書店や図書館で入手出来ないこと。
出版社SUREに直接申し込んで郵送して貰う必要がある。
(運が良ければ、地元の図書館が入荷しているかも?)
PS
作品の中で芽登温泉が紹介されている。
行ってみたくなった。
→芽登温泉 - Wikipedia
→芽登温泉ホテル
【ネット上の紹介】
本書の著者、瀧口夕美は1971(昭和46)年、道東の代表的観光地、阿寒湖畔のアイヌ・コタンで生まれました。父は和人、母はアイヌ、家業はみやげ物屋。北海道ブームでにぎわう観光地のまっただなかで、少女へと成長していくことになりました。
「どうして、わたしは、ここにいるの?」──。
ものごころついて以来、この自問はずっと彼女のなかに続いてきたようです。
彼女の母は、その両親を早くに亡くして、道内の十勝地方から移ってきた人でした。
また、彼女の父は、幼時に満洲(中国東北部)で聴覚を失い、本州で成人したのち、彫刻家としての活動場所を求めて、この地に渡ってきた人なのでした。
観光地での商売のためには、身近な誰もがアイヌの民族衣装を身につけて働きます。けれど、日常の自分たちの暮らしに戻ると、誰もそんな格好で生活していない。自分がアイヌだと実感できる材料はひとつも見あたらないのでした。
珍しげに見知らぬ観光客からのぞき込まれたり、学校のコドモ同士ではいじめられたり。自分にとって「アイヌ」でいることは避けようのないことでありながら、はっきりとした像も結んでくれないものなのでした。
「もう純粋なアイヌ人はいないんでしょう?」と問われるたび、「アイヌって、なに?」──という疑問も、たえず自分のなかから湧きました。
わだかまりを残したまま30数年が過ぎていきます。
いまは編集者となって働く東京から阿寒湖畔のアイヌ・コタンに帰省して、あるとき、ついに彼女は切りだしました。
「ママは、どうしてここにいるの?」──。
これをきっかけに、北海道で、サハリンで、人生を重ねた北の女たちが、口ぐちに彼女へと伝えはじめた、それぞれの歴史とは?
【本書の目次】
まえがき 「今はもう日本人と同じなんでしょう?」
第1章 どうしてここにいるの?──母・瀧口ユリ子のこと
オジジのトゥイタクを聞くまで/北海道旧土人保護法──私の祖先の場合/「同化政策」というけれど/牛のおじさん/見ることと、見られること──おみやげと観光
第2章 故郷ではない土地で──ウイルタ・北川アイ子さんのこと
オタスで暮らしたころ/私は自分をウイルタでも日本人でもなくした/ソ連時代の暮らし/引き揚げる
第3章 鏡のむこうがわへ──サハリンの女たち
海を渡る/国境があった場所で
第4章 鉄砲撃ちの妻──長根喜代野さんのこと
アイヌ、自分との距離/狩猟と夫婦げんか/お風呂でのトゥイタク
あとがき 私たちの歴史