「ふしぎな中国」近藤大介
P75・・・習近平の娘
1992年に生まれた一人娘に、『明るい毛沢東』のように育ってほしいと願って『明沢』と名づけた。(ハーバードに留学して、心理学の学士号を取得したそうだ。アメリカ批判してるのに、娘を米留学させるのはなぜ?党の幹部、富裕層も自分たちの子どもを留学させている。受験競争が苛烈すぎるのも一因かも。北京大学5,000倍と聞く。それだったら留学させようか、となるのかも。但し、ハーバードは年間500万必要、そこまでお金がない富裕層は、日本留学に切り替える。早稲田は中国で人気らしい。池袋でガチ中華の店が増えたとか)
P76
習近平総書記が説く「初心忘るべからず」とは、「毛沢東主席とその時代を忘るべからず」という意味なのだ。(中略)
毛沢東時代の負の遺産――4000万人が餓死した大躍進や、10年間経済が麻痺した文化大革命など――も、今後再現されるのか?
「不忘初心」を最初に唱えた白居易は、草葉の陰で何を思うだろう。
(「初心忘るべからず」は、世阿弥「風姿花伝」だけど、元ネタは白居易だったの?)
P85
国交正常化40周年の2012年が、転機の年になった気がする。(中略)
胡錦濤政権の「和諧社会・和諧世界」(調和のとれた社会・世界)に変わって、「中華民族の偉大なる復興という中国の夢の実現」(中国の夢)をスローガンに掲げた習近平政権は、ひたすら「強国・強軍」の道を邁進していった。
P130
1984年12月、イギリスのマーガレット・サッチャー首相との中英首脳会談に臨んだ鄧小平氏は、痰唾を吐き散らしながら凄んだ。
「租借期限が切れる1997年7月1日、新界だけでなく、香港島と九龍半島も、きっちり中国に返還してもらう。もしイギリスが拒否するなら、この時刻をもって人民解放軍を派遣し、武力によって返還を実現する」
P132
6章66条からなる国安法は、習近平政権に逆らう香港人を最高で無期懲役刑に科すという衝撃の法律で、香港人は「火星法」と揶揄した。火星で火星人が習主席の悪口を言っても有罪となるような条項(38条)が含まれていたからだ。
【ネット上の紹介】
「白衛兵」「西朝鮮」「外売騎手」「45度人生」「新能源人」「錦鯉」「凡人」…あなたは、この意味わかりますか?中国ウォッチャーとして知られる著者が、新語・流行語で現代中国を読み解く。読み始めたらとまならい面白さ!
第1章 スマホ世代の中国人の素顔(社恐―会社が恐い?いえいえ…
仏系―宗教用語ではありません ほか)
第2章 毛沢東の再来を目指す習近平(共同富裕―中国IT企業は約2兆円を投資
不忘初心―説くのは、「あの御方」 ほか)
第3章 「皇帝」習近平を悩ますもの(動態清零―これが原因で中国経済が急ブレーキ
新能源人―「新能源車」(新エネルギー車)と一字違い ほか)
第4章 24時間戦えますか?弱肉強食の中国ビジネス(九九六―中国版「月月火水木金金」
打工人―打撃の職人という意味ではない ほか)
第5章 気になる隣人「日本人」(凡学―男装の麗人といえば…
迷惑行為―コロナ流行で日本から消えた ほか)
「中国大陸大全」ヤンチャン
中国は、7つの地区に分けられる。
それぞれ特色、見どころのツボを教えてくれる。
1 華北地区
2 華東地区
3 華中地区
4 華南地区
5 東北地区
6 西北地区
7 西南地区
P54
「こんにちは」は、標準語なら「ニーハオ」ですが、上海語では「ノンホウ」。「ありがとう」は、標準語なら「シェイシェイ」ですが、上海語では「シャヤーノン」となります。
P98
河南省は”中国の主だった姓氏の発祥地”でもあります。中国には3000の漢姓があり、その80%以上は河南省発祥だとも言われています。とくに漢民族の五大姓とされる「李、王、張、陳、劉」はすべて河南省が発祥です。この5大姓氏は中国人口の30%以上を占めます。
P124
中国国籍を持って海外に居住している人を「華僑」、国籍を変えて海外に居住している人を「華人」といいます。福建系の華僑と華人を会わせると1000万人に達し、そのうち900万人は東南アジアに暮らしていると言われています。
P132
深圳には「996」と呼ばれる奮闘文化があります。
朝9時から夜9時まで週6で働くからそう言われます。
でも実際はは996どころではありません。夜11時や12時まで働くのも当たり前のようになっています。
P195
西安の古称は長安です。
周、秦、漢、随、唐など数多くの王朝が長安を都としていました。
【ネット上の紹介】
旅行、ビジネス、中国語学習が10倍面白くなる! 中国と中国人の本当の面白さを理解するには、各省・地域の個性的な魅力を知ることが一番の近道! マスメディア、ウェブメディアでは見えてこなかった、現代のリアルな中国大陸の姿を、日中両国で人気のユーチューバーの楽しい語り口で一気に理解できる。
【河南省】三国志とキングダムの舞台!少林寺拳法発祥の地。面積は日本の半分でも、人口は日本と同等。
【遼寧省】ブランド品が国内一の売れ行き、メンツ意識が強い東北の省。
【上海市】アジア最大の経済都市には日本区が存在。金銭感覚がしっかりしており、おしゃれな街並みも人気。
【四川省】激辛と美女の王国!実はLGBT聖地?麻婆豆腐好きな日本人の知らない四川省。
【福建省】世界を動かす華僑最大の故郷にして烏龍茶の発祥地! 横浜中華街をはじめレストラン経営者として渡日。
【天津市】 天津飯は存在しない!? 肉まんとクレープとお笑いの都市
【内モンゴル自治区】 東西の移動が列車で丸2日、実はレアアースの都!
「台湾のりもの旅」谷川一巳
写真を見ているだけで楽しくなる。
資料としても価値があり、手元に置いておきたい。
P57
台湾の在来線では「自強号」が特急に相当
十份駅周辺はすぐ横に家と道がある
私も2020年に行ってきた→台湾・龍洞(Long Dong)⑦
台北から気軽に日帰りでき、温泉、渓谷と滝、トロッコ電車、ロープウェイからの景観などが楽しめるのが烏来である。
《日本》 | 《台湾》 |
鉄道 | 鉄路、火車 |
汽車 | 自動車 |
MRT(地下鉄) | 捷運 |
運賃 | 票償 |
切符 | 票 |
片道 | 単程 |
往復 | 来回 |
自由席 | 自由座 |
優先席 | 博愛座 |
通路側 | 道 |
大人 | 成人 |
列車番号 | 車次 |
10分遅れ | 晩10分 |
13時発 | 13時開 |
14時着 | 14時到 |
コンビニ | 便利店 |
【ネット上の紹介】
台湾の鉄道・バス・船・飛行機など、公共交通を上手に利用し、台湾国内を安く旅するための指南書。
「中国近現代史」岡本隆司監修
P46
曾国藩、李鴻章ら漢人官僚は、「洋務運動」と呼ばれる改革を進めます。スローガンは、中国の伝統を本体にして西洋の技術を応用する、という「中体西用」でした。
P53
義和団とは、道教や仏教をベースにした独自の宗教観を持ち、羲和拳という武術を使う集団です。
P135
相手にお辞儀をするときに頭を下げたり、謙譲語を使ってへりくだたりする行為は、もともと自分のほうが高い位置にいるから成立するという考え方なのです。
儒教をもとにして生まれた中華思想は、常に上下の差をはっきりと分かつ傾向にあり、これは身分制度にも色濃く反映されました。(中略)
こうして生まれた溝が、今なお格差として中国に強く根付いています。それもそのはず、中国で強く根付いて採用されていた登用試験の「科挙」は、儒教について問う試験なのですから。
P175
国民は戸籍のある場所でしか暮らせないのが原則で、農村戸籍者は、都市では都市戸籍者と同じような社会保障は受けられず、自給自足を強いられています。一方で、都市戸籍者は教育や福祉の面で優遇されているのです。つまり、この戸籍制度が国民の貧富の差を広げ、格差を決定的なものとしているともいえるでしょう。(中略)
格差が大きくなると庶民たちが反乱を起こし、王朝が交代するのが常でした。「秦」「唐」「宋」「元」「明」「清」どの王朝も反乱で終わっています。
P177
日本で官吏といえば役人(公務員)のことですが、中国では、10世紀頃の宋の時代から「官」は、政府の公務に当たる官僚、「吏」は各地方で現地雇用される事務労働者のことでした。
P178
末端で取りあげた税金は、上級官僚まで行き渡り、正規の俸給の千倍以上を着服してたとも。こうして「上から少ない俸給しか出ないため、下から賄賂で吸い上げる」という悪しき構造ができあがっていきました。(賄賂の伝統は根深い。だから一向になくならない)
【ネット上の紹介】
コロナ発生直後に武漢を封鎖できた理由、新疆ウイグルを弾圧するのはなぜか?など、見るだけで会話ができる!京都府立大学教授、中国史学の第一人者が伝授!
第1章 近い歴史を知れば、いまの中国がわかる 近現代の中国史(アヘン戦争は清王朝の終わりの始まり!?
太平天国の乱は清の土台を揺るがした象徴的事件
アロー戦争は清に怒濤のお仕置きをもたらした ほか)
第2章 根付いた原理を歴史から学ぶ 中国の思考原理(「中華思想」って一体何?
「朝貢」ってどんなしくみ?
「科挙」って何のためにあるの? ほか)
第3章 歴史をたどると見えてくる 中国の行動原理(経済―なぜ「社会主義市場経済」が成功しているのか?
経済―なぜ「米中貿易摩擦」が起きたのか?
領土―なぜ「1つの中国」を主張するのか? ほか)
「教養としての「中国史」の読み方」岡本隆司
読んでいて気持ちの良い充実の読書だった。
今年ベストの1冊、と思う。
高校生や大学生は、教養として本書を読むべし、と思った。
P58
幕末の日本で、天皇を奉じて外国勢力を退けようとした志士たちが「尊皇攘夷」というスローガンを掲げましたが、これはもともと春秋時代の覇者が用いた言葉なのです。
P86
実際『論語』を読むと、二千五百年も前にできた内容であるにもかかわらず、現在のわれわれから見ても、驚くほど違和感がありません。
きちんと挨拶しなさいとか、親孝行をしなさいとか、人生訓のようなことが書いてあるだけです。つまり、儒教の本来の教えは、わたしたちの生活の中に、リアルなものとしてある人間関係、人間のありようを、そのままモラル化・教義化したものだといえます。
そうした中で、なぜ儒教はあれほど上下関係にうるさいのか、とよくいわれます。
でも日本人がこうした疑問を抱くのは、西洋思想の影響なのです。
西洋では、「神のもとの平等」といって、絶対的な神の前では、王も庶民もみな平等だと考えます。でも現実に即して考えると、これはおかしくはないでしょうか。
そもそも神がいるという前提が、まずおかしい。だれも見たこと、会ったことがないのに、なぜ神がいるといえるのでしょう。
王も庶民も平等というのも、おかしい。社会的には平等に扱われることはないからです。会社の中もそうでしょう。上司がいて部下がいます。年上がいて年下がいます。
また身体的にいっても、背の高い人もいれば低い人もいます。腕力の強い人もいれば頭の良い人もいます。
現実の社会には必上下関係があるものなのです。儒教はそうした現実を素直に認め、受け入れるところからスタートしているのです。
人間関係には、常に上下があり、平等などありえない。
そうした現実を認めたうえで、上の人であれば何をしてもいいのか、下の者はいじけていいのか、いや、そうではないだろう。
P88
常に「私」が優先し、しかるのちに「公」に尽くすというのが、儒教の教えの基礎にある考え方なのです。(中略)
たとえば、「礼」にもとづいた行為である「お辞儀」一つをとっても、頭を下げるという行為は、自分が高いからこそ「下げる」という行為が成立するのです。自分が高いことが前提なのです。
自分を優先・尊重するからこそ、謙譲の精神が出てくる。
P89
われわれは、めざすべき「理想」は未来にあると思っています。そして、「理想」に向かって日々進歩向上していくことが善だという意識をもっています。
しかし、こうした考え方が、実は「西洋的考え」だということは自覚していません。
(中略)
儒教的な考え方は、まったく違います。
理想を掲げるのではなく、いまある現実を受け入れて、その中で自分たちがより良く生きるためにはどうすればよいのか、と考えるのが儒教だからです。
P96
西洋では、人は神のもとでは平等である、という意識があるので、自他の間に平等意識が育まれ、結果的に社会全体の範囲が広くなります。18世紀できた経済学では、奇しくも「見えざる手/invisible hand」という表現をしていますが、個々人の行動の背景には、見えないけれど共通に影響する力のようなものが存在すると、西洋の人々は無意識のうちに感じているのです。(そう言えば、「女神の見えざる手」という映画があった)
「窮波斯」という言葉
P168
つまり、直訳すると「貧しいペルシャ人」という意味ですが、この言葉は「ありえないもの」、自家撞着の比喩として使われていた言葉なのです。
P171
唐はなぜ滅びたのかというと、唐という国の体制自体が寒冷化を前提にしたものだったので、地球が温暖化に転じたとき、体制のシステム変更が追いつかず破綻してしまった、ということでしょう。
P188
疫病がなかったとしても、モンゴル政権の寿命が永く続いたとは限りません。温暖化によって生まれた、温暖化に対応した政権であり、体制だったからです。(中略)
再び訪れた寒冷化に対応できず、モンゴル政権も滅ぶことになった、とみたほうが合理的です。
P226
つまり科挙とは、実際に政務を行う官僚にふさわしい人材を選抜・登用するための制度ではなかったということです。科挙とは、実際には「士と庶」という差別社会において、士の庶からの搾取を、より合理的に正当化するための制度だったのです。
P244
賄賂や横領が横行するのも、国際ルールを無視するのも、いきなり態度を豹変させるのも、中国共産党から始まったことではありません。もともと中国はそういう国なのです。
P252
そして、宋と明では、「時代」がまったく異なります。
最も大きな局面でいえば、宋は温暖化の時代ですが、明は寒冷化の時代です。
宋と明の共通点は、皇帝が漢人だというだけのことです。
P268
中国人が発明したのが、蚕の繭から生糸を、生糸から「絹」をつくりだす技法でした。虫を家畜化したのは、おそらく世界広しといえど中国人だけでしょう。
P282
かれらの自称「マンジュ」は、文殊菩薩の「文殊」に由来するものですが、その音に「満洲」という字を当てたのは「明」が火をイメージさせる文字であることから、マンジュの発音に合う文字の中から水のイメージをもつものを選んだと言われています。ですから、最近は「満州」と「さんずい」のつかない表記が多いのですが、本来は「満洲」が用いられるべきなのです。
P288
少数派の清が北京を占領してすぐに、一つだけ漢人に強要したことがあります。
服従の証として「辮髪」にすることでした。(中略)
しかも十日以内に実行するようにと、期限まで切っているのです。(中略)
高圧的に見えますが、裏を返せば、当時の清にはこれぐらいのとこしか漢人に命じられなかった、ということができます。
そしてもう一つ、辮髪を強要したのには、人工の1パーセントにも満たない自分たちの存在を目立たせなくするという目的もありました。
外見は辮髪にさせ、服装も満洲人のものに変えさせているのですが、その一方で、満洲人たちは懸命に朱子学や漢学を勉強しているのです。
つまり、人々の外見は満洲人になったのですが、その中身は漢人のままで、むしろ満洲人たちのほうが漢人に近づいていったといえるのです。
17世紀=1億人、18世紀半ば=3億人、19世紀初頭=4億人突破
P293
人口の急激な増加は、清の社会にさまざまな問題を引き起こしましたが、最たるものは食糧問題でした。
P294
国内に生きる場所を失った人々は、海を渡って東南アジアへ移住の範囲を広げていくことになります。これが「華僑」の始まりです。(アイルランドのポテト飢饉のようなものか?)
P294
しかしいくら民間ががんばったところで、1億人のために作られたシステムが、4億人の社会にとても通用するものではありません。それでも清の政府は、既存のシステムを変えようとしなかったのです。変える力量がなかったというほうが、むしろ正確かもしれません。
P310
歴史を見るうえで大切なのは、他者と比べて優劣をつけ、毀誉褒貶に走ることではなく、それぞれの異同を知り、その由来を理解することです。
P311
念のためにいっておくと、こうした「法の支配」の有無は、その人々が暮らす自然環境と、それにもとづく歴史的結果であって、断じて本質的な優劣の問題ではありません。政治的なイデオロギーや主張ならともかく、学問的には現代世界のスタンダードから善悪を評価すべき問題ではないのです。
袁世凱の独裁について
P328
これはフランス革命後に議会がうまく機能せず、ナポレオンの独裁・即位を招いたのとよくにています。物事が進まないときは、トップダウンの独裁にするのが、最も手っ取り早い対処法だからです。
共和制の体裁を保ちながら、トップダウン方式をやろうとすれば、どうしてもレーニンが考えた「Party/党国家」、つまり一党独裁国家にせざるをえないのです。
P330
孫文は国共合作の翌年に亡くなりますが、中国国民党は折しも高まった反帝国主義運動に乗じて、広州に国民政府を設立し、翌1926年には、国民革命軍を北伐に派遣しています。このとき孫文の遺志を継いで国民革命軍総司令として北伐の指揮を執ったのが、蒋介石でした。
P344
「白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕まえてくれさえすればいい猫だ」という有名な言葉の実行です。白い猫は社会主義を、黒い猫は資本主義を、そしてネズミは経済発展を象徴しているとされるこの言葉どおり、鄧小平は、中国に資本主義をもち込みます。これが「改革開放」といわれる政策です。
(中略)
上下乖離、官民乖離、士と庶という中国がどうしても克服できない「二元構造」に応じた「分業」政策だったからこそ「改革開放」はめざましい成果を収めたのです。
P350
中国との交わり方は、「水の如し」がいいと思います。
深入りするのはよくありません。とくに相手のことがわからないのに深入りするのは、相手に対して失礼、自分にとって危険です。
P352
教養のない専門ではタダのオタク、専門のない教養ではタダの物知り。
【参考図書】
「近代中国史」岡本隆司
「台湾海峡一九四九」龍應台
「中国「反日」の源流」岡本隆司
【ネット上の紹介】
保阪正康氏、推薦!「中国を知る最良の方法とは何か? それは中国特有の歴史構造を読み解くことだ。本書はまさにその最適な書である」最も近接し、否応なくつきあわねばならない大国――中国。中国を知ることは、日本人が現代の世界に生きていくうえで必須喫緊の課題であり、いま求められている教養です。なぜ中国は「一つの中国」に固執するのか。なぜ中国はあれほど強烈な「中華思想」をもつのか。なぜ中国は「共産党一党独裁」になったのか。なぜ中国はあれほど格差が大きいのか。なぜ中国は「産業革命」が起きなかったのか。「対の構造」をはじめとする中国の個性がわかれば、こうした疑問を解き明かす道筋が見えてくる!東洋史研究の第一人者が明快に語る隣国の本当の姿。
中国は「対の構造」で見る
1 「中国」のはじまり―古代から現代まで受け継がれるものとは(なぜ「一つの中国」をめざすのか
「皇帝」はどのようにして生まれたのか
儒教抜きには中国史は語れない)
2 交わる胡漢、変わる王朝、動く社会―遊牧民の台頭から皇帝独裁へ(中国史を大きく動かした遊牧民
唐宋変革による大転換
「士」と「庶」の二元構造)
3 現代中国はどのようにして生まれたのか―歴史を知れば、いまがわかる(現代中国をつくり上げた明と清
官民乖離の「西洋化」と「国民国家」
「共産主義国家」としての中国)
「中国「反日」の源流」岡本隆司
P41
いまも残る壮大な万里の長城ができたのは、明朝のときである。さらにこの時代は、海外からの船舶で来航することはもとより、中国から出航することもほとんどできない厳重な海禁が布かれていた。いわば長城と海岸線が、中国と外国の往来をはばむ障壁をなし、その内側を「華」として重んじ、外側を「夷」として軽んずる。
P51
1583年、わずか百名の勢力で挙兵したヌルハチは、およそ30年かけてジュシェンを統一し、自らの集団をマンチュ(満洲)とよび、1616年にハンの位についた。のちの清朝がここで成立する。
P52
ヌルハチはもとより、ムスコのホンタイジが1636年、皇帝に即位してからも、この論理にしたがって勢力の拡大をはたしている。清朝ははじめから、満州人を中核として、漢人・モンゴル人を包含する多種族の混成政権を志向していた。(中略)
このころ満州人の総人口は、いかに多く見積もっても、50万ほどでしかない。かたや長城以南の明朝中国は、1億を下らない。それだけで、たがいの勢力がいかに隔絶していたか、明らかである。明朝が流賊・内乱で自滅するという事態がなければ、清朝が長城を越え、北京に乗りこんで、中国に君臨することは、とても不可能だった。しかし1664年、明清の交代という、いわば奇跡が実現しえたことは、やはり偶然ではない。明朝のアンチテーゼともいうべき清朝政権の体質が、より時代の趨勢にふさわしかったといえよう。
P92
19世紀の中国では、ほぼ50年ごとに、3つの大乱が起こった。1800年前後の白蓮教徒の反乱、19世紀半ばの太平天国、1900年の義和団事変で、ここでいう秘密結社が、その中核となっていた点で共通する。
P112
イギリスとの貿易こそが、18世紀後半の中国の好景気拡大、乾隆の盛世を支えた原動力だといっても過言ではない。
P121
イギリスの売りつけにも劣らないほどに強力な、受け入れ体制が中国にある。さもなくば、あれほどアヘンは蔓延しなかったであろう。
P136
客家とは新米の居住民であって、言語・風俗・習慣が在来の土着民とは異なる。広東省・広西省でも、18世紀に移民の入植・開発が進行しており、客家はその過程で、先住民と激しく対立し、当局から弾圧の対象とされたことも少なくなかった。こうした人々に上帝教が浸透し、純粋な信仰のみならず、自分たちの「天国」を地上に建設しようという動きをはじめる。それにともなって、上帝会もしだいに反権力的な色彩を強めるようになり、それがまた、官憲の猜疑と弾圧をかきたてた。上帝会もついに、清朝を打倒して「太平天国」を建てると宣言し、武装蜂起にふみきったのである。
P198・・・李鴻章の言葉
日本はすぐそばでわが虚実をうかがっており、まことに中国永遠の大患なのである。
P227
1931年の満州事変・翌年の「満州国」建国であり、15年にわたるいわゆる「抗日戦争」の勃発である。そこで決定的・全面的に、日本こそが中国の「主権」の侵奪者、民族主義の主敵と化した。愛国がとりもなおさず、反日を意味するようになったのである。現代までつづく日中関係は、したがって1905年が事実上の出発点である、といわねばならない。
P230
現代のわれわれが最も気になるのは、中国の「反日」である。だから、中国はなぜ「反日」になったか、という問いも発せられる。しかしこれは、問い自体がおかしい。「反日」を文字どおりに解するなら、中国は史上ずっと反日であって、何かのきっかけで、あらためて「なった」わけではないからである。遅くとも明代、日本を「倭寇」とみなしてからは、そうである。
【参考リンク】
「近代中国史」岡本隆司
「目撃天安門事件 歴史的民主化運動の真相」加藤青延
「紅茶スパイ 英国人プラントハンター中国をゆく」サラ・ローズ
【ネット上の紹介】
たんに「愛国」ということなら、日本人の多くも異存はない。日本にもナショナリズムはある。いわばおたがいさまのものである。自尊の意識なのだから、それがある程度の排外をともなうのも、常識の範囲内であろう。しかし中国の場合、現代日本人がわからないのは、まず日本がその排外の対象となり、それがいっこうに改まらないことにある。「愛国」が「反日」とイコールでむすびつき続ける中国人の心情と思考が、不可解かつ不気味なのである。倭寇の時代から現代まで歴史が明かす「反日」の本質。
第1部 「近世」の日本と中国(東アジアの一八世紀
統治のしくみ
明から清へ
マクロな動向)
第2部 「近代」の幕開け(一九世紀をむかえて
西洋近代との邂逅
開港と開国
動乱の時代)
第3部 近代日中の相剋(近代日清関係の始動
日清対立の深化
「洋務」の時代
愛国反日の出発)
「近代中国史」岡本隆司
このところ、中国ドラマを観ていて、その社会背景が気になったので読んだ。
これで、「瓔珞」「月に咲く花の如く」「明蘭」の理解が深まる・・・かも。
人口と経済からみた近代中国史。
目から鱗の良書、ぜひ読んでみて。
P30
そもそも中国史・東洋史とは、遊牧世界と農耕世界の共生・相克がその大部分をしめており、経済史もその例にもれない。
P64
清朝の時代には、しばしば課税の減免があった。とりわけ18世紀の好景気で、税制に余裕があった乾隆帝の時代に多い。(中略)
その善政は決して、一般の庶民にまでとどいていない。(「瓔珞」「如懿伝」は、乾隆帝の時代)
P142
ヌルハチは1583年に挙兵し、およそ30年かかってジュシェン全体を統一した。ジュシェンは以後、自らマンジュ(満州人)と改称し、のちの清朝政権が成立する。
以上のような経緯から、この政権は、多種族からなる武装貿易集団の性格が濃厚である。(中略)清朝ははじめから、満州人を中核として、漢人・モンゴル人を包含する多種族の混成政権を志向していた。
このような清朝政権は、商業を忌避し、交通を遮断し、「外夷」と「中華」・外国と中国・異種族と漢人とを分断しようという明朝の志向とは、全く相反する存在である。(中略)
したがって、明と清は対立を深めざるをえなかった。1億と50万、高度な農工業と狩猟・遊牧。人口や生産力をみるかぎり、彼我の優劣は、火を見るより明らかである。明・清の王朝交代は、史上の一大奇跡といってよい。
清朝は実際、いかにしても自力で長城を突破して、明朝を打倒することはできなかった。明朝が1644年、内乱で自滅したために、北京に入って中国に君臨できたのである。
P154
ドル貨は円形なので「圓」、あるいは同音で画数が少ない「元」と称する。
P167
「17世紀の危機」という歴史用語がある。もともとはヨーロッパ史の概念であり、1630年代から40年代にわたって、異常気象と飢饉がおこり、また新大陸の銀輸出が激減したために、社会的・経済的な混乱をきたしたことに始まる経済下降局面を指していう。(中略)同じ時代・明末清初期の中国も、例外ではなかったからである。
P148
1644年、清朝が北京に入って以後の中国支配は、前代明朝の制度・慣行を尊重して、在地在来の秩序になるべく手をふれないことを原則とした。目につきやすいところでは、皇帝独裁・官僚制・科挙の踏襲・全面的な漢人の登用などをあげることができる。
P268
「貧しきを患(うれ)えず」、均しからざるを患う」という理想が有効なかぎりは、それでも通用した。文化大革命までの時代である。「貧しさを患え」たところから「改革開放」がはじまった。その結果は貧富の懸隔・沿海と内陸の乖離という、「均しからざるを患う」現状になっている。経済発展をとるのか、中国の一体化をとるのか。もはや二者択一できない。両立せねばならないところに、現代中国のジレンマがある。
【疑問】
とても面白かったのだけど、疑問が残った。
少数民族の満州人が、圧倒的多数の漢民族をどう支配したのか? 具体的なところがよくわからなかった。また、弁髪はどの程度、漢民族に浸透したのだろう?
宮廷ドラマでは、満洲民族の風習として、左右の耳に3つずつ、合計6つイヤリングを付けている。庶民の女性も、そうしたのだろうか??・・・そのところを知りたい。
【蛇足のファンタジー】
シンデレラの足は小さかった・・・纏足していただろうか?(ガラスの靴をはいて、外反母趾にならなかったのだろうか? そもそも纏足していて踊れたのか?) 満州人の少女がシルクロードを使ってヨーロッパにやってきてシンデレラになったのだろうか?・・・ファンタジーだ。本書を読んでそんなことを考えた。(もともと中国にあった話がヨーロッパに伝わった、とみたほうが自然かもね)
【ネット上の紹介】
中国とは何か。その原理を理解するための鍵は、近代史に隠されている。この時代に、「幇」とよばれる中国団体をはじめ、貨幣システム・財政制度・市場秩序など、中国固有の構造がつくられたからだ。本書は経済史の視座から一六世紀以降の中国を俯瞰し、その見取り図を明快に描く。かつて世界に先んじた中華帝国は、なぜ近代化に遅れたのか。現代中国の矛盾はどこに由来するのか。グローバル経済の奔流が渦巻きはじめた時代から、激動の歴史を構造的にとらえなおす。
プロローグ―中国経済と近代中国史
1 ステージ―環境と経済
2 アクター―社会の編成
3 パファーマンス―明清時代と伝統経済
4 モダニゼーション―国民経済へ向かって
エピローグ―中国革命とは何だったのか
「中国VSアメリカ」橋爪大三郎
今後の米中を考える入門書。
日本は、どう対処したらいいのか?
P77
習近平は、文化大革命で辛酸をなめた経験から、リベラルな政治家ではないかという観測が就任時にあった。その反対だった。陝西省で思春期を過ごし、海外の情報にも触れなかったため、周恩来や鄧小平とは対極的な、土着的な感性をもっている。胡錦濤が指導力が足りなかったので、決断力のあるリーダーがよいという長老の総意で、指導者に選ばれた。よくも悪しくも、中国の「本音」を体現する政治家である。(現在、共産党幹部の多くが、子息や令嬢を、留学させている。海外から彼ら、彼女らが戻ってきたら、その政治基盤は「世襲」されるであろう。すると今後、国際関係を理解するリベラルな中国に移行する・・・かも?)
P254
五族協和(融和)は、清朝の実態そのものであった。あくまで、多様なものの混在である。漢族は漢族、満族は満族、回族は回族、・・・だ。清朝は漢族に、たしかに、満族の風習(弁髪、纏足、服装、・・・)を強制した。けれども漢族を、満族に同化吸収したわけではなかった。漢族は漢族のままだった。むしろ満族が、漢族に同化吸収されたのだった。
(満族の風習=弁髪、纏足、とあるが、弁髪はともかく、纏足は漢民族の風習じゃないのか?・・・纏足 - Wikipedia)
中国共産党への異論
P264
第一に、抗日戦争に勝利したというが、主に戦ったのは国民党で、共産党は脇役だったのではないか。第二に、人びとをを幸福にしたというが、財産や生活基盤を奪われたり、大躍進や文化大革命の間違った政策で死亡したり苦難にあえいだりした人びとも多いのではないか。第三に、改革開放は要するに資本主義で、共産党にふさわしいやり方なのか。第四に、大国となった中国は、国際社会で尊敬を集めるどころか、反感をもたれ孤立しているではないか。
【ネット上の紹介】
米中対決の時代がやってきた。歴史の針はもはや逆回しにはできない。これは米ソ冷戦とはまた違った、世界史の大事件である。年々存在感を増していく中国―私たちは何をどう考えればよいのか。中国共産党という不思議な存在の正体とは?中国のナショナリズムとは?香港、台湾はどうなる?起こりうる軍事衝突のシナリオとは?政治・外交に携わる人、ビジネスパーソン、一般市民も必読の、これからの「米・中・日」関係入門。
第1章 関与政策―アメリカの失敗
第2章 中国共産党の中国―毛沢東・〓小平・習近平
第3章 現代中国の本質
第4章 緊迫する香港
第5章 米中の軍事衝突
第6章 ふしぎな中国のナショナリズム
第7章 中国vsアメリカ自由連合
「目撃天安門事件 歴史的民主化運動の真相」加藤青延
著者は、元NHK特派員。
リアルタイムで、天安門を目撃・取材。
さらに、その後も調査・検証をすすめて本書を著した。
第一次天安門と第二次天安門事件
P43
周恩来追悼のために花輪を掲げて人民英雄記念碑に集まった多くの市民が、1万人を超える民兵や警察官によって広場から暴力的にけ散らされた。
当時政治の実権を握っていた毛沢東夫人の江青ら四人組を中核とする左派陣営は、周恩来の片腕として働いていた副総理の鄧小平が「背後で民衆を扇動し実権を握ろうと企てた」と非難し、鄧を失脚に追い込んだ。つまり1976年の第一次天安門事件は、左派幹部が右派の鄧小平を追い落とす口実に使われた。皮肉なことに、二度目の天安門事件といわれた今回は、その時とは主客が逆転し、結果的に鄧小平が学生や市民に牙をむき、彼らに寛容な姿勢を見せたリベラルな指導者、趙紫陽を失脚に追い込むことになった。
趙紫陽の元秘書の言葉
P64
「鄧小平はもともと100%趙紫陽のことを信じていた。だが、胡耀邦の追悼大会の件で、問題に気づいたのだ。趙紫陽は、ソ連でスターリン批判を行ったフルシチョフのように、自分が死んだ後自分を批判する秘密演説を行うのではないかと」
鄧小平は、なぜ表に出ず、垂簾政治のようなことをしたのか?
P79
それは、自ら保守的な側面を保ちつつ、開明的な政治を部下の胡耀邦や趙紫陽にやらせることで、若者たちの指示を集め、万一行き詰まれば部下のクビをすげ替えることで、自らの権力を保ち続けようとしたからではないのか。
戦車男の正体
P223
それは「あの勇ましい男と戦車の光景」は、「戦車は人をひかない」ということをわれわれ外国の報道機関にアピールするために当局側が仕組んだ「自作自演」である可能性を示唆する言葉だった。(それまで、陰で、さんざんひき殺している)
P229
習近平をはじめ、中国指導部の多くが、なぜ自らの子息や令嬢を、彼らが「最も精神汚染されている」とみなす米国や英国に留学させてきたのだろうか。彼らが「人民」に求めてきたことと、大いに矛盾しているのではないか。
【雑記】
歴史上、気になる事件、引っ掛かる出来事、ってのがある。
天安門事件も、そのひとつだ。
いったいアレは何だったんだろう、と。
それが今回、本書を読む動機だった。
結局、第一次天安門、第二次天安門事件、どちらも共産党内部の権力闘争なのか、と。
戦車男は、自作自演だったかも、と。
天安門広場に最後まで残っていた3,000人か4,000人の学生は、全てひき殺されたわけじゃなく、戒厳軍と交渉して、自主撤退した、と。
本書を読む限り、そのような結論に至る。(この結論は信憑性が高いように感じる)
台湾の“野猫”
閉ざされた部屋
母が逝く
顔家物語
「顔寓」の主
台湾妙―あとがきにかえて
上巻P369
第2章 中国IT企業はいかにデータを支配したか
第3章 中国に出現した「お行儀のいい社会」
第4章 民主化の熱はなぜ消えたのか
第5章 現代中国における「公」と「私」
第6章 幸福な監視国家のゆくえ
第7章 道具的合理性が暴走するとき
葉盛吉・伝
長老
でこぼこの歩道
歴史の木霊
二隻の船
李登輝さん
続・李登輝さん
南の俳人たち
老台北〔ほか〕
目覚めのころ 1931‐36
学びのころ 1936‐44
戦中戦後の混乱を生きる 1944‐53
独立のころ 1953
夢中で仕事をしていた 1953‐60
路地裏で花開く洋裁学校の全盛期 1960‐74
終わりの季節―1974‐94
終わりに―最後の盛装
「美麗島紀行」乃南アサ
美麗島とは台湾のこと。
「六月の雪」の基となる紀行文だ。
P12
今回から始まる「美麗島紀行」は、ある時代は同じ国民となり、また離れ、それでもよき隣人であり続ける台湾の「今」を見つめ、書き留めていくことと共に、「今に至る」人々の記憶と、かつてこの島で生き、暮らした人たちの息吹を記していくことを目的にしている。そうすることで、合わせ鏡のように今の日本がまた見えてくると思うからだ。
P23
「これはヒルギの木です。六月になると真っ白い小さな花が一斉に咲きます。台南には雪は降りませんから、私たちはその花を『六月の雪』と呼んでいるんです。綺麗ですよ」
P213
始めて台湾を訪れるという人から「おすすめの場所は」と尋ねられると、私は必ず国立台湾歴史博物館と答えることにしている。
P222-223
(裕仁)親王の台湾訪問を機に、それまではマハマヤンあるいはシルビア山などと呼ばれていた台湾第二の山は「次高山(つぎたかやま)」と名を改められ、また「先住民の名称を従来の『蕃人(ばんじん)』から『高砂族』に改め」(伊藤潔『台湾』中公新書)ることになった。
山の名を改めたのは、かつて明治天皇が台湾の最高峰モリソン山を富士山よりも高い、つまり日本の新たな最高峰であるという意味で「新高山」と改めたことを意識しての事だろうし、原住民の名称に対しては、「自国の民」であるのに、清の統治下にあった頃からの呼称とはいえ、「番」あるいは「蕃」という文字は使いたくないとの考えからだろう。
【ネット上の紹介】
人気作家・乃南アサが台湾各地をくまなく巡り、台湾と日本の深い関係性についてその歴史から思いを馳せる異色の台湾紀行。著者自らが撮影した、台湾各地の情緒あふれる写真とともに構成する。
時空を超えて息づく島
夏場も時代も乗り越えた小碗の麺
牛に引かれて、ならぬ「牛舌餅」にひかれて
台中で聞く「にっぽんのうた」
道草して知る客家の味
過去と未来を背負う街・新竹
「お手植えの黒松」が見てきた歳月
宋文薫先生夫妻
淡水の夕暮れ
矛盾と摩擦の先にあるもの
日本統治時代の幕開けと終焉―宜蘭
嘉南の大地を潤した日本人―八田與一
「文創」が生み出すもの
三地門郷で聞く日本の歌
「帰れん港」と呼ばれた町・花蓮
出逢いと別れを繰り返す「雨港」―基隆
夕暮れの似合う街・台南ふたたび
手のひらに太陽を
「日本人だった」―台湾の老翁たちにとっての日本統治時代