特集:SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2011
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SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2011覚書
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
『クロッシング』(セリム・デミルデレン監督)はタイトルから考えてみたい。主人公のギュヴェンが妊娠している妻を癒すために車で森に向かっていた同じ頃に、やがてギュヴェンと同じ部屋で働き始めるようになるアルズは産気付いて、夫のタマルが車を運転して慌てて病院に向かっていた。2台の車は偶然にも同じ時刻に同じ交差点(=Crossing)に差し掛かる。アルズが乗車していた車は難を逃れたが、たまたまよそ見をしていたギュヴェンは交差点で他の車とぶつかってしまい、妻とお腹の中にいる子供を失ってしまう。アルズが亡くなり、ギュヴェンが幸せな人生を送ることになる可能性はあったのであるが、そうはならなかった。この物語はそこから始まる。その後ギュヴェンは自分に家族がいるように振る舞い、何故そのような行動を取るのか解りにくいのであるが、この物語はリアリティーとしてではなくて‘寓話’として観るべきなのである。ギュヴェンの周囲にはアズルを初め、様々な女性が現れる。ギュヴェンが借りている大家の息子であるヴェダトで携帯電話が原因で家出をする娘、重い病で入院している同僚のハイデルの妹、同じく同じ職場にいるが仕事もせずにパソコンのゲームで遊んでいるバヌー、そしてアルズの幼い娘。彼女たちはギュヴェンの娘が生きていた場合にどのようになっているのかというイメージとして‘交錯’(=Crossing)するのである。そしてどのような人生を歩もうとも最後に待つものは死であるという事がラストでギュヴェンが妻が眠る墓地に向かう事で暗示させる。
『チャンス』(アブネル・ベナイム監督)の面白さは、トーニャとパキータの2人のメイドの反乱劇もさることながら、‘映像の復讐’という点も見逃せない。メイドたちが夢中になって見ているテレビドラマは主人とメイドが恋に落ちる『愛の魔法』である。彼女たちはこのようなソープオペラを見て憂さを晴らし、それが上流階級の人々の地位を安泰にさせている。しかし技術の発達で誰でもが映像を撮る事が出来るようになり、その結果、フェルナンド・ゴンザレス・デュボアの息子のダニエルがハンディカメラで隠れて撮った、マリテとマリヴィの双子の姉たちのベッドの上の乱交シーンや、父親のフェルナンドと庭師のマチェとのホモ行為を妻のグロリアが見てしまい、上流階級を脅かす。
『カラーズ・オブ・マウンテン』(カルロス・セサル・アルべラエス監督)はタイトル通りに‘色’にこだわった演出が見られる。主人公の小麦色の肌をしたマヌエルとフリアンが一緒に遊んでいる友達は‘ポカ・ルス’とあだ名で呼ばれている白人の男の子である。彼らはマヌエルが所有している泥まみれのサッカーボールで遊んでいたのであるが、もはや転がらないくらいにボロボロだった。ようやく父親にプレゼントされて白黒がくっきりしている真新しいボールで遊ぼうとしたら、すぐボールを地雷地帯に蹴飛ばしてしまい遊べなくなってしまう。マヌエルは父親の代わりに白い牛と一緒にいる黒い牛の乳を絞ろうとするのであるが、上手く乳を絞ることができない。まるで‘白黒つける’ことは大人に任せて、まだ9歳の子供のマヌエルは様々な色の鉛筆を使って好きな絵を描いていろと言わんばかりなのである。
『DON'T STOP!』(小橋賢児監督)は半身不随の主人公がアメリカの「ルート66」に沿って10日間の旅をする感動のドキュメンタリー作品ではある。「夢を諦めちゃいけない、やろうと思えば絶対にできるんだ」ということを描きたかったと監督は語っていた。障害者が主人公であるために批評しにくいのであるが、このような旅が出来るのは自宅の地下室にバーがあるほど主人公が裕福だからであり、誰もが夢が叶うわけではない。グランドキャニオンで主人公に僧侶が近づいてきて、祈ってもらえたのも映画撮影をしていて目立っていたからである。「ニューエイジ」の典型的な作品だと思う。
『チルドレン』(武田真悟監督)は児童養護施設で暮らしていた主人公の康介と牧師を父親に持つ木下美香という対照的な家庭環境で育った2人が、お互いが抱える問題を共有し合うことで、それぞれの家族から独立して2人で新たな家庭を築こうという意志がラストで垣間見えるが、康介の父親が母親の家から2人を車に乗せて武州荒木駅まで運転するシーンは状況から判断するならば、酒気帯び運転なのであるが、それは康介が父親に見切りをつける暗示だったのであろうか?
『SPINNING KITE』(加瀬聡監督)は‘凧’に例えられた4人の若者たちの、それぞれの‘スピン’振りが描かれている。私が気になった部分はその‘タコ’たちの行方である。凧が揚がる‘基軸’となるものはこの作品においては木更津という彼らの故郷だと思うが、結局、彼らは木更津から出ることが出来ない。勿論、そのような人生があってもいいのであるが、例えば『荒野の彼方へ』(ヴァンニャ・ダルカンタラ監督)の主人公であるニナと比べてみる。1940年のポーランドで夫のローマンとまだ赤子のアントンと幸せに暮らしていたニナはある日、ローマンが従軍中に進攻してきたソ連軍に収容所へ強制移住させられる。しかしこの作品では詳細は語られずに、ニナは敵方の軍人や病気になったアントンのために薬を取りに行ったり、亡くなったアントンの墓地を頻繁に訪れたりと、とにかくステップと呼ばれる美しい大草原を東奔西走する。1946年の春にニナはようやく夫のローマンと再会できるのであるが、2人は多くを語らずにニナはローマンが運転する車に乗っているところで物語が終わる時、原題の『Beyond the Steppes(ステップを越えて)』の‘Steppes’が同音異義語の‘Steps(足跡)’に同調することで、それまでのニナの長い足跡を越えていこうという力強い意志が宿るのである。このような‘詩的超越’が『SPINNING KITE』には感じられないのが残念だと思う。
『ある母の復讐』(ギャビン・リン監督)はオリジナルの脚本が秀逸で、前半の主人公の夫のグォウェイのグダグダ振りから後半になり妻のユイホアによって一気に緊張感をもたらされるストーリー展開が素晴らしい。
『シンプル・シモン』(アンドレアス・エーマン監督)は主人公でアスペルガー症候群のシモンが兄のサムと‘理想の家庭’を築こうと孤軍奮闘する物語であるが、アポロ時代の宇宙船に乗って物事を客観的に見ようとしたり、自分のことを‘サイモン’と呼ばせたり、サムに新しいパートナーとしてイェニファーを結びつけるために、ヒュー・グラント主演のラブコメディを参考にするなど、シモンの理想とするものが全て‘アメリカ産’であるところがパロディとして興味深い。
『キニアルワンダ』(アルリック・ブラウン監督)は1994年のルワンダで起きた大虐殺が扱われているが、主人公のジャンヌ(=ジーン)の両親を彼女の隣に住んでいたエマヌエルが殺した出来事を中心として描かれている。フツ族とツチ族の対立以外にも、無邪気な子供目線による描写や、ジャンヌの父親の不倫まで、大虐殺の中の‘日常’が丁寧に描かれている。部族対立に加えて社会的階級の対立やジェラシーなどが絡まった複雑な要因がエマヌエルを殺人へと駆り立てたと感じた。
「セシウム牛いりません」大分県議、絶叫大会で(読売新聞) - goo ニュース
大分県由布市湯布院町で10日に行われた「由布院牛喰い絶叫大会」で、大分県畜産
協会長で同市区選出の近藤和義県議が大会冒頭のあいさつ後、最初に見本として、
「セシウムで汚染されたわらを食べた牛の被害が広がっている。由布院の牛肉は汚染の
わらを食べていないので安全だ」と絶叫し、一呼吸置き、「セシウム牛は要りません」と声を
張り上げたことに対して、被災者から「失礼な発言」と憤る声が出ているらしい。近藤県議は
読売新聞の取材に対し、「国の対応のまずさを批判する内容だった」と説明しているが、
その通りなのであろう。例えば「福島県産の牛はいりません」であるならば、失礼な発言と
捉えることはできるが、誰だって「セシウム牛は要りません」と思っているはずだし、好んで
セシウムを摂取した牛を食べる人はいないであろうから、問題発言になるわけがない。