原題:『Golden Voices』
監督:エフゲニー・ルーマン
脚本:エフゲニー・ルーマン/ジブ・ベルコビッチ
撮影:ジブ・ベルコビッチ
出演:ウラジミール・フリードマン/マリア・ベルキン/アレキサンダー・センドロビッチ/エベリン・ハゴエル
2019年/イスラエル
正統性の方便としての「戦争」について
1990年、ソ連からイスラエルに移住してきたヴィクトルとラヤのフレンケル夫妻は映画の声優を生業としていたのだが、声優の仕事はなかなか見つからない。ヴィクトルは舞台の仕事を得るためにマーロン・ブランドの『波止場』のセリフを言うものの、身体を使わない声優だったために落とされ、イラクからのミサイル攻撃時の緊急放送のアナウンスの収録もそれが実際に使われた時にしかギャラが発生しないために途方に暮れていたところに海賊版レンタルビデオ店を通して声優の仕事にありつき、ラヤは香水販売という口実で夫に内緒でテレフォンセックスの仕事を得るのだが、ある意味では自身の声優業のキャリアを活かせる仕事ではあった。
たまたま気まぐれでヴィクトルが電話した際に、ラヤが応対したことで、自分の妻が「マルガリータ」という偽名で働いていることに気が付き、口論の末にラヤは家を出てしまい、以前から贔屓の客だったゲラに会ったりしている。
ヴィクトルは知的な作品が好きらしく特にイタリアのフェデリコ・フェリーニ監督作品が好きで、妻と一緒に写真も撮ってもらっているのだが、海賊版レンタルビデオ店の従業員たちは誰もフェリーニを知らない。映画館で盗撮をしているところを警官に見つかり逮捕されそうになったヴィクトルを助けたのはその映画館の支配人だった。支配人はヴィクトルに正式に声優の仕事を依頼したのだが、当然イスラエルの人々もフェリーニを知らないために新作『ボイス・オブ・ムーン』(1990年)を映画館でかけても観客はそれほど集まらない。
この夫婦がどのようになるのかが関心の的になるはずだが、突然イラクからのミサイル攻撃のサイレンが響き、ヴィクトルはラヤを探し出して、映画館にいたラヤにガスマスクをつけさせて、寄りが戻り、ラストは引っ越しの場面で終わる。このラストシーンがどうも納得しかねる理由は、ラヤが声優のキャリアを「個人的に」上手く利用することで女性の自立を目指したものの、ヴィクトルの上から目線のマッチョさが戦争を理由に正当化されているところである。決して多く観た訳ではないのだが、イスラエル映画にはジャンルに限らず必ず自国の「正統性」を主張したがる嫌いがあると思う。