コクリコ坂から
2011年/日本
父親に救われる俊と吾朗の意義について
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
敢えて‘父親殺し’から物語を始めた、宮崎吾朗監督のデビュー作『ゲド戦記』(2006年)の評価をここでするつもりはないのであるが、『コクリコ坂から』の脚本を託されることなく、父親の宮崎駿が担当したところを見ると、宮崎吾朗監督の‘父親殺し’は失敗に帰したと見なされても仕方がないであろう。
実際に、物語自体にはそつが無く、大人たちのノスタルジーを大いに刺激するが、子供たちには退屈するくらいに渋いものであり、「昔は良かった」という話を聞かされて、それを守ろうとする主人公たちが生きている時代が1963年という昔なのだから、守るべきものが既に失われ、高度な経済の成長も今後全く期待できない現代の子供たちが面白いわけがないということはともかくとしても、作画には数々の疑問が残ってしまった。
例えば、松崎海(フランス語でメル)が朝食にハムエッグを作っているシーンがある。下宿人たちの分も含めてハムエッグを6つ作るのであるが、海が使っているフライパンの大きさは到底6つも同時に作れるほどの大きさではない。このような細かいところも今までのジブリ作品は丁寧に作りこんでいたはずなのであるが、この作画の‘大雑把感’がしばしば目についてしまう。勿論、アニメーションであるのだから、現実に忠実である必要はない。例えば、俊と海が一緒に自転車に乗って坂を滑走するシーンなどは現実を逸脱するからこそ観客に爽快感をもたらすのであるが、フライパンを小さくする作画的効果が私には分らないのである。物語の流れから判断してもギャグとは考えられない。
要するに‘父親殺し’に失敗した息子が、再びその父親にチャンスを与えられたにも関わらず、作画において父親が書いた脚本を凌駕することもできなかったという体たらくをさらけ出してしまっているのであるが、それはあくまでも余談であり、辛うじて脚本によって拙い作画は救われていると思う。
2020年夏「五輪どころではない」との意見も(読売新聞) - goo ニュース
20年東京招致 “復興五輪”勝算あり?(産経新聞) - goo ニュース
「石原知事が示す『復興五輪』の旗印は、終戦直後の焦土の中から立ち上がり、『戦後の
総決算』をうたった1964年東京五輪に似ている」という産経新聞の記事には違和感を
覚える。1964年に日本で戦争が起こる可能性はほとんど無かったわけだから、「戦後の
総決算」は成り立ったのである。石原慎太郎は「都は汗をかいてカネも出す、施設も造る」と
明言してしまっているが、もちろんカネを出すのは石原ではなくて都民であろう。「万難を
排して戦う。9年先のことで、そこまでに(被災地が)立ち上がっていなかったら日本は沈む。
再建し今まで以上の国にするためにも、オリンピックは一つの要因になる」と石原は語る
のであるが、何故今後、大規模な余震が起こることを想定しないのか不思議でならない。
結局、都知事として大した実績がない石原は自分の手でオリンピックを東京で開催すると
いう実績を作りたいだけなのだと思うが、また無駄金を注ぎ込まなければならない都民が
気の毒でならない。「国民一体となって目標に向かうことは国益になる」としてJOCの
竹田恒和会長までもが招致実現に転じてしまったことは残念だった。なかなか日本の
トップに立つ人たちが現実を見ようとしないのは世代の問題なのだろうか
「脱原発」は政府見解ではない…首相釈明(読売新聞) - goo ニュース
菅首相“豹変”の陰に「ある人物」の存在【週刊・上杉隆】(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース
性急な政治主導が招いた官僚たちの士気喪失:古賀茂明(経済産業省大臣官房付)(Voice) - goo ニュース
菅直人は15日午前の閣議後の閣僚懇談会で、将来的な「脱原発」方針について、政府
見解ではなく、個人としての考えを 述べたものだと釈明してしまった。しかしもうどうでも
いいのである。菅直人はただ衆議院を解散させればいいだけなのだから。ただここに来て
菅直人にわずかながら勝算が見えてきている。“原発利権に汚染された日本の社会構造
の大変革”が出来るとするならば、菅がしようとしている“脱原発解散”しかないだろうが、
いまだに多くの日本国民は“原発利権”が十分理解できていないから、このまま解散しても
負けるだけである。だから菅直人は孫正義だけでなく、古賀茂明を上手く利用して日本に
おける“原発利権”の実態を日本国民に周知させることが焦点となるはずなのだが、残念
ながら菅直人はそこまでは考えてはいないんだろうね。
民主中堅・若手11人 即時退陣求め決起 執行部も難渋、主導権なお首相(産経新聞) - goo ニュース
危ないところだった。また騙されるところだった。菅直人は与野党内で臆測が出ている
“脱原発解散”に関して、「この問題で解散するとかしないとか、一切考えていない」と
語った。菅直人は“脱原発解散”はしないと言っているように聞こえるのであるが、菅は
“解散するとかしないとか”は考えていないと言っているのである。つまり今の時点では
“脱原発解散”自体を全く考えていないだけであって、来月あたりになれば“脱原発解散”
をすることを考えてみようというニュアンスが含まれているのである。肝心なことは何も
考えずに、このような国民のためにはならない無駄なレトリックだけを昼夜を舎かず真剣に
考えているような男なのである、菅直人は。
小川の辺 おがわのほとり
2011年/日本
妹への‘片想い’
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
確かに当初の作品の焦点は、藩主への上書によって藩の農政を痛烈に批判し、謹慎処分を受けた後、妻の田鶴を連れて脱藩した親友の佐久間森衛を主人公の戌井朔之助が藩命で討つところにある。民を想って正論を訴えた親友を斬らねばならない上に、田鶴は朔之助の実の妹である。そのような葛藤を抱えたまま朔之助は奉公人の新蔵を連れて、佐久間森衛の元へと静かにゆっくりと確実に近づいていく。
しかし物語が進んでいくにつれて、もう一つ別のテーマが現れてくる。朔之助は、妹のことを気遣っているのに田鶴になかなか理解してもらえない幼少の頃の2人を思い出していた。ある日、仇を見つけた兄妹が一緒に敵討ちをする現場に遭遇する。おそらく朔之助は、自分たちにも仇がいたならば、直心流の使い手である田鶴と共に‘仲良く’敵討ちが出来たと想像しただろうが、実際には佐久間森衛を斬った後に、朔之助は田鶴と一戦を交えることになる。最後まで妹の田鶴に‘片想い’の朔之助は結局、田鶴を新蔵に託すことにする。
一つの物語に複数のテーマが交錯する藤沢周平の作品を説明過多にならないように静謐さを保たせたまま品が良い映像に仕上げていると思う。
SMAP草なぎ、山手線から地デジPR(サンケイスポーツ) - goo ニュース
地デジの緊急地震速報、「2秒遅れ」解消せぬまま移行へ(朝日新聞) - goo ニュース
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地デジカウントダウン、基礎知識Q&A編 南関東に未対応世帯が集中(産経新聞) - goo ニュース
<特設ページ>見落としてない? 家庭の地デジ化最終チェック!(BCNランキング) - goo ニュース
2011年7月6日の読売新聞の投書欄に面白いことが載っていた。埼玉県川越市の
主婦からのものである。「地上デジタル放送(地デジ)への完全移行となる24日まで残る
日数はわずかだ。我が家のテレビは7年前に買ったアナログの液晶テレビだ。地デジへの
対応をしなければならないが、買い替えるのはもったいないと思い、4000円で割安だった
チューナーを購入して取り付けた。/ところが、電波の受信状態が悪くて困っている。地デジ
コールセンターに電話し、相談員の方に見てもらったところ、アンテナの位置を変えるか、
電波を増幅する『ブースター』を取り付ければ良くなるかもしれないとのことだった。/
多くの人はテレビを買い替えており、こうしたケースは少ないそうだ。新しくテレビを買った
ほうがよかったのだろうか。でも、使えるテレビを捨てるのには抵抗がある。テレビを
買うか、ブースターを付けるか、ぎりぎりまで悩みことになりそうだ。」明らかにおかしな
話である。購入したチューナーで視聴できないということは、そのチューナーは欠陥商品
と見倣すべきであろう。今まで視聴できたテレビが地デジ対応にしたために見ることが
出来なくなったのに、何故この主婦のテレビアンテナの位置を変えなければならないのか
“電波を増幅する『ブースター』を取り付ければ良い”のではなくて、テレビ局の方が電波を
強くするべきなのである。おまけに“良くなるかもしれない”とはっきり言えない相談員に
存在意義があるのだろうか 結局、地デジコールセンターなど形式的なものにすぎない。
だからはっきり言ってしまうならば“地デジ詐欺”とは“地デジ化”そのものなのである。
メールの文面まずかっただけ…問題意識低い九電(読売新聞) - goo ニュース
2011年7月11日の毎日新聞夕刊で古賀茂明が興味深いことを明かしている。
「東電に限らず、この国は電力会社に支配されているのが現状です。なぜか。電力会社は
地域地域で最大級の調達企業なんですよ。発電所、事業所の建設や燃料、日用雑貨、
事務用品、自動車に至るまで、あらゆる物品を大量購入してくれる。お中元だって地元の
デパートから買っている。経済界は上得意である電力会社に刃向かえないんです。/しかも
電力料金の許認可権は経産省にある。その決定システムは『コスト+利潤=料金』です。
一般の企業は『売り上げ-コスト=利益』でしょう。ところが電力は、安定供給を名目に、
コストに一定率をかけた数字を利潤として自動的に上乗せする仕組みになっている。
デフレ状況下で、普通ならコストが下がるはずなのに日本の電力料金は先進国有数の
高さです。/だから、すべてとは言いませんが、産業界の多くは電力会社の発送電分離で
コスト競争が始まると、自らの利益が減るのではと恐れている。自民党は地元財界を
敵にしたくない。民主も、関連企業の労組にしばられている。なれ合い利権の構図です。」
九州電力の役員の一人が、「やらせメールが小さな問題とは言わないが、電力会社として
は夏場の安定した電力供給の方が比べものにならないくらい大問題」と言い切れるのも、
要するに電力会社が寡占企業だからであり、反省などする必要がないからなのである。
マイティ・ソー
2011年/アメリカ
ソーの戸惑い
総合 50点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
一見するならば、北欧神話とウィリアム・シェイクスピアの悲劇を合わせたヒーローものとして良く出来ているように見えるが、よくよく考えてみるならば主人公のソーのキャラクターが曖昧である。
主人公のソーが傲慢な性格でいられる理由は全身に身につけているシールドのおかげであり、それでムジョルニアを持つことが出来ていることは、ソーが父親のオーディンによって身ぐるみ剥がされて地球に追放された後に、ムジョルニアを持とうとしてもTシャツ姿では持ち上げることが出来ないことからも私たちには理解できるのであるが、実は、驚異のパワーは自分の身体ではなく、身につけているシールドに宿っていることは毎日の暮らしの中でソー自身にも分かっているはずなのである。このような齟齬をきたしている理由はソーとロキの幼少時代がほとんど描かれず、いきなりソーの王位継承の儀が描かれるためであろう。
心を入れ替える機会を与えるために地球に追放されたソーなのであるが、そもそも身体そのものにパワーが無かったソーには、身につけていたシールドを奪われた時点で心が折れているのだから、反省のしようがないまま、ニューメキシコ州を彷徨うことになり、因って、ソーがどのような経緯で自己犠牲を果たすまでに改心することになったのか、はっきりしないのである。
勿論‘ヒーローもの’に細かいことを指摘するのは野暮であることは十分に承知しているつもりであるが、監督がウィリアム・シェイクスピアの作品を数多く手がけているケネス・ブラナーとなると話が変わってくる。何故ケネス・ブラナーほどの知性的な監督が、この程度の主人公のキャラクター設定で妥協して撮ってしまったのか理解に苦しむ。
全原発で安全検査…首相、再稼働に後ろ向き(産経新聞) - goo ニュース
原発再開はストレステスト後 統一見解 稼働全基も対象(朝日新聞) - goo ニュース
6月19日の国民対話の時は、定期検査で停止中の原発の再稼働について、「安全性が
確認されたら順次再稼働していくと海江田氏が言ったが、私もまったく同じだ」と語っていた
菅直人が突然、ストレステストという原発の安全検査の実施を発表した背景として、
玄海原発再開に手を貸すと「脱原発の旗手」としての地位を失い、ひいては延命をかけた
「脱原発解散」カードも手放すことになりかねないという首相の思惑と計算があるそうだが、
そのような“思惑と計算”があるのならば、何故“突然”安全検査をすると言い出したのか
理解に苦しむ。まさか身内を敵にまわしても来る選挙のために“脱原発の旗手”という
印象を国民に植え付けるという“思惑と計算”があったとは思えない。やはり“思いつき”
というよりも、寧ろ「あっ、俺、“反原発”だった」という“思い出し”なのであろう。
首相批判の安住氏にベテラン苦言「内ゲバ以下」「落第」(朝日新聞) - goo ニュース
亀井氏、首相に苦言「被災地の時計、止まっている」(産経新聞) - goo ニュース
2011年7月7日のサンケイスポーツに詳細が書かれていた。警察庁警備局で極左事件
の初代統括責任者を務めた経験から亀井静香首相補佐官は、菅直人首相の批判を続ける
民主党の安住淳国会対策委員長に対して、「オレもかつて極左を担当していたが、いまの
民主党の状況は極左の内ゲバより程度が悪い」「まだ極左の連中はそれなりの理想と
理念を持ち、お互いに本気でケンカしていた。国対委員長がどうだこうだといういまの
民主党は、アナーキーになっている」と語っている。“いまの民主党の状況は極左の内ゲバ
より程度が悪い”らしいが、一体誰が殺されたというのか 冗談は顔だけにして欲しい。
極左の連中が“お互いに本気でケンカ”ができていた理由は“それなりの理想と理念”を
持っていたからであって、菅直人のような場当たり的な方便を駆使する人間を相手に本気
のケンカなどできるわけがないのである。