淀姫神社バス停横に建つ「鞆の津ふれあいサロン」。旧平(ひら)保育所である。昔は児童がたくさん通っていた。
平という名称がこの辺りに残っているのは、沼隈郡時代、平と呼ばれ1丁目から3丁目まであったためである(現在の住所表記は鞆町後地)。平地区が平家と関係があるのかどうかは知らぬが、近場では沼隈町の中山南(なかさんな)が落人集落としては有名だ。
〔平〕
元平村にして平一丁目より三丁目に至る、一筋町を爲し、漁家多く町はづれには農家多し。
『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』
平町
昔の平村分の大半であって,合併後,平組と呼ばれたが,大正二年(1913)一ケ年程大正町と呼ばれ,以後平町という。昔は江の浦の南方中山の麓にわずかばかりの民家あり,それより少し高く平らかなる地であるので平の浦といったのが,平とのみ称えて此のあたりの名になったと古書にある。平家の子孫住んだ故との伝説もあると沼隈郡誌にあり。これはいぶかし。
『鞆の地名あれこれ』
平という名称がこの辺りに残っているのは、沼隈郡時代、平と呼ばれ1丁目から3丁目まであったためである(現在の住所表記は鞆町後地)。平地区が平家と関係があるのかどうかは知らぬが、近場では沼隈町の中山南(なかさんな)が落人集落としては有名だ。
〔平〕
元平村にして平一丁目より三丁目に至る、一筋町を爲し、漁家多く町はづれには農家多し。
『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』
平町
昔の平村分の大半であって,合併後,平組と呼ばれたが,大正二年(1913)一ケ年程大正町と呼ばれ,以後平町という。昔は江の浦の南方中山の麓にわずかばかりの民家あり,それより少し高く平らかなる地であるので平の浦といったのが,平とのみ称えて此のあたりの名になったと古書にある。平家の子孫住んだ故との伝説もあると沼隈郡誌にあり。これはいぶかし。
『鞆の地名あれこれ』