福山市鞆町の沼名前神社(祇園社)があまりにも有名なため、淀姫神社は陰に隠れた感じだ。しかし、日本神話を読み解く上でこの神社の由緒は重要である。
淀姫神社の鳥居の先には大きな注連柱があり、裏面に大正三年七月の銘が入っている。私は比較的新しいことを疑問に思いながら更に石段を上って行った。
淀姫神社と平の祭り
平の明神山に造営されている淀姫神社の祭神は、鞆にゆかりの深い神功皇后の妹君に当る淀姫(別名は虚空津媛命こくつひめのみこと)といわれる。
そもそも、この社の起源は別章で記述した神功皇后の事績……関の浜の渡守神社に高鞆を奉賽され、その祭主として淀姫を当分の間この地に止め置かれたことから発したものである。すなわち淀姫は、後世に大明神という地名の生まれた場所に住居され、毎日従者二人(一説には今日江之浦に住む平之内、武内両家の先祖)を従えて、関町の渡札の辻に祀る神社に通われた ……と、平村代々の口碑(口づたえ)として伝えられている。
この平町の古い歴史をたずねると、源平時代、屋島の戦に敗れた平家の一門が、その水軍の根拠地であった千年村の能登原、敷名沖で、源氏の水軍を撃破して劣勢を一挙に挽回させようとしたのであったが、そこでも亦源氏方に夜襲をかけられ、陸に多くの傷兵を残したまま西国に落ちのびていった。その残留兵が能登原坂を越えて無人の土地を開拓し、平村を興こしたと伝えられている。その説に真をおくとすれば、平村のおこりはせいぜい七八〇年の古さに過ぎない。
また一説には、三六〇年ほどの昔に、芸備の太守福島正則が家老の大崎玄蕃に命じて古城趾に鞆城を構築しようとしたとき、その周囲に住居する者を、武家屋敷を設ける理由から、多くの人々に立ち退きを命じた。それら人々の転居先が平村地域であったともいわれている。
従ってこれらの二つの流れを先祖とする平の住人たちは、何時の頃から創めたものか?。その昔、淀姫が平の地に住居されたという故事を縁起して、のちに明神山と名付けられた小山(現在地)に淀姫大明神を祀った模様である。
明治の末期まで小さな祠に過ぎなかったという淀姫大明神は、平全体の合力により、大正二年に神社の風格を備える社として造営され今日に至っている。
(註) 淀姫大明神を祀って以来、明神山と名付けられたという海抜二〇米余りの小山は、もと陸地を離れた浅瀬づたいの小島であったと古老は伝えている。底辺の周囲は約一五〇米余りで、三方は尚海に囲まれているが陸続きとなった年代は、大可島の浅瀬を埋立て、道越町が出来上った時代(一六一五年頃)より少しおくれたころと思われる。それは大可島の瀬と平の瀬の潮流が同じ方向であったから、道越の埋立が完成後には平の小島の瀬の潮は止まり、浅瀬が何時の間にか浮き上ったのであろう。すれば淀姫を祀った明神山の生れは推定一六五〇~一七〇〇年頃であろうか?。
『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』
淀姫神社の鳥居の先には大きな注連柱があり、裏面に大正三年七月の銘が入っている。私は比較的新しいことを疑問に思いながら更に石段を上って行った。
淀姫神社と平の祭り
平の明神山に造営されている淀姫神社の祭神は、鞆にゆかりの深い神功皇后の妹君に当る淀姫(別名は虚空津媛命こくつひめのみこと)といわれる。
そもそも、この社の起源は別章で記述した神功皇后の事績……関の浜の渡守神社に高鞆を奉賽され、その祭主として淀姫を当分の間この地に止め置かれたことから発したものである。すなわち淀姫は、後世に大明神という地名の生まれた場所に住居され、毎日従者二人(一説には今日江之浦に住む平之内、武内両家の先祖)を従えて、関町の渡札の辻に祀る神社に通われた ……と、平村代々の口碑(口づたえ)として伝えられている。
この平町の古い歴史をたずねると、源平時代、屋島の戦に敗れた平家の一門が、その水軍の根拠地であった千年村の能登原、敷名沖で、源氏の水軍を撃破して劣勢を一挙に挽回させようとしたのであったが、そこでも亦源氏方に夜襲をかけられ、陸に多くの傷兵を残したまま西国に落ちのびていった。その残留兵が能登原坂を越えて無人の土地を開拓し、平村を興こしたと伝えられている。その説に真をおくとすれば、平村のおこりはせいぜい七八〇年の古さに過ぎない。
また一説には、三六〇年ほどの昔に、芸備の太守福島正則が家老の大崎玄蕃に命じて古城趾に鞆城を構築しようとしたとき、その周囲に住居する者を、武家屋敷を設ける理由から、多くの人々に立ち退きを命じた。それら人々の転居先が平村地域であったともいわれている。
従ってこれらの二つの流れを先祖とする平の住人たちは、何時の頃から創めたものか?。その昔、淀姫が平の地に住居されたという故事を縁起して、のちに明神山と名付けられた小山(現在地)に淀姫大明神を祀った模様である。
明治の末期まで小さな祠に過ぎなかったという淀姫大明神は、平全体の合力により、大正二年に神社の風格を備える社として造営され今日に至っている。
(註) 淀姫大明神を祀って以来、明神山と名付けられたという海抜二〇米余りの小山は、もと陸地を離れた浅瀬づたいの小島であったと古老は伝えている。底辺の周囲は約一五〇米余りで、三方は尚海に囲まれているが陸続きとなった年代は、大可島の浅瀬を埋立て、道越町が出来上った時代(一六一五年頃)より少しおくれたころと思われる。それは大可島の瀬と平の瀬の潮流が同じ方向であったから、道越の埋立が完成後には平の小島の瀬の潮は止まり、浅瀬が何時の間にか浮き上ったのであろう。すれば淀姫を祀った明神山の生れは推定一六五〇~一七〇〇年頃であろうか?。
『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』