福山市鞆町後地の藤本酒店を通過し平漁港に着いた。時差式二つ目信号機の先からのびる防潮堤は私の思い出の場所であった。「鞆の浦旅行記・第二部」をご覧の方は多分チンプンカンプンだろうから少し説明しておこう。
私が小学校に上がった時分(今から35年以上も前のこと)この防潮堤には黄色のペンキで「左上の信号機をよく見ませう」という交通安全標語が書かれていたのである。助手席に座っていた息子はハンドルを握った母に何度も尋ねた。
「なんで見ませうと書いとん。正しくは、見ましょう、じゃが。おかしいのー」
「戦前は見ませうと書いて見ましょうと読んだんよ。旧仮名遣い言うても分からんかー(笑)」
息子は憮然として「分かるわけないがー。おかしな話じゃ」と繰り返し母親は笑っていた。今から思うと既にこの頃から疑問に思ったことは徹底的に質問していたようだ。もっとも旧仮名遣いで書かれたエッセイ(旧制広島高等学校卒業生の阿川弘之さんなど)を読むようになったのは大学入学後の話である。
防潮堤ごしに眺める港は昭和40年代末と全く同じと言ってもよかった。懐かしい平地区をしばらくぶらついた後、来た道をゆっくりと引き返した。
私が小学校に上がった時分(今から35年以上も前のこと)この防潮堤には黄色のペンキで「左上の信号機をよく見ませう」という交通安全標語が書かれていたのである。助手席に座っていた息子はハンドルを握った母に何度も尋ねた。
「なんで見ませうと書いとん。正しくは、見ましょう、じゃが。おかしいのー」
「戦前は見ませうと書いて見ましょうと読んだんよ。旧仮名遣い言うても分からんかー(笑)」
息子は憮然として「分かるわけないがー。おかしな話じゃ」と繰り返し母親は笑っていた。今から思うと既にこの頃から疑問に思ったことは徹底的に質問していたようだ。もっとも旧仮名遣いで書かれたエッセイ(旧制広島高等学校卒業生の阿川弘之さんなど)を読むようになったのは大学入学後の話である。
防潮堤ごしに眺める港は昭和40年代末と全く同じと言ってもよかった。懐かしい平地区をしばらくぶらついた後、来た道をゆっくりと引き返した。