寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市鞆町後地の淀姫神社(その3)

2012年01月23日 | 
淀姫神社参拝を終え側方に回り瀬戸内海を望む。眩しい位に海が青く輝き美しい。対岸の道越町からてくてく歩いて来た甲斐があった。

淀姫神社から大可島(道越町)を望む

かつて漁師町だった平地区のダンゴ祭り(毎年8月第1週の土日に開催)が激しいことで有名なのは個人のブログを通して知っていたが、実際に見たことはない。夏の真っ盛りにまたこの地を訪れたいと思う。

淀姫神社と平の祭り
 この社には、明治四年に新調されたといわれる父祖四代に亘る古神輿が本殿脇の神輿庫に永らく収まっていた。
 併し、うち二体は昭和四十四年八月七日(その年の祭礼日)に福山城の宝物館に奉納され、あとの一体は同じ年に新調した唐破風作りの神輿と共に百年以上の齢を誇るかのように鎮まっている。
 そのような事績を持つ神輿は、明治の初期より五十年を経過した大正の頃、平町の祭礼が最とも旺んであったと云われるころに活躍したものである。それは平漁業が打瀬網の興隆期で、一二〇隻の漁船と四〇〇人あまりの乗り子を擁していたので、年に一度の祭礼も漁業者中心の神輿祭りとなり、沖の潮風で鍛えた赤銅色の肌を持つ若者たちは半裸の姿となり、ねぢ鉢巻も、威勢のよい掛け声と共に舁ぎ廻わる神輿の三体廻わし‥‥それは、平独特の祭り風景でもあった。
 新調より五十年を経過した神輿は、威勢の良い若者たちが勢い余って他の組の神輿に接触し、よく地面に投げ出した。元が頑丈な作りであった為か?本体はゆるがない。破損の修理も祭礼の直前に大工によって完全に手直していたので、若連中が毎年惜し気もなく投げ出していた。だから「平の投げ神輿」とまで他町から言われたものである。
 この祭礼は旧暦七月六日、七日の七夕(タナバタ)祭りと同じ日に二日に亘って行われたので、全たく夏の暑い最中であった。この日、五五〇戸(現在では六五〇戸)の平町全戸では、平独特のだんごを作り町外の縁類にも配った。また七日の午前中には井戸がえ(井戸の掃除)を実施し、そのあと心おきなく、お仮屋に止めた神輿を前日同様に舁ぎ廻わりながら元の神社に還幸するのであった。

(註) 大正年代の一二〇隻の打瀬船は、昭和後期の今日ではその二〇%にも達しない。内海の魚類の減少により大部分が鉄工業に転向を余儀なくされたからである。従って神輿を昔のように喜こんで奉舁する若者は次第に減少している。これも時代の流れと言えよう。

『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』

淀姫神社から平の防波堤を望む

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干しキビナゴで作ったごまめ(五万米)

2012年01月23日 | 食材
ごまめ(五万米)は田作りとも言い正月三が日の酒肴として知られる。普通はイリコを使用するが干しキビナゴでも美味しいものができる。

キビナゴを平皿に並べラップをかけずにレンジで加熱するのが簡単だ。この炒り工程で香ばしい風味がつく。酒・みりん・醤油・砂糖を合わせて蜜を作り、炒ったキビナゴに絡める。

砂糖の量を減らして味醂を増やすとキビナゴが引っ付きにくい。顎を使うアテが少しあるだけで酒が進む。日持ちするのでまとめて作っておくとよいだろう。

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