青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

伊予讃岐 二つの「そごう」 明と暗。

2021年12月10日 17時00分00秒 | 伊予鉄道

(市駅の路地裏@石手川公園~松山市間)

石手川公園の駅から松山市駅に向かってブラブラと散策。街をスナップしながら路地裏を歩いていると、何とも味のある風体をした定食屋さんが。ちょっと店のメニューを見てみると、ハムエッグ、コロッケ、唐揚げ、チキンカツ・・・とオーソドックスながらも王道の定食メニューがびっしりと並んでいました。こーいう食堂で孤独のグルメっぽいメシを味わうのも一興・・・と思ったのだけど、まだ店が開いていなかった(笑)。

松山市駅から出発した横河原線の電車が、路地裏を往く。いよてつ高島屋のテナントが入る松山市駅、屋上には「くるりん」という名前の付けられた大観覧車があります。実は、自分が購入していた「ALL IYOTETSU 2day Pass」には、この観覧車に1回乗れるという特典も付いていたのだけど、どうにも時間がなくて乗る事が出来なかったのが心残り。観覧車が見下ろす松山の街、どういう風に見えたのだろうか。

石手川公園の駅から徒歩で20分程度、松山市駅に到着。前日はJR松山駅を中心に活動してしまったので、市駅に来るのは初めてだったのだけど、いやー、大きいね。テナントに高島屋が入ってるせいで、どことなく南海なんば駅を思い出してしまったり。あそこまでの延床面積はないだろうけど、おそらく四国最大の百貨店であり駅ビルなのではなかろうか。当初は1970年代に「いよてつそごう」としてオープンした駅ビルで、そごう系列に属するデパートとして営業していました。2000年のそごう本体の破綻によっても、いよてつそごうは奇跡的に本体の倒産劇に巻き込まれる事なく経営を継続しましたが、ブランドイメージの失墜による客離れは著しく、2002年に資本を高島屋への乗り換えを決定。現在に至っています。本体の倒産の煽りを食って4年で破綻してしまったお隣讃岐のコトデンそごうは、コトデンそごうの債務保証をしていた琴電本体が民事再生手続きの申請に陥るほどの大連鎖倒産劇に発展してしまったので、皮肉にも四国のお隣同士でそごうを舞台に悲喜こもごもの企業ドラマが繰り広げられたことになります。

高島屋デパートの前にある松山市駅・市内線乗り場。ちょうど2系統と3系統で最新鋭の5000形がやって来ました。メタリックブルーとオレンジの冴えた色の組み合わせが非常におしゃれ。市内線は昨日一通り乗車したのだけど、この日は平日。伊予鉄市内線には、休日では乗り潰せない路線が一つありますので、それを狙いに行く事にしましょうか。

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伊予鉄を 今も見守る 明治橋。

2021年12月08日 17時00分00秒 | 伊予鉄道

(橋上駅@石手川公園駅)

ぽつぽつと途中下車しながら横河原線の旅。最後に降りたのは石手川公園駅。松山市駅の一つ手前。松山市街を流れる石手川と言う川の上にあります。「橋上駅舎」というのはそこら中にありますが、「橋上駅」ってのは珍しくて、全国に何個もないんじゃないかなと。駅が出来たのは1972年(昭和47年)の事らしいですが、この石手川橋梁自体は1893年(明治26年)に架橋されたものが現在でも使われており、架橋された場所のまま現存するもので日本最古の鉄道橋梁という貴重な土木遺産になります。

という事で、2012年に石手川橋梁は「土木学会選奨土木遺産」として登録を受けております。形としてはポニーワーレントラスって言うのかな、トラス部分が車両の腰の高さ程度までしかない下路トラス。秩父鉄道の見沼代用水橋梁とか、近江鉄道の愛知川橋梁には同タイプの橋梁もまだ残ってますけど、鉄道黎明期の製造ですから、そんな大きな荷重を支えられるトラスでもない。それこそ品川~横浜に鉄道が開通した時、多摩川に架かる橋(六郷川橋梁)はこのポニーワーレントラスで作られたそうなのだけど、いずれにしろ輸送力の小さい地方私鉄でしか残れないタイプの橋梁だと思います。

少し色付き始めた石手川の土手。3000系の横河原行きが橋の上のホームに滑り込んで来ました。吉祥寺から梅津寺、井の頭公園から石手川公園。京王と伊予鉄、似ているようで随分違う。ちなみにこの駅、橋のトラス部分がホームにそのまま突き刺さっているのですが、この部分は別にドアカットとかされてないので普通に電車を待つ事も出来るしドア扱いも行われます。器用にトラスを潜り抜けて横河原行きに乗って行ったおばあちゃんは流石ジモティとお見受けするので慣れてらっしゃいますが、夜とか酔っぱらって降りたらトラスに頭ぶつけそうで危ねえよな(笑)。

河原に降りて、石手川橋梁と石手川公園駅を下から見上げてみる。一応高浜方面行きの電車が停車しているアングルなのですが、こちら側から見るとあまり駅感が感じられないな・・・というビミョーな絵になってしまった。橋の横には歩道が付けられていて、歩行者と自転車はこの歩道で川を渡って松山市駅方面に抜ける事が出来ます。

橋の向こうは松山市の中心街。松山市駅まではそんなに距離がある訳でもないので、電車を待たずに歩いて行く事にしましょう。

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ワンマンも 無人化もない マンパワー。

2021年12月06日 17時00分00秒 | 伊予鉄道

(貴重な自社発注車@見奈良~田窪間)

朝の輸送力列車その2は610系2連×2。今はどこの地方私鉄も、都会を走っていた大手私鉄のセコハン車両を使うことが多いのですけど、この610系は伊予鉄道(鉄道線)では唯一の貴重な自社発注車。2連の2本しか作られなかったので、この4両が現状の伊予鉄自社発注車の全てとなります。何でそんな半端な数の自社発注車が?という事なのですが、京王から5000系を持って来て旧型車を入れ替える際、予定していた両数が足りず、その不足分を自前で注文したのではないかという説があるらしい。610系は車体だけがアルナ工機で新造されていて、制御機器類は700形で使う中古部品。伊予鉄からのオーダーを受けた京王サイドから「すいません、もう5000系ないんです。台車とかマスコンとか部品は用意するんで、車体は伊予鉄さんでなんとか・・・」みたいなやりとりがあったのではないかと(笑)。

見奈良から徒歩連絡で田窪(たのくぼ)駅。小さな単式ホームの駅ですが、きちんと女性の駅員が詰めていました。この辺りは半農半住という感じの雰囲気で、7時台の電車はやはり松山市の中心部に向かう通勤通学客が目立ちます。松山市方面への一方通行の需要かな、と思いきや、意外に横河原方面への乗客もそれなりに。横河原周辺には愛媛大学の医学部や国立医療センターなどの医療機関が集中しているので、職員の通勤や通院需要だろうか。

平井駅。駅の隣に農業倉庫と大きなJA(松山市農協小野支所)があり、かつては農業倉庫からの貨物の積み出しがあったのではないかと思われる側線が残っています。伊予鉄の貨物取扱ってのはいつまであったんでしょうね。伊予鉄は、荷物室の付いたモハニだとかデハニみたいな合造車が長い事走っていたので、鉄道貨物と言うよりは貨客混在の列車で貨物輸送を行っていたのかもしれませんが。

平井駅のホーム上屋を支える古レール。何気なく見ていると、うっすら「CARNEGIE 1912」の刻印が見えます。米国のカーネギー社で1912年に作られたレール、という事なので110年物。こういうところにも伊予鉄の歴史の長さを伺い知ることが出来ます。日本が国産レールを作り始めたのは1900年頃、九州の官営八幡製鉄所での事だそうですが、なかなか品質的にも物量的にも追っつかずに、暫くは海外からの輸入レールが使われていたのだとか。

高浜方面行きホームに進入する700形。横河原線は結構右側通行の交換駅が多くて、見奈良・平井・梅本・北久米が右側通行になってますね。そして伊予鉄は一部を除いて3両編成・ツーマン運行がおおよその基本原則。ICカードを導入していても、都市型ワンマンにすらしていないというのが特筆出来ます。日中15分毎の高頻度運行なので、運転士が乗降確認までやるのは時間が掛かり過ぎてしまうとかかな。あと、この平井駅のように交換駅も島式でカマボコ型に湾曲しているホームが多く、なかなか運転士だけでは後方の安全確認がしづらいとかあるのかも知れません。ワンマンにするには、ホームカメラの導入などの抜本的な対策が必要かなって思います。

そうそう、伊予鉄って規模的に無人駅にしちゃっても良さそうな感じの駅でも、ほとんど駅員配置があるんですよね。見た感じは嘱託社員と言う雰囲気の年配の方が多いんだけども、駅に人が居るかいないかってだいぶ違います。ここ平井駅には気のいいじいちゃん夫婦みたいな二人がいて、トイレの位置を尋ねたら「恥ずかしいかも知らんけど、コロナだからドアだけ閉めんといてや~!」みたいな事を言われて苦笑してしまった。換気大事。

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「伊予はまだ 主力だから」と 彼女言い。

2021年12月04日 17時00分00秒 | 伊予鉄道

(特徴ある三角屋根の駅舎@見奈良駅)

横河原の駅から二つ戻り、行きがけに何となく駅舎の形が面白そうな見奈良(みなら)駅で下車してみました。1面2線の島式ホーム、横河原に向かって最後の交換駅。頂点の角度の鋭い見事なトンガリ三角屋根の木造駅舎。ちなみに駅を降りて周囲をロケハンしていたら、駅に勤めている初老の嘱託っぽい駅員氏に「何かお探しですか?」と露骨な警戒感を持って声掛けをされてしまった事をご報告しておきます。まあね、平日の朝に明らかに地元っぽくない風体の人間がカメラ持ってこんな場所をウロウロしているのは警戒されても仕方ないですね・・・丁度周囲の小学校の通学時間だったんで余計にね。

時刻はそろそろ通勤ラッシュの時間帯。伊予鉄の郊外電車は、朝のダイヤが平日と土休日でだいぶ違いまして、横河原駅発で朝の7時台は平日5本に対し土休日は3本しかありません。平日のみ運行の2本は、松山市着が7:40~8:00と通勤通学の一番のピークタイムに当たる列車なので、2連×2の4連運行となっています。いわゆる輸送力列車というヤツですが、700形の4連が横河原行きで送り込まれて来ました。

横河原への送り込み列車である700系4連が、松山市へ向かう3000系と交換。どちらも高度経済成長時代の京王帝都電鉄を代表する車両ですが、当時は1,372mmの本線に対し井の頭線が1,067mmとそもそも軌間が異なっていましたので、お互いに相まみえることはありませんでした。時は流れ、伊予の国にて同じレールの上を走る事になるのですが、まあ京王当時よりはお互いの関係は親密になったんじゃないかなあって思いますよね(笑)。

という訳で、見奈良の駅先にある踏切のインカーブで横河原からの4連の返しを待つ。地方私鉄において運用数が最大になる朝のラッシュタイムは、車庫にいるありったけの車両を使ってダイヤを回すため、一番の撮れ高の稼ぎ時。そして地方私鉄の朝の醍醐味と言えば増結編成の輸送力列車!だから「地方私鉄は平日行け」って10万回くらい言ってるんだよなあ。特に伊予鉄は土休日の朝はダイヤがスカスカになっちゃうしね。

京王時代はアイボリーホワイトに赤いラインを締め、東都のクイーンとして君臨した元京王5000系。現在はミカン色の塗装に塗り替えられ、松山都市圏の通勤通学需要に従事しています。正面貫通路の方向幕こそ埋められてしまったものの、片開き3ドア、小口の二段窓や屋根上の分散クーラーも何となく京王当時の意匠をそのまま保っているような。もう車歴も60年近くになる古豪ですが、それでも未だに伊予鉄の輸送力の大事な部分を担っている姿に拍手を送りたくなる形式です。

 

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街へ行く 人影忙し 横河原。

2021年12月02日 23時00分00秒 | 伊予鉄道

(終着駅@横河原駅)

松山市駅から14駅、約30分で横河原線の終点・横河原駅に到着しました。雲の多いパッとしない朝です。通勤時間帯の少し前とあって、駅前は静かなもの。以前はそれこそ開業当時からの木造の駅舎があって、終着駅らしい風格を持って迎えてくれたそうなのですが、今は建て替えられたスレート葺きとサイディングの現代風の駅舎に建て替えられています。まあ、私のような門外漢が風情を語るよりも、地元の方が明るくてキレイな駅を使える方が良いのですよね。

特に何を思わせぶる事もなく、ホームの先でスパッと途切れている横河原線の線路。横河原まで鉄道が開通したのは明治30年代と、愛媛県内どころか全国でも相当早い段階で鉄道が敷設された街なのですが、官営鉄道から離れて道後平野を山間部に向かう路線は沿線人口も少なく、その経営状態は長い事あまり芳しくなかったそうです。そのため、設備投資も後回しにされた結果、電化されたのが戦後からだいぶ経った1967年(昭和42年)のこと。それまでは、ロッド式の2軸のディーゼル機関車(DB)が、ハフやハニフなどの形式が付いた木造客車を2~3両引っ張ってのんびり走るような路線だったと聞きます。横河原の駅は1面1線の単式ホームで折り返すだけの単純な構造ですが、線路の横に前はレールが敷かれていたのでは?と思われるスペースがあり、おそらくは機回し線なんかがあったんじゃないかなと。

終点でエンド交換を終え、発車を待つ高浜行き。横河原の駅は、旧・温泉郡重信町の中心部。重信町は、平成の大合併でお隣の川内町と合併し現在は東温(とうおん)市となっています。温泉郡の「温泉」とは当然道後温泉を指しますが、温泉の東側にあるから東温市、ということなんでしょうね。折しもこの日は平日、横河原発のこの電車は朝7時発ということで、折り返しを待つ間に静かだった駅前のロータリーには通勤通学のための軽自動車が徐々に集まり始めました。家族に送られて降りて来た学生やサラリーマンが、三々五々と忙しなく列車に乗り込んで行きます。

かつては乗客も少なく設備投資も遅れ、伊予鉄のお荷物扱いであった横河原線。今や松山市の市勢拡大に伴い、沿線はすっかり松山市のベッドタウンに変貌しました。逆に、瀬戸内海の海運の衰退に伴って、かつての花形だった港湾路線の高浜線や郡中線に昔ほどの勢いはなく、市駅を中心に伸びる三線の相対的な格差はあまりなくなっているようにも思います。

行きはウトウト眠りこけていた横河原線。7時の電車の発車のベルが鳴りました。
さて、こちらも頭をしゃっきり切り替えて、松山市に戻りながらボチボチと沿線を回って行く事にしましょうか。

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