青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

郡中港 町家に暖簾 ひらめいて。

2021年12月16日 17時00分00秒 | 伊予鉄道

(郡中線は急カーブ@松山市駅)

本町線の乗り潰しを終えてから、大手町の食堂で簡単に腹ごしらえをして、再び市駅に戻って来ました。これから最後に残した郡中線に乗って行きます。この日の夜の飛行機で松山を離れる予定ですが、時間は早くも午後2時を回っています。色々と見たり回ったりしている間に、郡中線にあんまりゆっくり乗ってる暇が無くなっちゃったなあ。やはり四国で実質一泊二日は短かったかも。いよてつデパートの駐車場へ向かう通路をくぐって、急カーブを曲がりながら郡中線の電車がやって来ました。

市駅の一番外側、3番ホームから折り返し発着する郡中線の列車。車両自体は高浜・横河原線と共通運用ですが、今回の旅で初めて元京王5000系(700形)が3連でやって来ました。伊予鉄の700形はモハクハの2連ユニットに増結でモハをくっつける形で3連を組成しますが、この増結の3両目は、乗客の流動に応じて松山市駅から古町駅まで単走で回送される事もあるようで、そのコミカルなその姿は隠れた伊予鉄名物だったり。比較的天気に恵まれた松山訪問でしたが、ここで空がにわかにかき曇り、時ならぬ雷雨に・・・

雨の中、市駅を出て行く郡中線の列車。折角なので、中間封じ込めの運転台の横に陣取ってみる。どことなく懐かしさを覚えるマスコンハンドルや計器類を眺めつつ、叩き付けるような雨の中、松山市街を走って行きます。土橋、土居田、余戸(ようご)、鎌田あたりまででぽつぽつと乗客が降りて行き、鎌田の先で重信川の鉄橋を渡ると、車内は閑散としてしまいました。

時間もあまりないので、ひとまず終点の郡中港まで乗り通してしまいます。松山市街では雷だったのが、重信川を超え郊外に出ると急に天気が回復して来ました。この辺りまで来ると、市街に比べ少し古めかしいような家並みが目立ちますね。松前を過ぎて、すっかり乗客のいなくなった車内に明るい日差しが射し込むと、床にきれいな二段窓の桟が浮かび上がりました。

市駅から約30分、電車は1面1線の郡中港の駅に滑り込みます。ここまで乗って来た僅かな乗客はあっという間に出口に消えて、ホームには自分と乗務員氏だけが残りました。軽くすれ違いざまに二言三言の言葉を交わしてエンド交換を行う彼らの折り返し作業を眺めながら、終着駅の風景をパチリ。伊予鉄郊外線の終着駅は高浜、横河原、そして郡中港とどこも1面1線と簡素なんですね。郡中港って港の駅なのかな?と勝手に妄想して来てみたのだが、高浜の駅に比べてあまり港町っぽさは感じられず。

郡中港の駅は、平屋の駅舎に望楼の様な小さな2階部分がくっついた伊予鉄ではよく見る形のスタイル。今でも離島へ向かう航路が残っている高浜とは異なり、既に郡中港からは旅客航路は途絶えて久しいようで、今は漁船が船溜まりに残るのみの小さな港町。そこらへんが、何となく港街っぽい雰囲気の無さに繋がっているのかもしれない。駅前を走るのは、伊予市と八幡浜の間を海沿いに結ぶ国道378号線。道路を隔ててJRの伊予市駅は目と鼻の先で、松山市街への利便性は圧倒的に本数の多い伊予鉄に軍配が上がりますが、どちらの駅も利用客は同じくらいみたいです。

郡中港の「郡中」とは、現在の伊予市の中心市街地を指す地名で、かつてこの辺りは伊予郡郡中町と言われていました。古くから栄えた西予の港町である郡中まで、南予鉄道が開通したのは1896年(明治26年)のこと。予讃本線が郡中の街に達したのは昭和初期の話ですから、伊予市域は随分と長い事伊予鉄の独壇場だった事になります。駅の周辺には鰹節製品や和風だし・調味料系のメーカーとして有名な「ヤマキ」や「マルトモ」の本社があって、街の産業の中心となっていますが、お好み焼きやおひたしにかける「かつおパック」はロングセラー商品ですよねえ。

駅前には、昔ながらの長屋を模した「町家」という商業スペースがあって、地場物産の販売や軽食の取れる交流スペースになっています。家で待ってる家族のために、ちょこっとおみやげ品をゲット。はためく暖簾の向こうから、市駅行きが発車して行きました。


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