tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

廃寺から約100年かけて復興された平等寺/毎日新聞「やまと百寺参り」第89回

2021年03月09日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先月(2021.2.18)掲載されたのは「廃仏毀釈越え法灯守る/平等寺(桜井市)」、執筆されたのは奈良市にお住まいの同会会員・藤井哲子さんだった。平等寺は鎌倉時代には七堂伽藍(しちどうがらん)十二坊を有する大寺院だったが、神仏分離により廃寺となった寺だ。では全文を紹介する。

三輪山の神域に包まれるように鎮座する平等寺。桜井市金屋の大和川沿いに立つ仏教伝来の碑に近く、開基は聖徳太子と伝わります。周辺には古代の交易の場である海石榴市(つばいち)があり、山の辺の道など古道が交差しています。

室町時代の三輪山古図では、大神(おおみわ)神社の神宮寺として多くの伽藍(がらん)があったことが描かれています。醍醐寺との関係も深く、修験道の霊地でもありました。明治初期の廃仏毀釈(きしゃく)で廃寺となりましたが、多くの人の尽力で1977(昭和52)年に平等寺の寺号が復興されました。丸子孝法・現住職が手作りで建てた「赤門」や、復興以降、約30年かけて建造された本堂、鐘楼堂、釈迦堂(二重塔)などには、法灯を守ろうとした人々の思いが込められています。

1987(昭和62)年に復元された本堂安置の前立本尊・十一面観音菩薩(ぼさつ)像は、蓮華座(れんげざ)も含めて樹齢1500年のヒノキを用いた一木造です。優雅な顔立ちや均整のとれた仏身は、同じ神宮寺だった大御輪寺(だいごりんじ)におられた十一面観音菩薩立像(現聖林寺、国宝)と重なります。廃仏毀釈を乗り越え、連綿と続く信仰の歴史を伝えています。
(奈良まほろばソムリエの会会員 藤井哲子)

(宗 派)曹洞宗
(住 所)桜井市三輪38
(電 話)0744・42・6033
(交 通)JR三輪駅から徒歩約10分
(拝 観)境内自由。本堂拝観は要予約、300円
(駐車場)有(無料)


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大安寺で秘仏・馬頭観音の特別開扉、3月31日(水)まで!/毎日新聞「やまと百寺参り」第88回

2021年03月05日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。今年(2021年)2月11日に掲載されたのは「往年の大寺院 実感を/大安寺(奈良市)」、執筆されたのは奈良市在住で同会ガイドグループで活動する石田一雄さんだった。
※写真は大安寺の西塔跡に残る心礎

今年は622年に亡くなった聖徳太子1400年御遠忌(ごおんき)の年。大安寺の起源は聖徳太子が創建したという「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」なので、立派な「太子ゆかりの寺」である。なお3月1日(月)からは同寺の嘶堂(いななきどう)で、恒例の「春期特別拝観 秘仏馬頭(ばとう)観音立像特別開扉」が開催されている(3月31日まで 500円)。土日祝日は「ナント・なら応援団」(南都銀行OBによるボランティアガイド団体)がガイドを務めている。では記事全文を紹介する。

大安寺は、聖徳太子が創建した熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)が始まりと伝えられ、舒明天皇がわが国初の官寺として百済大寺を建立、その後の移転・改名を経て、平城京遷都に伴い現在の地に建立されました。境内面積は15町(約25万平方㍍)と現在の約25倍もある壮大な大伽藍(がらん)でした。旧境内全体が国史跡に指定されています。

旧境内の北端にあるのが、杉山古墳です。寺から北へ徒歩約5分、毎週火・木・土・日曜日に入口が無料開園されています。5世紀中ごろの前方後円墳で全長110㍍、もとは145㍍あったようです。墳丘に登れば四方に眺望が広がります。古墳内に6基あった瓦窯の1基が復元展示されています。

南端にあるのが、東西両塔跡です。寺から南へ徒歩約3分、東塔跡には、一辺21㍍の巨大な基壇が復元されています。西塔跡には、割ろうとした痕跡のある直径約2・6㍍の心礎(しんそ 礎石)が残っています。ここに巨大な七重塔が並び立っていたと想像してみてください。大安寺を訪れた際には、杉山古墳と東西両塔跡に足を延ばして、往年の大伽藍を実感してみてはいかがでしょうか。(奈良まほろばソムリエの会会員 石田一雄)

(宗 派)高野山真言宗
(住 所)奈良市大安寺2の18の1
(電 話)0742・61・6312
(交 通)JR・近鉄奈良駅からバス「大安寺」下車 徒歩約10分
(拝 観)9~17時 400円(特別拝観期は500円)
(駐車場)有(無料)


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実忠が修二会の行法を会得した笠置寺/毎日新聞「やまと百寺参り」第86回

2021年02月25日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。今年(2021年)2月4日(木)に掲載されたのは「東大寺修二会発祥の寺/笠置寺(京都府笠置町)」、執筆されたのは兵庫県姫路市出身・在住の池内力(いけうち・ちから)さんだった。東大寺二月堂修二会(お水取り)は、実忠和尚(じっちゅうかしょう)が笠置寺でその行法を会得したとされる。
※写真は左から金剛界石、千手窟(ほこらの奥)、胎蔵界石(笠置寺で)

そのお水取り、今年はコロナ禍で拝観が規制されるし、3月12日(金)~14日(日)は全く拝観できない。その代わりニコニコ動画、YouTube、NHKのBSなどで生中継されるので、ぜひリモートでご覧いただきたい(東大寺の公式HPは、こちら)。では記事全文を紹介する。

3月1日から東大寺二月堂で修二会が始まります。この法会は752(天平勝宝4)年2月(旧暦)に実忠(じっちゅう)が始めてから欠かさず行われており、「不退の行法」とも言われています。実忠がこの行法を会得したのが笠置寺(かさぎでら)です。

境内には胎蔵界石(たいぞうかいいし)と金剛界石の二つの大きな石が並び、その間に千手窟(せんじゅくつ)があります。これは弥勒(みろく)の浄土につながる龍穴(りゅうけつ)とされる場所で、実忠はこの穴から兜率天(とそつてん)の内院に行き、十一面観音悔過(けか)が行われるのを見たとされます。

伝承によると、実忠はこの行法を人間界でも行いたいと懇願しましたが、時間が足りないなどの理由で断られました。これに対して、走ってでも勤めるなどと粘り強く説得した結果、やっと認められたといいます。

笠置寺の寺伝は、東大寺に先立つ752年1月に実忠が正月堂で初めて行法を行ったと伝えています。なお、大仏殿建立時、用材を木津川の流れを利用して運ぼうとした際にふもとの岩が障害になったが、実忠の師、良弁(ろうべん)が千手窟で秘法を行ったところ、竜神が大雨を降らせ
雷神が岩を砕いたとの言い伝えがあります。(奈良まほろばソムリエの会会員 池内 力)

(宗 派)真言宗智山派
(住 所)京都府相楽郡笠置町笠置笠置山29
(電 話)0743・95・2848
(交 通)JR笠置駅から徒歩約45分
(拝 観)9~16時。300円
(駐車場)有(500円)


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聖徳太子1400年御遠忌の年、生誕の寺・橘寺にご注目!/毎日新聞「やまと百寺参り」第86回

2021年02月02日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先週(2021.1.28)掲載されたのは「聖徳太子生誕 愛馬像も/橘寺(明日香村)」、執筆されたのは同会理事で奈良市在住の久門たつおさんだった。
※トップ写真は、太子殿の前に立つ黒駒の像(三代目)=明日香村橘の橘寺で

今年(2021年)は聖徳太子1400年御遠忌(ごおんき)の年で、太子に注目が集まる。特別展「聖徳太子と法隆寺」は奈良国立博物館(4月27日~6月20日)と東京国立博物館(7月13日~9月5日)で開催される予定だし、法隆寺では法要が4月3(土)~5日(月)に営まれる。これらを控えて、今回はとてもタイムリーな掲載だった。では全文を紹介する。

聖徳太子は574(敏達天皇3)年に現在の橘寺(たちばなでら)の場所にあった欽明(きんめい)天皇の橘宮(たちばなのみや)で生まれたとされます。橘寺の創建年は不明ですが、発掘調査で中門、塔、金堂、講堂が一列に並ぶ四天王寺式伽藍(がらん)配置とみられています。

講堂跡に建つ江戸末期の本堂は太子殿と呼ばれます。本尊は室町期の木造聖徳太子坐像(重文)で、606(推古天皇14)年に太子が橘宮で勝鬘経(しょうまんぎょう)を講義した像とされます。

太子は大臣(おおおみ)の蘇我馬子らと推古天皇を支えるため、住居の斑鳩宮と飛鳥にある役所の小墾田宮(おはりだのみや)を結ぶ筋違道(すじかいみち)を往来しました。愛馬の黒駒(くろこま)に乗り、従者の調使麻呂(ちょうしまろ)が同行したと伝わります。

太子殿前にあるのが黒駒の像です。1913(大正2)年設置の初代は、太平洋戦争時に金属供出。53(昭和28)年の2代目は、酸性雨による腐食で撤去されました。現在の3代目の像は2001(平成13)年、全国の太子講関係者が奉納したもの。高さ1・3㍍の青銅製で、胴の左右には橘の花が浮き彫りされています。太子は622(推古30)年に斑鳩宮で亡くなり、今年は1400年遠忌に当たります。(奈良まほろばソムリエの会理事 久門たつお)

(宗 派)天台宗
(住 所)高市郡明日香村橘532
(電 話)0744・54・2026
(交 通)近鉄飛鳥駅から赤かめバス「川原」、または近鉄橿原神宮前駅から同バス「岡橋本」下車すぐ
(拝 観)9~17時。受付は16時半まで。350円
(駐車場)有(無料)


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難を逃れた供養塔が残る徳融寺/毎日新聞「やまと百寺参り」第85回

2021年01月27日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先週(2021.1.21)掲載されたのは「松永久秀の心 石塔に/徳融寺(奈良市)」、執筆されたのは奈良佐保短期大学講師で同会会員の小倉つき子さんだった。小倉さんには『廃寺のみ仏たちは、今』(京阪奈新書)というご著書もある。ならまちの徳融寺は、中将姫ゆかりの寺として知られている。では、記事全文を紹介する。  
※トップ写真は並んで立つ豊成公供養塔(中央)と中将姫供養塔(左)。
危うく多聞城の石垣になるところだった=奈良市鳴川町の徳融寺で

通称「ならまち」に建つ徳融寺(とくゆうじ)や高林寺(こうりんじ)の地は、奈良時代の右大臣・藤原豊成の別宅跡と伝わります。父豊成の後妻から継子(ままこ)いじめを受けた中将姫(ちゅうじょうひめ)が当麻寺で修行し、曼荼羅(まんだら)を織り上げるという「中将姫説話」発祥の地でもあります。徳融寺の観音堂裏に立つ豊成公と中将姫の石塔(鎌倉時代作)は、1677(延宝5)年に高林寺から移されてきたものです。

「戦国の梟雄(きょうゆう)」と称される松永久秀が多聞城(たもんじょう)(奈良市法蓮町)築城の際、墓石などを集めて石垣を造ったと伝えられます。当時高林寺にあった父娘の石塔も持ち去られました。その時、連歌師だった同寺の心前上人(しんぜんしょうにん)が「曳(ひ)き残す花や秋咲く石の竹」と詠み、久秀に石塔の由緒を送りました。

石の竹とは、石塔と石竹(せきちく)をかけた言葉で、石竹はナデシコのこと。冬は雑草同然のナデシコが、秋には花を咲かせるように、荒れ果てた石塔もいずれ供養されるだろうとの意を込めていたのです。久秀は連歌をたしなむ文化人。詩を理解し、石塔を返してきました。おかげで徳融寺で今、父と娘は丁重に供養されているのです。(奈良まほろばソムリエの会会員 小倉つき子)

(宗 派)融通念仏宗
(住 所)奈良市鳴川町25
(電 話)0742・22・3881
(交 通)近鉄奈良駅から徒歩約15分、JR奈良駅から徒歩約25分、またはバス「北京終町」下車すぐ
(拝 観)9時~17時 境内は自由。堂内は要事前予約
(駐車場)有(無料)


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