tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

源信が母親を見送ったぽっくり寺・阿日寺(あにちじ)

2021年01月22日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先週(2021.1.14)掲載されたのは《源信生誕の「ぽっくり寺」/阿日寺(あにちじ)》、執筆されたのは香芝市在住の柏尾信尚さん。柏尾さんはガイド名人を認定する「Nara観光コンシェルジュアワード」で優秀賞を受賞されている。では、全文を紹介する。
※トップ写真は、阿日寺本堂に安置されている木造源信僧都坐像=同寺提供

近鉄大阪線の下田駅からほぼ南へ1㌔ほどの所に阿日寺(あにちじ)はあります。比叡山で修業を積んで浄土信仰を広め、『往生要集』を著した恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)(942〜1017)が生まれた寺とされ、源信の母親が往生した寺としても知られています。

浄土念仏に関する膨大な経論の中から主要な文を引用し、誰にでも理解しやすく地獄と極楽の世界を描いた『往生要集』は、後世に多大な影響を及ぼし、念仏各宗派の基礎ともなりました。

母の臨終に際し、源信が祈願した浄衣(じょうえ)を着せて念仏を唱えると、安らかに亡くなりました。源信が開基とされる斑鳩町の吉田寺(きちでんじ)とともに「ぽっくり往生の寺」と呼ばれ、県内外から多くの人が参拝されます。

寺号の阿日寺は、源信が母の忌中に彫ったとされる本尊の阿弥陀如来立像、父の忌中に彫ったと伝わる客仏の大日如来坐像(重文)から一文字ずつとって名付けられました。

源信の命日7月10日には毎年、健康長寿と安楽往生を祈願して「恵心忌」が営まれます。この日のみ寺宝の「地獄絵図」五幅が開帳され、予約なしで拝観、法要に参列することもできます。
(奈良まほろばソムリエの会会員 柏尾信尚)

(宗派)浄土宗
(住所)香芝市良福寺361
(電話)0745・76・5561
(交通)近鉄下田駅から徒歩約20分
(拝観)9~12時、水曜休み。要予約、志納。 
(駐車場)有(無料、3台)


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茅原のトンドは毎年1月14日、コロナ禍で今年は中止/毎日新聞「やまと百寺参り」第83回

2021年01月17日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。年明けの初掲載(2021.1.7)となったのは、「夜空を焦がす大松明/吉祥草寺(御所市)」、執筆されたのは大和郡山市在住の岡田充弘(あつひろ)さんだった。残念ながら今年も1月14日に営まれる予定だった「茅原のトンド」は、コロナ禍のため中止となった。では、記事全文を紹介する。

修験道の開祖で神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)とも呼ばれる役行者(えんのぎょうじゃ)の生誕地に創建されたと伝わる吉祥草寺(きっしょうそうじ)。寺名にある吉祥草は、釈迦が悟りを開いた時に、菩提(ぼだい)樹の下にこの草を敷いて座したことに由来します。伊豆配流の冤罪が解かれて役行者が故郷の茅原に帰った時、吉祥草の花が咲き乱れたとの伝承があります。

1月14日の県指定無形民俗文化財「茅原のトンド」で有名です。境内に地元の茅原・玉手の区民によって設置された雌雄一対、2基の大松明(たいまつ)に火を灯すトンドが、修正会(しゅしょうえ)結願(けちがん)の日に左義長(さぎちょう)として行われます。

注目すべきはその大きさで、高さは6㍍、重さは1㌧以上にもなり、燃え上がる炎の丈を合わせると10㍍を超え、県内最大とされます。燃え盛る炎を天に向かって奉納し、感謝報恩と五穀豊穣(ほうじょう)を願うこの大トンド。修験道寺院と農村の行事が結びついた勇壮な大松明、一度見学されてみてはいかがでしょう(残念ながら2021年は、コロナ禍のため中止となりました)。(奈良まほろばソムリエの会会員 岡田充弘)

(宗 派)本山修験宗
(住 所)御所市茅原279
(電 話)0745・62・3472
(交 通)JR玉手駅から徒歩約5分、または近鉄御所駅からバス「茅原」下車すぐ
(拝 観)9時~17時 無料 
(駐車場)有(無料)




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飛鳥四大寺のひとつ川原寺跡 弘福寺/毎日新聞「やまと百寺参り」第82回

2020年12月25日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先週(2020.12.17)掲載されたのは《「謎の大寺」の歴史継ぐ/川原寺跡 弘福寺(明日香村)》、執筆されたのは奈良まほろばソムリエの会会員で桜井市出身・在住の露木基勝さんだった。

露木さんは奈良県下のガイド名人を選ぶ「Nara観光コンシェルジュアワード」で最優秀賞を獲得するとともに、プロのガイドとして「飛鳥探検倶楽部」にも所属している。『奈良百寺巡礼』でも「川原寺跡 弘福寺(ぐふくじ)」を担当された。では記事全文を紹介する。

川原寺は、飛鳥寺、薬師寺、大官大寺(だいかんだいじ)とともに、飛鳥の四大寺に数えられる飛鳥時代を代表する大寺でした。しかし、創建の時期やいきさつが「日本書紀」などの古代の文献に記述されていません。さらに、他の大寺が平城遷都とともに平城京に移転していったのに、唯一、飛鳥にとどまり続けました。川原寺はその後、歴史の舞台から姿を消してしまい、「謎の大寺」と呼ばれています。

川原寺には東塔と中金堂・西金堂の二つの金堂を持つ、一塔二金堂式で堂塔が配置されていました。それは川原寺式と呼ばれ、寺跡は国史跡に指定されています。その中金堂の場所に建つのが、川原寺の法灯を引き継ぐ現在の弘福寺(ぐふくじ)です。

境内に足を踏み入れると、点在する白色の石が目に入ります。この石こそが、1400年の時を超えた川原寺の中金堂の礎石です。「瑪瑙(めのう)石」と呼ばれている珍しい大理石で作られ、28個が現存しています。

東西150㍍以上、南北330㍍という広大な遺構を散策すると、在りし日の川原寺の壮大さを肌で感じます。瑪瑙の礎石に手を触れて、飛鳥時代に思いをはせてみてはいかがでしょうか。
(奈良まほろばソムリエの会会員 露木基勝)

(宗 派)真言宗豊山派
(住 所)奈良県高市郡明日香村川原1109
(電 話)0744-54-2043
(交 通)飛鳥駅より赤かめバス「川原」下車、徒歩2分または橿原神宮前駅より赤かめバス「岡橋本」下車、徒歩10分
(拝 観)9~17時 300円   
(駐車場)近くに有(有料)


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推古天皇の額の傷を治した額安寺(かくあんじ)/毎日新聞「やまと百寺参り」第81回

2020年12月16日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先週(2020.12.10)掲載されたのは「聖徳太子、推古天皇に縁/額安寺(大和郡山市)」、執筆されたのは同会会員で奈良市在住の酒井良子さんだった。
※トップ写真は奈良、鎌倉、室町、江戸期の瓦が入り混じる額安寺の本堂

額安寺は県道108号(真っ直ぐ南北に走り、大和まほろばスマートICで西名阪道とクロスする道)から少し入ったところなので、車だと分かりやすい場所だが、近鉄平端駅からの道は入り組んでいて、やや分かりづらい。お寺の近くには額田部窯跡(ぬかたべかまあと)や鎌倉墓(五輪塔)もあるので、ぜひお参りいただきたいお寺である。では記事全文を紹介する。

聖徳太子は、熊凝(くまごり)の地に釈迦の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)に倣って学問所を建て熊凝精舎と名付けました。熊凝山の山号はそれに由来します。太子の叔母、推古天皇の額の傷の平癒に効があり、額安寺(かくあんじ)の寺号を賜ったと伝えられます。

奈良時代は広大な偉容を誇りましたが、檀家(だんか)を持たない学問所の額安寺は衰退していきました。額安寺で得度した忍性(にんしょう)らによって鎌倉時代に再建されます。忍性の遺言で額安寺に分骨された骨臓器は、五輪塔とあわせて国の重文に指定されています。

古(いにしえ)から同寺は衰退、修理と復興を繰り返す歴史を重ねてきました。戦国時代には豊臣秀吉の命により、塔も四天王寺に移されて本堂だけになった時代もありました。明治時代には廃寺同然となりますが、1975(昭和50)年、名刹(めいさつ)の消失することを恐れて近くで誕生された喜多亮快(りょうかい)師が復興事業を進め、亮快(りょうかい)師没後は妻の寿桂(すが)住職がその志を継ぎ現在の額安寺の姿となりました。
  
室町期の十一面観音菩薩(ぼさつ)は本堂に置かれています。奈良時代から現代に至るまでの屋根瓦を生かして修復された本堂に、額安寺の歴史の重さを感じます。(奈良まほろばソムリエの会会員 酒井良子)

(宗 派)単立(真言系)
(住 所)大和郡山市額田部寺町36
(電 話)0743・59・1128
(交 通)近鉄平端駅から徒歩20分
(拝 観)10~16時、100円 
(駐車料)有(無料)


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大和大納言・豊臣秀長の木像を安置する春岳院/毎日新聞「やまと百寺参り」第80回

2020年12月06日 | やまと百寺参り(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は『奈良百寺巡礼』(京阪奈新書)の刊行を記念して毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまと百寺参り」を連載している。先週(12/3)掲載されたのは「豊臣秀長の菩提寺/春岳院(大和郡山市)」。執筆されたのは大和郡山市在住で、市内で観光ボランティアガイドを務める浅井博明さんだった。
※トップ写真の風格ある「秀長公木像」は桂材の寄せ木造り=大和郡山市新中町春岳院で

秀吉の弟・豊臣秀長は秀吉や諸大名の信望が厚く、豊臣政権下で枢要の位置を占めた。秀長が大友宗麟に向かって「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ侯故、ご心配に及ばぬ」(内々のことは利休に相談せよ、公の事は私秀長に相談せよ、心配することはない)と言ったことはよく知られている。では本文を紹介する。

豊臣秀長は大和大納言とも呼ばれ、今なお多くの人々に敬慕されています。春岳院(しゅんがくいん)は秀長の菩提(ぼだい)寺で、位牌(いはい)や肖像画が残されています。さらに近年、多くの市民の浄財を得て、「秀長公木像」が造られ本堂に安置されました。

1585(天正13)年、秀長は紀州一揆の制圧後、兄である豊臣秀吉の名代として四国征伐の大役を果たし、その功により大和・紀伊・和泉の百万石の大守として、大和郡山の地に入城します。秀長は百万石にふさわしい規模の城郭と城下町を整備して、今日の大和郡山の礎を築きました。

秀長はお膝元の城下を町の自治で治める「箱本」という制度を作りました。城下町の十三町が地子(じし)免除などの特権を受け、併せて町々は輪番で御朱印箱を持ち回り、当番の町が治安・消火・伝馬などの責務を負う制度でした。

この箱本の制度は豊臣氏滅亡後も、松平氏、本多氏、柳澤氏と受け継がれていきました。春岳院には、箱本に関わる文書とそれを納める御朱印箱が残されています。秀長の墓所は同市箕山町に置かれ、大納言塚と呼ばれます。毎年4月22日には大納言祭が行われています。(奈良まほろばソムリエの会会員 浅井博明)

(宗 派)高野山真言宗
(住 所)大和郡山市新中町2
(電 話)090・3351・5804(住職携帯)
(交 通)近鉄郡山駅から徒歩約10分、JR郡山駅から徒歩約15分
(拝 観)要予約
(駐車場)有(無料)


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