賀名生(あのう)は、旧・西吉野村(現・五條市西吉野町)にある南朝ゆかりの里だ。
今からちょうど670年前の1336年、後醍醐天皇は足利尊氏に京都を追われ吉野山に向かう途中、村内の郷士・堀家宅に滞在した。1348年には後村上天皇が、続いて長慶、後亀山天皇も堀家宅に入り、ここが南朝の行宮(あんぐう=仮の御所)となった。今も梅林の入口近くに「賀名生皇居」が残る。
なお賀名生は、もとは穴生(あなう)という地名だったが、尊氏が南朝に帰依したとき後村上天皇が「願いがかなってめでたい」と「加名生」(かなう)とし、後に賀名生となった。それが明治時代になって「あのう」と読み方が定められたそうだ。
ここには南北朝時代から梅があったようだが、今も奈良県3大梅林の1つである(残る2つは奈良市の月ヶ瀬と下市町の広橋)。その賀名生梅林が満開だと聞いたので、早速訪ねてみた。
この日(3/25)は汗ばむほどの晴天に恵まれ、多くの観梅客が訪れていた。名物の柿の葉寿司は正午には品薄となり、探すのにひと苦労だった。
それにしても見事な咲きっぷりだった。全山梅に埋めつくされている。1周コース4kmを歩き回るうち、梅の香りに酔ってきた。
ひと休みしようとリュックを開けると、ここからも良い香りが。「ややっ、リュックにも梅の香りがしみ込んだのか!」と驚いたが、それはおやつに持ってきた完熟バナナの匂いだった。
バナナと梅の香りがよく似ているとは、新発見であった。
今からちょうど670年前の1336年、後醍醐天皇は足利尊氏に京都を追われ吉野山に向かう途中、村内の郷士・堀家宅に滞在した。1348年には後村上天皇が、続いて長慶、後亀山天皇も堀家宅に入り、ここが南朝の行宮(あんぐう=仮の御所)となった。今も梅林の入口近くに「賀名生皇居」が残る。
なお賀名生は、もとは穴生(あなう)という地名だったが、尊氏が南朝に帰依したとき後村上天皇が「願いがかなってめでたい」と「加名生」(かなう)とし、後に賀名生となった。それが明治時代になって「あのう」と読み方が定められたそうだ。
ここには南北朝時代から梅があったようだが、今も奈良県3大梅林の1つである(残る2つは奈良市の月ヶ瀬と下市町の広橋)。その賀名生梅林が満開だと聞いたので、早速訪ねてみた。
この日(3/25)は汗ばむほどの晴天に恵まれ、多くの観梅客が訪れていた。名物の柿の葉寿司は正午には品薄となり、探すのにひと苦労だった。
それにしても見事な咲きっぷりだった。全山梅に埋めつくされている。1周コース4kmを歩き回るうち、梅の香りに酔ってきた。
ひと休みしようとリュックを開けると、ここからも良い香りが。「ややっ、リュックにも梅の香りがしみ込んだのか!」と驚いたが、それはおやつに持ってきた完熟バナナの匂いだった。
バナナと梅の香りがよく似ているとは、新発見であった。