梅雨も明け、スイカの美味しい季節がやってきた。毎年7月27日は、「スイカの日」である。スイカは5月中旬からスーパーの店頭に並び始めるが、やはり今頃になると、旨みも甘みも増すように感じる。以前当ブログで、「全国のスイカのタネの8割以上は奈良県産」という話を紹介し、大きな反響をいただいたことがある。
※トップ写真(マルト翠花)は、南都銀行グループのECサイト
「ならわし(narawashi)」から拝借。タネは萩原農場の「祭ばやし」
木曜日(2021.7.15)の奈良新聞「明風清音」欄では、その功労者である故萩原善太郎翁を紹介した。南都銀行グループのECサイト「ならわし(narawashi)」では、萩原農場を代表する大玉品種「祭ばやし」を栽培した「マルト翠花」も販売中である。では記事全文を紹介する。
西瓜王・萩原善太郎翁
蒸し暑い日が続く。夏といえばスイカ。奈良県は明治時代から「大和スイカ」の産地として知られてきた。今はイチゴなどへの転作や宅地開発などでスイカ畑は少なくなったが、タネ(栽培用種子)は各地に出荷され、全国シェアは8割以上を占める。その陰には「西瓜(すいか)王」と呼ばれた傑出した人物がいた。田原本町法貴寺に生まれ育った萩原善太郎翁(明治28年~昭和41年)である。翁はスイカのタネのトップメーカー「萩原農場」の創業者だ。翁の生涯はご自身の著書「西瓜人生」(富民協会刊)に詳しい。本書は翁の日記をもとに編纂(へんさん)された「人生録」から抜粋し、西瓜富研連盟全国協議会が編集した著作である。
本書にはこんなエピソードが登場する。翁は大正5年7月、満20歳のときインフルエンザにかかり、40度の高熱に苦しんでいた。そんな時、隣家の友人がスイカを持って見舞いに来てくれた。「アイスクリーム」という外来品種だった。〈その柔らかい果肉と甘味の強さはたとえようもないほどであった。印象的な味というより、ほかに表現の言葉を知らない味であった。(中略)西洋西瓜の味は忘れられぬものであり、それによって西瓜に対する愛着がたいへん高くなった〉。
翌年、同年配の農業技術員がこんなことをつぶやいた。〈「君、一つ農業のために本腰を入れてやってくれないか」と玉置技術員は私に話かけた。「本腰をすえて……そうだ、本腰をすえて……」私は今まで中腰であったことを自覚した。(中略)こうして「愛と熱と執着を心の糧として本腰をすえる」決意をした〉。
苦労は多かった。暑い夏の日中にスイカに水やりをすると、蒸せて害になる。翁とご子息は、地熱の冷める夜中に水をまいた。井戸から畑までは約100㍍、1回3斗(30升)の水を10回ほど、夏の間散水し続けたという。しかし村人たちは冷淡だった。〈「貧乏したけりゃ萩原の農業を見習え」とあざけられた〉。
大正12年8月、27歳の翁は畑で盃(さかずき)サイズの小さなスイカを発見する。〈遺伝の変異現象ではないかと考えて注意して見つめてみた。果肉は鮮紅色であり、甘味もある。種子は32粒はいっている。科学的に調べることはできないが、ともかくも変わった西瓜なので、種子を取っておいた〉。栽培すると実ったのは〈驚くばかりの大果であった。しかもその玉ぞろいがすぐれていて、規格品を作ったような見事さであった〉。
これが「富民号」で、のちにこれを品種改良して一代交配種(F1)「富研号」を育成する。富研号は昭和12年7月、大阪中央市場で開かれた「全西瓜試食批判会」に出品し、満場の賞賛を浴びた。スイカ史上に新たな歴史を刻む富研号誕生の瞬間だった。戦争による混乱期を経て、昭和26年4月、富研号は民間育種のスイカとしては初めて、農林省による「種苗名称登録」の認定を受けた。
同年11月、翁は大和に行幸された昭和天皇に「大和西瓜について」というご進講を行い、「今後もしっかり励んで下さい」というお言葉を賜った。昭和31年には黄綬褒章、昭和41年には勲五等双光旭日章を授与された。県農業会議議員、田原本町長などの公職も歴任した。早くから翁の銅像を建てる話が出ていたが翁はこれを固辞し、かわりに昭和31年に「富研号之塔」、36年には塔の背後に日本のスイカセンターとして「富研会館」を建設した。
翁は、まさに「西瓜人生」を生き抜いた人物だった。美味しいスイカをいただきながら、郷土の偉人に思いをはせたい。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
※トップ写真(マルト翠花)は、南都銀行グループのECサイト
「ならわし(narawashi)」から拝借。タネは萩原農場の「祭ばやし」
木曜日(2021.7.15)の奈良新聞「明風清音」欄では、その功労者である故萩原善太郎翁を紹介した。南都銀行グループのECサイト「ならわし(narawashi)」では、萩原農場を代表する大玉品種「祭ばやし」を栽培した「マルト翠花」も販売中である。では記事全文を紹介する。
西瓜王・萩原善太郎翁
蒸し暑い日が続く。夏といえばスイカ。奈良県は明治時代から「大和スイカ」の産地として知られてきた。今はイチゴなどへの転作や宅地開発などでスイカ畑は少なくなったが、タネ(栽培用種子)は各地に出荷され、全国シェアは8割以上を占める。その陰には「西瓜(すいか)王」と呼ばれた傑出した人物がいた。田原本町法貴寺に生まれ育った萩原善太郎翁(明治28年~昭和41年)である。翁はスイカのタネのトップメーカー「萩原農場」の創業者だ。翁の生涯はご自身の著書「西瓜人生」(富民協会刊)に詳しい。本書は翁の日記をもとに編纂(へんさん)された「人生録」から抜粋し、西瓜富研連盟全国協議会が編集した著作である。
本書にはこんなエピソードが登場する。翁は大正5年7月、満20歳のときインフルエンザにかかり、40度の高熱に苦しんでいた。そんな時、隣家の友人がスイカを持って見舞いに来てくれた。「アイスクリーム」という外来品種だった。〈その柔らかい果肉と甘味の強さはたとえようもないほどであった。印象的な味というより、ほかに表現の言葉を知らない味であった。(中略)西洋西瓜の味は忘れられぬものであり、それによって西瓜に対する愛着がたいへん高くなった〉。
翌年、同年配の農業技術員がこんなことをつぶやいた。〈「君、一つ農業のために本腰を入れてやってくれないか」と玉置技術員は私に話かけた。「本腰をすえて……そうだ、本腰をすえて……」私は今まで中腰であったことを自覚した。(中略)こうして「愛と熱と執着を心の糧として本腰をすえる」決意をした〉。
苦労は多かった。暑い夏の日中にスイカに水やりをすると、蒸せて害になる。翁とご子息は、地熱の冷める夜中に水をまいた。井戸から畑までは約100㍍、1回3斗(30升)の水を10回ほど、夏の間散水し続けたという。しかし村人たちは冷淡だった。〈「貧乏したけりゃ萩原の農業を見習え」とあざけられた〉。
大正12年8月、27歳の翁は畑で盃(さかずき)サイズの小さなスイカを発見する。〈遺伝の変異現象ではないかと考えて注意して見つめてみた。果肉は鮮紅色であり、甘味もある。種子は32粒はいっている。科学的に調べることはできないが、ともかくも変わった西瓜なので、種子を取っておいた〉。栽培すると実ったのは〈驚くばかりの大果であった。しかもその玉ぞろいがすぐれていて、規格品を作ったような見事さであった〉。
これが「富民号」で、のちにこれを品種改良して一代交配種(F1)「富研号」を育成する。富研号は昭和12年7月、大阪中央市場で開かれた「全西瓜試食批判会」に出品し、満場の賞賛を浴びた。スイカ史上に新たな歴史を刻む富研号誕生の瞬間だった。戦争による混乱期を経て、昭和26年4月、富研号は民間育種のスイカとしては初めて、農林省による「種苗名称登録」の認定を受けた。
同年11月、翁は大和に行幸された昭和天皇に「大和西瓜について」というご進講を行い、「今後もしっかり励んで下さい」というお言葉を賜った。昭和31年には黄綬褒章、昭和41年には勲五等双光旭日章を授与された。県農業会議議員、田原本町長などの公職も歴任した。早くから翁の銅像を建てる話が出ていたが翁はこれを固辞し、かわりに昭和31年に「富研号之塔」、36年には塔の背後に日本のスイカセンターとして「富研会館」を建設した。
翁は、まさに「西瓜人生」を生き抜いた人物だった。美味しいスイカをいただきながら、郷土の偉人に思いをはせたい。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
