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田中利典師曰く「僧侶自身が祈りを取り戻さないと、日本仏教は危うい」

2023年05月15日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「どこが日本仏教の危機なのか」(2010.12.27)。中外日報(宗教専門の新聞)の「論壇」欄に、「日本仏教の危機~僧侶がみずから祈りを取りもどすこと」という見出しで掲載された記事である。論陣を張っておられるので5章立ての長い記事になっているが、ぜひ最後までお読みいただきたい。
※トップ写真は金峯山寺の「南朝妙法殿」(2023.3.28 撮影)

文中で師は、映画『おくりびと』に僧侶が出てこなかったとお書きだが、これは私は気づかなかった。かつて伊丹十三監督作品『お葬式』に登場した笠智衆演じる浄土真宗の僧侶は、家具装飾の愛好家で、ロールスロイスで斎場に乗り付ける俗物というマイナスイメージで描かれていた。僧侶という存在が、軽視されているようだ。では、師の「論壇」記事全文を紹介する。

「どこが日本仏教の危機なのか」
中外日報社から「日本仏教の危機について」ということで、依頼された論壇の記事。日記に書いたように誤植があり、新聞記事はそのまま読むと肝心のところでずっこけるのですが、元原稿を貼ります。何人かの方にはお送りしました。でも体裁は新聞掲載記事の方がよいですね。

表題テーマ「日本仏教の危機~僧侶がみずから祈りを取りもどすこと」

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1)葬式仏教の危機じゃないの?
友人から「日本仏教って危機なの?」と聞かれた。

「そりゃあそうでしょう。日本仏教って危機的じゃないの。ここ数年、お寺を取り巻く状況は悪化の一途をたどっているよ。たとえば、『おくりびと』って映画には僧侶は出てこなかった。葬送の場に僧侶が不在だった。『千の風になって』が流行ったけど、お坊さんまで「私のお墓の前で泣かないでください~♪」と歌う」。

「島田裕巳氏の『葬式は、要らない』って本もよく売れた。それから、イオングループが葬祭業に参入し、死者を弔う心も一種の経済行為としての見方に拍車をかけた。読経や葬送儀礼のない直葬や無宗教葬は、どんどんと広がっている。檀家離れや無縁社会が現出し、肝心のお寺自身も後継者不足が問題になっていて、日本仏教は間違いなく危機に瀕しているんじゃないの」。

私はそう答えた。だが、友人は反論する。

「でもそれって、葬式仏教の危機であって、それが日本仏教の危機ということにはならないんじゃないのかなあ……。だってさ。仏教そのものは、一般の人の間では、関心は高まってるよ。仏教書はよく売れている。上座部仏教系の気づきの瞑想の本とか、ダライ・ラマ法王をはじめチベット仏教系の本は、書店で平積みになっている」。

「ここ数年の仏像ブームはすごいよね。奈良・平城遷都1300年祭がらみでは、寺院を訪れる人はすごく増えたんじゃないの。君の寺だって、昨秋に12万人が押し寄せたんでしょ。だから、どこが日本仏教の危機なのよ」。

──なるほどなあ、そう言われたら、そうかなあとも思う。でもやはり、日本仏教は危機を迎えているように思えてならない。

2)多くの寺院は葬祭仏教を基盤にしている
10年ほど前だが、私がまだ全日本仏教青年会の副理事長だったときに、「葬式仏教をぶっとばせ!」というテーマで全国大会を京都で行ったことがある。

そのときの大会記録を『葬式仏教は死なない』(白馬社刊)として出版した。その中で全国の寺院にアンケート調査を行い、調査報告を掲載した。全調査の8割以上が、葬儀や年忌法事、墓地管理など葬祭関連によるお布施収入に頼っていた。

やはり今の日本の多くのお寺の実態は、葬祭と法事で経済基盤を成り立たせているのである。葬祭仏教の危機は日本仏教の危機に直結している……。寺の内側から見て、正直にそう感じたし、今もそれは変わらない。

ところで、私は実は葬儀をしない僧侶である。寺はあるが檀家はない。信者さまを相手に、加持祈祷を専職にしている祈願寺院である。もちろん葬式ができないわけではなく、頼まれればしないこともないし、法事や年忌のお勤めもさせていただくこともあるが、それが主たる法務ではない。

だから檀家制度の崩壊と、葬祭仏教の衰微は、逆に我々にとって大きなチャンスなのだ……って言える立場にいるのかもしれない。が、ことは、そんな簡単なことではない。

3)その時代に生きた僧侶たちが血の滲むような努力をつづけてきたからこそ
6世紀中頃、日本に仏教が公伝して以来、仏教は国家的な規模による繁栄とともに、幾多の危機も迎えている。豊臣秀吉の時代、刀狩りが行われ、寺院にあった僧兵達は武装解除して寺は武力を失う。

武力を持った寺院が日本の仏教にとってよいことだったかどうかは別だが、それ以来、政治に対して発言力を失ったことは間違いない。江戸時代の寺請制度・檀家制度は、寺院の経済基盤を安定させたが、しかし布教の自由はなく、葬祭仏教となって、いきいきとした活力は奪われてしまった。明治の「神仏分離・廃仏毀釈」による打撃も日本仏教の形を大いに変容させた。

そして大東亜戦争の敗戦による農地解放は、寺院の経営基盤であった田畑などを大いに失い、これによって葬祭儀礼に収入を依存する体質や実子相続などの形が一般化した。戦後は新興宗教が活発に起こった。また都市化による核家族化が進み、檀家離れに拍車をかけた。

しかしながら、大きな節目ごとに、その時代に生きた僧侶たちが血の滲むような努力をつづけたからこそ、現代にまで、曲がりなりにも日本仏教の法灯は守られてきたのだと思う。それはまた僧侶だけの努力ではなく、日本人全体が先祖供養や現世利益などの祈りを通して、やはり日本仏教を心のよりどころとして求め、存続させてきたのだと思う。

4)本当の日本仏教の危機とは
人の生き死には人生最大の問題である。そこに宗教が必要とされるのは世の東西を問わず、そして長い人類の歴史を通じて変わらないことだったはずである。けれども、いまやその厳粛な場に僧侶が必要とされない社会となってきているのだ。

それがもし本当なら、人生の厳粛なる節に、祈願などの場さえも生まれない。そしてそれは、祈りを喪失させた社会をも生むことになるであろう。先祖供養や死者儀礼は現世利益と表裏一体でやってきたのが日本仏教だった、と私は思っている。そこにこそ、祈りがあったのだ。

人々の心に祈りの心があり、僧侶の祈りが必要とされてきたのである。映画『おくりびと』で僧侶がいなかったことも、「私のお墓の前で泣かないで下さい~♪」と歌う心も、『葬式は、要らない』のベストセラーも、イオングループのビジネスモデルも、どこか、僧侶自身の祈りの喪失とつながっているような気がする。

社会ぜんたいで祈りの喪失という現象は、今後ますます拍車をかけるにちがいない。実はそこが今の日本仏教の危機たる本当の所以なのではないだろうか。──そう私は思っている。

5)まず僧侶自身が祈りを取り戻さなければならない
まず、僧侶自身が祈りを取り戻さなければならない。仏に祈りもしない僧侶が死者儀礼や加持祈祷などに携われるはずがない。世間の人たちが祈りを忘れているのは、しっかりと祈る僧侶がいないからなのではないだろうか。

その現れをもっとも顕著に感じるのが葬儀の場だ。祈りの心を伝えられない僧侶が増えている。たんなる儀式の執行者になっていないだろうか。人の生き死にの場で、祈りを期待されないような僧侶では意味がない。葬祭の場こそ、僧侶がみずから祈りの心をお伝えする機会なのだと思う。

あるいは、仏像は見るものではない。拝むものであり、祈りの対象である。そこにも僧侶が祈りの体現者として登場していなくてはならない。博物館の管理人のようなことではダメなのは言うまでもない。

祈りのない、拝む心のない仏像ブームは仏教の自滅であるとさえ、僧侶は思わなくてはならないだろう。祈りを取り戻すこと、私はそれをなにより大切にしていきたいと思っている。
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