郡山城主を務め、「大和大納言」と称された豊臣秀長を主人公としたNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」が、2026年1月からスタートする。これにちなんで大和郡山市は2024年7月、「秀長さんまるっとマップ」(=トップ画像。PDFデータは、こちら)を制作した。
また同市の2025年度当初予算には、ドラマ関連事業費として1億8,218万円を盛り込んだ。毎日新聞奈良版(2/24付)には〈NHK大河ドラマ(26年1月から放送)に合わせ、イベント開催、小中学生用の副読本作成など関連事業費1億8218万円を計上。関連事業の財源について市は「国や県の補助、『ふるさと応援基金』などを活用し、一般財源は充てない方針」と説明した〉とあるから、立派なものである。
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この秀長、兄の秀吉と違い、人物像はあまり知られていない。そこで先週(2025.2.20付)の「明風清音」(奈良新聞)では、〈早わかり!豊臣秀長〉という一文を寄稿した。司馬遼太郎の短編小説から要点を抜粋したが、最後の文章が効いている。文字制限の関係で短くしたが、全文を引用すると、次のようになる。郡山城で催された葬儀のくだりである。
〈公卿や諸大名がおびただしくあつまり、死をきいてあつまってきた庶人の人数だけで二十万人といわれた。参列した諸大名のたれもが、この大納言の死で、豊臣家にさしつづけてきた陽ざしが、急にひえびえとしはじめたようにおもった。事実、この日から九年後、関ヶ原の前夜にこの家中が分裂したとき、大坂城の古い者たちは、――かの卿が生きておわせば。と、ほとんど繰りごとのようにささやきあった〉。
前置きが長くなった。では、「明風清音」の全文を紹介する。
早わかり!豊臣秀長
来年のNHK大河ドラマは『豊臣兄弟!』。主人公は秀吉の弟・秀長だ。弊会は大和郡山市でのツアーの募集を2月1日に開始したところ、またたく間に満員御礼となった(3月2日以降、個別にガイドすることは可能。弊会ホームページの「観光ボランティアガイド」ご参照)。
秀長は名補佐役、史上屈指のナンバー2などと言われるが、人物像はあまり知られていない。そこで今回は、司馬遼太郎の短編集『豊臣家の人々』(角川文庫)の「第五話 大和大納言」から、彼の生涯をたどってみたい。
▼兄の突然の出奔と帰省
〈尾張中村(名古屋市中村区)のあたりは、天がひろく、野がびょうぼうとして海のきわみにまでひろがっている。(中略)川や溝は縦横にながれており、しじみや鮒が多い。秀吉もそのようなものをとって幼童期をすごしたが、そのただひとりの弟である小一郎秀長も同様であった〉。
〈「小竹(こちく)」と、秀長は、幼童のころ村の者からよばれた。(中略)「小竹は、猿よりもましじゃ」と村ではいった。性質がおだやかで、顔がまるく、あごの肉づきが可愛かった〉。
父親が早世し、母親は隣家の男と再婚した。しかし腕白者の秀吉はこの養父と衝突し、ある日、突然出奔(しゅっぽん)した。小竹が17、8歳の頃、その兄が帰ってきた。弟を家来に迎えようとしたのである。小竹は、兄の説得により、家来(侍)になることを決意した。
▼教育係・竹中半兵衛の評価
秀吉は軍師・竹中半兵衛に、秀長(当時は小一郎)の教育を頼んだ。〈小一郎は、よき生徒であった。終始つつしみぶかい態度でそれを聞き、実地に見ならい、実際に指揮させると、諸事過不足なく半兵衛の教えたとおりに演じた。それ以上の才分はなかったが、たとえば留守隊長ぐらいはつとまるであろうという評価を、半兵衛はもった〉。
〈十数年経ち、秀吉が信長から命ぜられて中国征伐に発向したときは、小一郎はこの軍団の第一将として陣中にあり、播磨から備中にかけての各地に転戦して武功をたてた〉。この頃、半兵衛は持病が悪化し、死の床に小一郎を呼んだ。
〈「身の安全を期されよ。兵法の究極の極意は、それでござる」 半兵衛の心配は、小一郎の評判が大いに騰(あが)っていることであった。騰れば、自然、心もおごる。傲岸になり、他の部将のうらみを買い、どのような告げ口を筑州殿(秀吉)にせぬとも限らぬ〉。
〈功を樹(た)てればすべてそれを配下の将にゆずりなされ。諸将は功名をたてることによってのみ世に立っているが、あなたはたとえ功なくとも筑州殿の弟君であることにはかわりがない。「いままでも、そうなされてきた」と、半兵衛は、あらためて小一郎のこの十数年の業歴をほめた〉。
▼四国征伐で初の総大将に
四国を支配していた長曾我部元親に、秀吉は〈土佐一国のみはさしゆるす。他の三国をすてて帰伏すべし〉と申し送ったが、元親は従わない。業を煮やした秀吉は、小一郎に総大将を命じる。小一郎は、淡路島から阿波に渡り、長曾我部軍最大の要塞である一宮城(徳島市)を攻めたが、なかなか落ちない。秀吉は自分が行くと言いだし、堺に下る。
それを聞いた小一郎は〈ことばをできるだけおだやかにし、「ご発向のこと、しばらくのご猶予をねがいたい」という趣旨で、祐筆に上表文を書かせた〉。 これを秀吉に送ると同時に、全力を挙げて総攻撃を開始。ついに元親に降伏を決意させた。
四国から帰った小一郎の領国は、紀州から大和に移った。〈一国のほとんどは興福寺か春日明神の宗教領であり、しかも戦国百年のあいだに筒井氏、松永氏などに押領され、秀吉政権の成立後も土地の潜在権をめぐって訴訟や紛争がたえず、それらが京の公家に結びついているだけに、ある意味では統治がむずかしい。――小一郎ならば、やるであろう。と、秀吉はこの弟のその点(調整力)をみこんで大和をまかせた〉。
小一郎は四国征伐の翌年に従三位(じゅさんみ)参議、さらに翌年の九州征伐のあと従二位に叙せられ大納言に任じた。小一郎は生涯で大小百回以上戦場に立ったが、一度として失敗したことがなかった。
▼葬儀に庶民だけで20万人
小一郎は病を得て51歳で亡くなり、葬儀は郡山城で営まれた。集まった〈庶人の人数だけで二十万人といわれた。参列した諸大名のたれもが、この大納言の死で、豊臣家にさしつづけてきた陽ざしが、急にひえびえとしはじめたようにおもった〉。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
また同市の2025年度当初予算には、ドラマ関連事業費として1億8,218万円を盛り込んだ。毎日新聞奈良版(2/24付)には〈NHK大河ドラマ(26年1月から放送)に合わせ、イベント開催、小中学生用の副読本作成など関連事業費1億8218万円を計上。関連事業の財源について市は「国や県の補助、『ふるさと応援基金』などを活用し、一般財源は充てない方針」と説明した〉とあるから、立派なものである。
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この秀長、兄の秀吉と違い、人物像はあまり知られていない。そこで先週(2025.2.20付)の「明風清音」(奈良新聞)では、〈早わかり!豊臣秀長〉という一文を寄稿した。司馬遼太郎の短編小説から要点を抜粋したが、最後の文章が効いている。文字制限の関係で短くしたが、全文を引用すると、次のようになる。郡山城で催された葬儀のくだりである。
〈公卿や諸大名がおびただしくあつまり、死をきいてあつまってきた庶人の人数だけで二十万人といわれた。参列した諸大名のたれもが、この大納言の死で、豊臣家にさしつづけてきた陽ざしが、急にひえびえとしはじめたようにおもった。事実、この日から九年後、関ヶ原の前夜にこの家中が分裂したとき、大坂城の古い者たちは、――かの卿が生きておわせば。と、ほとんど繰りごとのようにささやきあった〉。
前置きが長くなった。では、「明風清音」の全文を紹介する。
早わかり!豊臣秀長
来年のNHK大河ドラマは『豊臣兄弟!』。主人公は秀吉の弟・秀長だ。弊会は大和郡山市でのツアーの募集を2月1日に開始したところ、またたく間に満員御礼となった(3月2日以降、個別にガイドすることは可能。弊会ホームページの「観光ボランティアガイド」ご参照)。
秀長は名補佐役、史上屈指のナンバー2などと言われるが、人物像はあまり知られていない。そこで今回は、司馬遼太郎の短編集『豊臣家の人々』(角川文庫)の「第五話 大和大納言」から、彼の生涯をたどってみたい。
▼兄の突然の出奔と帰省
〈尾張中村(名古屋市中村区)のあたりは、天がひろく、野がびょうぼうとして海のきわみにまでひろがっている。(中略)川や溝は縦横にながれており、しじみや鮒が多い。秀吉もそのようなものをとって幼童期をすごしたが、そのただひとりの弟である小一郎秀長も同様であった〉。
〈「小竹(こちく)」と、秀長は、幼童のころ村の者からよばれた。(中略)「小竹は、猿よりもましじゃ」と村ではいった。性質がおだやかで、顔がまるく、あごの肉づきが可愛かった〉。
父親が早世し、母親は隣家の男と再婚した。しかし腕白者の秀吉はこの養父と衝突し、ある日、突然出奔(しゅっぽん)した。小竹が17、8歳の頃、その兄が帰ってきた。弟を家来に迎えようとしたのである。小竹は、兄の説得により、家来(侍)になることを決意した。
▼教育係・竹中半兵衛の評価
秀吉は軍師・竹中半兵衛に、秀長(当時は小一郎)の教育を頼んだ。〈小一郎は、よき生徒であった。終始つつしみぶかい態度でそれを聞き、実地に見ならい、実際に指揮させると、諸事過不足なく半兵衛の教えたとおりに演じた。それ以上の才分はなかったが、たとえば留守隊長ぐらいはつとまるであろうという評価を、半兵衛はもった〉。
〈十数年経ち、秀吉が信長から命ぜられて中国征伐に発向したときは、小一郎はこの軍団の第一将として陣中にあり、播磨から備中にかけての各地に転戦して武功をたてた〉。この頃、半兵衛は持病が悪化し、死の床に小一郎を呼んだ。
〈「身の安全を期されよ。兵法の究極の極意は、それでござる」 半兵衛の心配は、小一郎の評判が大いに騰(あが)っていることであった。騰れば、自然、心もおごる。傲岸になり、他の部将のうらみを買い、どのような告げ口を筑州殿(秀吉)にせぬとも限らぬ〉。
〈功を樹(た)てればすべてそれを配下の将にゆずりなされ。諸将は功名をたてることによってのみ世に立っているが、あなたはたとえ功なくとも筑州殿の弟君であることにはかわりがない。「いままでも、そうなされてきた」と、半兵衛は、あらためて小一郎のこの十数年の業歴をほめた〉。
▼四国征伐で初の総大将に
四国を支配していた長曾我部元親に、秀吉は〈土佐一国のみはさしゆるす。他の三国をすてて帰伏すべし〉と申し送ったが、元親は従わない。業を煮やした秀吉は、小一郎に総大将を命じる。小一郎は、淡路島から阿波に渡り、長曾我部軍最大の要塞である一宮城(徳島市)を攻めたが、なかなか落ちない。秀吉は自分が行くと言いだし、堺に下る。
それを聞いた小一郎は〈ことばをできるだけおだやかにし、「ご発向のこと、しばらくのご猶予をねがいたい」という趣旨で、祐筆に上表文を書かせた〉。 これを秀吉に送ると同時に、全力を挙げて総攻撃を開始。ついに元親に降伏を決意させた。
四国から帰った小一郎の領国は、紀州から大和に移った。〈一国のほとんどは興福寺か春日明神の宗教領であり、しかも戦国百年のあいだに筒井氏、松永氏などに押領され、秀吉政権の成立後も土地の潜在権をめぐって訴訟や紛争がたえず、それらが京の公家に結びついているだけに、ある意味では統治がむずかしい。――小一郎ならば、やるであろう。と、秀吉はこの弟のその点(調整力)をみこんで大和をまかせた〉。
小一郎は四国征伐の翌年に従三位(じゅさんみ)参議、さらに翌年の九州征伐のあと従二位に叙せられ大納言に任じた。小一郎は生涯で大小百回以上戦場に立ったが、一度として失敗したことがなかった。
▼葬儀に庶民だけで20万人
小一郎は病を得て51歳で亡くなり、葬儀は郡山城で営まれた。集まった〈庶人の人数だけで二十万人といわれた。参列した諸大名のたれもが、この大納言の死で、豊臣家にさしつづけてきた陽ざしが、急にひえびえとしはじめたようにおもった〉。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
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