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田中利典師の「仮のお姿だからこそ、有り難い」

2023年10月23日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、師の昔のブログではなく、Facebookに書かれた先週の木曜日(2023.10.19)の話である。師が長年「企業秘密というか、信仰的なタブー」と考えられてきた疑問が、千人結縁灌頂(10/5~10)の最終日、最後の護摩を焚き終えた瞬間に氷解した、という話である。
※トップ写真は、利典師のFacebookから拝借した

「権現」とは文字通り、「仮(権)に出現した」ということ。本地(本来の姿)である釈迦、観音、弥勒が、蔵王権現という仮の姿で現われた。

現在、過去、未来を見守る「釈迦、観音、弥勒」といういわば抽象的な存在が、「蔵王権現」という憤怒の形相の「具体的な姿」をまとって目の前に現われた。おかげで、衆生はその姿を拝むことができるのだ、ということに師が気づかれたという話である。以下、全文を紹介する。

「権現だからありがたいのだ…潅頂会護摩師で悟ったこと」
先日の金峯山寺千人潅頂会で全会の護摩師をさせていただいた。その最後の三摩波多護摩供を焚き終えたとき、長年にわたって私の中で疑問だった信仰的疑義が解けた。今日はそのお話しを吐露する。

15歳で修験道信仰に入った私は長年にわたって、本尊蔵王権現の素晴らしさについて布教してきた。しかしその傍らでじつはずーーーと疑問におもってきたことがあった。

権現とは仮にあらわれた姿をいう。権とは仮という言う意味である。権大納言とか権宮司とか…。蔵王権現様は本地(本来の姿)の釈迦・観音・弥勒の仏が、修験道開祖役行者の願いに応えて、大峯の岩を割って、権現として出現された姿である。

私の疑問は、…ってことは権現とは仮の姿なのだから、元の方がありがたいのではないんだろうか、っていうことだった。これ、今まで人に語ったことはない。企業秘密というか、信仰的なタブーでさえあるのだと私は思って、封印してきたことである。

それが一日二度、御開帳された秘仏蔵王権現様の足下で、千人におよぶ結縁の善男善女への護摩供修法を果たすに及んで、最終の護摩を焚き終えた瞬間に、いきなり氷解したのだった。それは「権現だからありがたいのである」であった。

人という生き物はやっかいなものである。昨日のこともくよくよするし、10年前の出来事だっていまだに後悔したりする。まだ来ぬ明日のこと、1年先のことも心配する。隣の町の心配もするし、隣の国、北朝鮮やシナ、ウクライナ、ロシア、イスラエル…と心配事は際限がない。

宇宙のことも心配する。太陽の黒点の動きも心配だ。海の底の地殻変動のことさえ、危惧している。そんなことは牛や馬や犬や猫はしないだろう。いや自分の死についても考え込んだり彼らはしない。人間は自分が死ぬことも知っている。そして多くの思いに悩み苦しむ。

しかもついには、そんな自分の存在が広い宇宙で広い世界で、たったひとりで生きている頼りない心細い存在であることにも気づいてしまうのである。

そんなちっぽけで儚(はかな)い人間にとって大事な支えとなるのは、自分を超えた永遠との出会いである。いわゆるグレートサムシングとの出会いを得て、こんな不確かで心もとない人生が安楽に生きられるのだと思っている。それが宗教の真の意味かもしれない。

で、蔵王権現の話に戻るのだが、仮にあらわれたのがありがたいのである。仮にあらわれたというのは、目の前に現実におられるっていうことだ。理屈とか理論とか、能書きではなく、仮でも何でも、目の前に現実にいるっていう権現様の有り難さ。

三摩波多護摩師のお役で6日間、12会にわたるお役を終えて、私は久しぶりに修行をさせていただいた気持ちになれた。そして千人の方をお護摩で加持させていただく中で、本当の権現様の有り難さに出会わせていただくことが出来たのだった。
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