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この土日(6/30~7/1)、長男の住む栃木県を訪ねた。土曜日は下野市(しもつけし)へ。新幹線で東京、上野からJR東北本線に乗り換え約1時間半で下野市に着く。ここから長男の車で「国指定史跡 下野薬師寺跡(しもつけやくしじあと)」に向かった。下野薬師寺といえば、奈良検定にも登場するとおり、「日本三戒壇」の1つであり、また左遷された道鏡が別当となった寺でもある(道鏡は下野国で没した。下野薬師寺近くの龍興寺境内に、道鏡の墓と伝えられる塚がある)。
※トップ写真は、一部復元された回廊。こちらに詳しい写真が出ている
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/0c/a1be438b2588434d96d480ce5491fcab.jpg)
Wikipedia「薬師寺(下野市)」によると《薬師寺(やくしじ)または下野薬師寺(しもつけやくしじ)は、現在の栃木県下野市(旧河内郡南河内町)にかつて存在した仏教の寺院である。下野国にあった薬師寺は、六国史中では主に下野薬師寺と記載されている。中国では敦煌、また朝鮮半島では新羅で見られる薬師信仰は、飛鳥時代までに日本に伝来したと考えられている。日本で薬師信仰が盛んになったのは聖徳太子が用明天皇の病気治癒を祈って薬師如来像を造立して以来、天武天皇9年680年11月に天武天皇が皇后の病の治癒を願って大和国に薬師寺を建立してからのことである》。
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戒壇院の跡地といわれる場所に、六角堂が建てられている
《下野薬師寺が建立されたのもこの天武天皇から持統天皇の御代と考えられている。『類聚三代格』には「天武天皇所建立地」(嘉祥元年848年11月の太政官府)とあり、『続日本後紀』には「下野国言、薬師寺者天武天皇所建立地也」(嘉祥元年11月己未)とあり、下野市も下野薬師寺は7世紀末に下毛野古麻呂が建てた寺と考えられるとしており、何れにせよ、現在でも薬師寺と名付けられた寺はすべて天皇の意向によって建てられた寺ばかりであることから、下野薬師寺は奈良時代以前に当時の日本の中央政府の権力者が建立した寺と考えられている》。
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《奈良時代には、國分金光明寺(=東大寺 奈良)および観世音寺(福岡)とともに、国内の僧侶を統制する天下三戒壇の一つに数えられ、東国の僧侶に戒律を授けて正式な僧侶の資格証明書である度牒を授け、中央戒壇(國分金光明寺戒壇院)と西戒壇(観世音寺戒壇院)に対して東戒壇とも呼ばれた。中央政界で権力をふるった道鏡が称徳天皇の死により左遷され、造寺別当(造寺司の長官)となったのも下野薬師寺であった。平安時代に入ると、比叡山での戒壇設置とともに戒壇の需要は薄れ、次第に衰退していく》。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/73/86eac434d55ac8ecf049259fbc50f54d.jpg)
《戦国時代に後北条氏と結城多賀谷氏による戦渦に巻き込まれて焼失した。発掘調査で出土した瓦が、大和川原寺系の八葉複弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文軒平瓦とであることから、7世紀末の天武朝の創建であると推定されている。また、寺域は東西約250メートル、南北約330メートルである》《1921年(大正10年)3月3日、「下野薬師寺跡」として国の史跡に指定された》。
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寺跡に隣接して、「下野薬師寺歴史館」がある(入館無料)。同館のHPによると《当館は、下野薬師寺跡の南西に隣接して建設された下野薬師寺跡のガイダンス施設です。館内では、発掘調査によって見つかった瓦をはじめとする出土遺物、下野薬師寺に関る文献史料、復元模型などの展示のほか、映像などによって下野薬師寺の歴史をわかりやすく解説しています。また、旧3町(石橋町、国分寺町、南河内町)の各歴史をまとめた町史等の販売も行っています。なお、夏休み期間中には体験事業を実施します》とある。係の女性が親切に質問に答えてくださるし、屋上からは復原された寺の敷地が見渡せる。エレベーター前では天平衣装を着たマネキンが迎えてくれ、思わぬところで「奈良」に遭遇した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/ad/f393adaae0ccf4269af1f64295d51830.jpg)
歴史館の屋上から旧境内地が見渡せる。向かって左上が復元回廊
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/d1/9cb5cf33c13a9a03ee49e7e517fea8d3.jpg)
寺跡の南東に接して、「薬師寺八幡宮」があった。同宮のHPによると《貞観17年(875)清和天皇の御勅定により東北守護の大神として石清水八幡宮の御分霊を勧請、創建される(神社伝承)。一説には奈良時代天平勝宝元年(749)、下野薬師寺(日本三戒壇)の守護神・仏法の鎮守神として鎮座したとも考えられています。清和源氏の氏神様・仏法の守護神とも称され、勝ち運・災難除けの願掛けが多く見られます》。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/ef/47290553421d937a239252cbd8f2549e.jpg)
栃木県は奈良県と同じ「海なし県」である。栃木県南部のこの辺りは関東平野の一角で、山がなく縹渺(ひょうびょう)たる平地が広がっている。四方を山に区切られた奈良盆地からここに配流された道鏡は、どんな気持ちでこの景色を眺めたことだろう。
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Wikipedia「薬師寺(下野市)」によると《薬師寺(やくしじ)または下野薬師寺(しもつけやくしじ)は、現在の栃木県下野市(旧河内郡南河内町)にかつて存在した仏教の寺院である。下野国にあった薬師寺は、六国史中では主に下野薬師寺と記載されている。中国では敦煌、また朝鮮半島では新羅で見られる薬師信仰は、飛鳥時代までに日本に伝来したと考えられている。日本で薬師信仰が盛んになったのは聖徳太子が用明天皇の病気治癒を祈って薬師如来像を造立して以来、天武天皇9年680年11月に天武天皇が皇后の病の治癒を願って大和国に薬師寺を建立してからのことである》。
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戒壇院の跡地といわれる場所に、六角堂が建てられている
《下野薬師寺が建立されたのもこの天武天皇から持統天皇の御代と考えられている。『類聚三代格』には「天武天皇所建立地」(嘉祥元年848年11月の太政官府)とあり、『続日本後紀』には「下野国言、薬師寺者天武天皇所建立地也」(嘉祥元年11月己未)とあり、下野市も下野薬師寺は7世紀末に下毛野古麻呂が建てた寺と考えられるとしており、何れにせよ、現在でも薬師寺と名付けられた寺はすべて天皇の意向によって建てられた寺ばかりであることから、下野薬師寺は奈良時代以前に当時の日本の中央政府の権力者が建立した寺と考えられている》。
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《奈良時代には、國分金光明寺(=東大寺 奈良)および観世音寺(福岡)とともに、国内の僧侶を統制する天下三戒壇の一つに数えられ、東国の僧侶に戒律を授けて正式な僧侶の資格証明書である度牒を授け、中央戒壇(國分金光明寺戒壇院)と西戒壇(観世音寺戒壇院)に対して東戒壇とも呼ばれた。中央政界で権力をふるった道鏡が称徳天皇の死により左遷され、造寺別当(造寺司の長官)となったのも下野薬師寺であった。平安時代に入ると、比叡山での戒壇設置とともに戒壇の需要は薄れ、次第に衰退していく》。
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《戦国時代に後北条氏と結城多賀谷氏による戦渦に巻き込まれて焼失した。発掘調査で出土した瓦が、大和川原寺系の八葉複弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文軒平瓦とであることから、7世紀末の天武朝の創建であると推定されている。また、寺域は東西約250メートル、南北約330メートルである》《1921年(大正10年)3月3日、「下野薬師寺跡」として国の史跡に指定された》。
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寺跡に隣接して、「下野薬師寺歴史館」がある(入館無料)。同館のHPによると《当館は、下野薬師寺跡の南西に隣接して建設された下野薬師寺跡のガイダンス施設です。館内では、発掘調査によって見つかった瓦をはじめとする出土遺物、下野薬師寺に関る文献史料、復元模型などの展示のほか、映像などによって下野薬師寺の歴史をわかりやすく解説しています。また、旧3町(石橋町、国分寺町、南河内町)の各歴史をまとめた町史等の販売も行っています。なお、夏休み期間中には体験事業を実施します》とある。係の女性が親切に質問に答えてくださるし、屋上からは復原された寺の敷地が見渡せる。エレベーター前では天平衣装を着たマネキンが迎えてくれ、思わぬところで「奈良」に遭遇した。
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歴史館の屋上から旧境内地が見渡せる。向かって左上が復元回廊
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寺跡の南東に接して、「薬師寺八幡宮」があった。同宮のHPによると《貞観17年(875)清和天皇の御勅定により東北守護の大神として石清水八幡宮の御分霊を勧請、創建される(神社伝承)。一説には奈良時代天平勝宝元年(749)、下野薬師寺(日本三戒壇)の守護神・仏法の鎮守神として鎮座したとも考えられています。清和源氏の氏神様・仏法の守護神とも称され、勝ち運・災難除けの願掛けが多く見られます》。
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栃木県は奈良県と同じ「海なし県」である。栃木県南部のこの辺りは関東平野の一角で、山がなく縹渺(ひょうびょう)たる平地が広がっている。四方を山に区切られた奈良盆地からここに配流された道鏡は、どんな気持ちでこの景色を眺めたことだろう。
奈良県から下野薬師寺までは、さぞや長途の旅だったでしょう、ご苦労様でした。
下野薬師寺が多少とも知られるのは、
天平宝字5年(761) 戒壇の設立
宝亀元年(770) 道鏡、造下野国薬師寺別当に左遷
の故でしょう。
然し、これらのことに先立ち、
「続日本紀」天平勝宝6年(754)11月24日の条に
僧行信が<厭魅>の罪で「以行信配下野薬師寺」とあります。この件に関して「下野薬師寺歴史館」にも若干の解説がありますが、未決の論争があります。
【行信は二人いたか?】
<大僧都>にして法隆寺中興の行信と流罪となった行信は別人との説(直木孝次郎・「続日本紀」・東洋文庫)と同一人物説(大橋一章「法隆寺の美術」・グラフ社)。「南河内町史」は何れとも断定していませんが、同一人物説が近時有力としています。
法隆寺夢殿安置の国宝・乾漆【行信僧都坐像】を巡り、文献史学者と美術史家の論争は、興趣尽きぬものがあります。
> 奈良県から下野薬師寺までは、さぞや長途の旅だったでしょう、ご苦労様でした。
東京からまた2時間というところが、結構疲れました。
> 行信は二人いたか?
こんな論争があったのですね、全く存じませんでした。知れば知るほど、古代史は面白い!