いつぞやに続いて、本からの話題。
小説では歴史小説というヤツが好きで「司馬遼太郎さんの歴史小説」は結構な数を読んだ。それまでもある程度の数は読んではいたが、読む量が増えるキッカケがあった。それは司馬さんが亡くなられた時に出版された「司馬遼太郎が語る日本~未公開講演記録」↓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/d5/f8ef07564e978c310440e72f31c47459.jpg)
というのを読んだからだ。
この本は、未公開と言ってしまった部分に問題があったらしく、今では司馬遼太郎全公演というタイトルで文庫本化されて再発刊されている。
コレを読んでいると江戸時代は時代劇に出てくるような「越後屋、そちも相当のワルよの~。」というような汚職はほとんど無く、何年かに一度の割合で起こる飢饉に襲われたような地区以外は基本的に豊であり、世界に誇れる教育水準(識字率等)であったというような今までの常識?とは違う話ばかりで、我々日本人の歴史をたどると、意外にも世界に誇れる人が多かったんだなぁ~と、つくづく思い知らされる。
さらには、その講演、講演で取り上げられる人物に興味を抱いてしまい、ついつい文庫本を買ってしまうので、読む本の数が増えてしまったのだ。
小説や講演記録以外にも「この国のかたち」という一種のエッセイ集等も読んだが、数ある著書の中には、何回か釣りや漁法に関する話が紹介されている。前置きが長くなったが、その中からの話題をいくつか書いておこう。
その昔、全国各地では独自の漁法はあったものの、それは原始的で非効率的なモノであった。ソコに革新をもたらし、現在にも繋がる漁法を広めたのは和歌山の中紀地区(由良あたり)の漁師さん達だった。
和歌山の漁師さん達の技術力が高い事は全国的に知られており、各地に請われて移住をしていたらしい。移住と同時に漁師さん達は、この地区がルーツである醤油(その物というよりも、生産するための麹菌)を持ち込んで行った。全国各地にある由良という地名は移住した漁師さん達が、和歌山の故郷を思ってつけた名前で、日本に醤油の文化が広がり、根付いたのも、和歌山の人が移り住んだ結果だという事が書かれている。
また、我々が今使っている釣り糸の元祖とも言うべき存在は「テグス」だが、実はこのテグスのルーツは徳島県鳴門の近くにある堂の浦の漁師さんだった。
江戸時代の初期に堂の浦の漁師さんが大阪見物に出掛けている途中、薬問屋街である道修町(どしょうまち=武田薬品のルーツもここにある)にたどり着いた。ここでブラブラしている内に、ふと中国から輸入された漢方薬を梱包している紐に目がいった。それを手にとって調べてみると、透明に近く、一度伸びてもすぐ元に戻るという特性があることに気が付いた。「コレは釣りに使える!」と思って、問屋の主人に「売って欲しい。」と伝えると、問屋の主人自体がその話に興味を持ち、漁師と意気投合してしまったらしい。これを機会に、この薬問屋はテグス問屋となり、その漁師と組んで全国に売り歩いた事で、全国に広まったという事だ。
オモシロイ事に、このテグスの登場によって食生活までが変わったらしい。というのも、それまでは網による漁法が中心なので、獲れる場所が限られていた。そこから消費地に運び込むには、どうしても干魚にして、日持ちさせるしかなかったらしい。それが、テグスで釣るのが盛んになり、各地の漁獲高が上がった事でいわゆる「地穫れの魚」が増え、その結果、鮮魚が食卓に並ぶようになったという事だ。
もし、この漁師さんが居なかったら、日本の刺身&寿司文化は無かったのかも知れないと思うと、偉大な発見だと思う。
その他、江戸っ子が川を上ってくるボラの幼魚=イナの背中を見て、キレイで粋な色をしているなと感じたのが「いなせ」の語源だった。という話も紹介されている。
司馬さんの講演記録やエッセイは、読んでいると色々と為になる事が書かれており「目からウロコ」の話が多く、本当にタメになる。今起こっている年金問題のような国民不在の体質は「戦前の軍部と同じ」なんて事にも気が付くだろうから、是非みんなにオススメしたい本なのだ。
小説では歴史小説というヤツが好きで「司馬遼太郎さんの歴史小説」は結構な数を読んだ。それまでもある程度の数は読んではいたが、読む量が増えるキッカケがあった。それは司馬さんが亡くなられた時に出版された「司馬遼太郎が語る日本~未公開講演記録」↓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/d5/f8ef07564e978c310440e72f31c47459.jpg)
というのを読んだからだ。
この本は、未公開と言ってしまった部分に問題があったらしく、今では司馬遼太郎全公演というタイトルで文庫本化されて再発刊されている。
コレを読んでいると江戸時代は時代劇に出てくるような「越後屋、そちも相当のワルよの~。」というような汚職はほとんど無く、何年かに一度の割合で起こる飢饉に襲われたような地区以外は基本的に豊であり、世界に誇れる教育水準(識字率等)であったというような今までの常識?とは違う話ばかりで、我々日本人の歴史をたどると、意外にも世界に誇れる人が多かったんだなぁ~と、つくづく思い知らされる。
さらには、その講演、講演で取り上げられる人物に興味を抱いてしまい、ついつい文庫本を買ってしまうので、読む本の数が増えてしまったのだ。
小説や講演記録以外にも「この国のかたち」という一種のエッセイ集等も読んだが、数ある著書の中には、何回か釣りや漁法に関する話が紹介されている。前置きが長くなったが、その中からの話題をいくつか書いておこう。
その昔、全国各地では独自の漁法はあったものの、それは原始的で非効率的なモノであった。ソコに革新をもたらし、現在にも繋がる漁法を広めたのは和歌山の中紀地区(由良あたり)の漁師さん達だった。
和歌山の漁師さん達の技術力が高い事は全国的に知られており、各地に請われて移住をしていたらしい。移住と同時に漁師さん達は、この地区がルーツである醤油(その物というよりも、生産するための麹菌)を持ち込んで行った。全国各地にある由良という地名は移住した漁師さん達が、和歌山の故郷を思ってつけた名前で、日本に醤油の文化が広がり、根付いたのも、和歌山の人が移り住んだ結果だという事が書かれている。
また、我々が今使っている釣り糸の元祖とも言うべき存在は「テグス」だが、実はこのテグスのルーツは徳島県鳴門の近くにある堂の浦の漁師さんだった。
江戸時代の初期に堂の浦の漁師さんが大阪見物に出掛けている途中、薬問屋街である道修町(どしょうまち=武田薬品のルーツもここにある)にたどり着いた。ここでブラブラしている内に、ふと中国から輸入された漢方薬を梱包している紐に目がいった。それを手にとって調べてみると、透明に近く、一度伸びてもすぐ元に戻るという特性があることに気が付いた。「コレは釣りに使える!」と思って、問屋の主人に「売って欲しい。」と伝えると、問屋の主人自体がその話に興味を持ち、漁師と意気投合してしまったらしい。これを機会に、この薬問屋はテグス問屋となり、その漁師と組んで全国に売り歩いた事で、全国に広まったという事だ。
オモシロイ事に、このテグスの登場によって食生活までが変わったらしい。というのも、それまでは網による漁法が中心なので、獲れる場所が限られていた。そこから消費地に運び込むには、どうしても干魚にして、日持ちさせるしかなかったらしい。それが、テグスで釣るのが盛んになり、各地の漁獲高が上がった事でいわゆる「地穫れの魚」が増え、その結果、鮮魚が食卓に並ぶようになったという事だ。
もし、この漁師さんが居なかったら、日本の刺身&寿司文化は無かったのかも知れないと思うと、偉大な発見だと思う。
その他、江戸っ子が川を上ってくるボラの幼魚=イナの背中を見て、キレイで粋な色をしているなと感じたのが「いなせ」の語源だった。という話も紹介されている。
司馬さんの講演記録やエッセイは、読んでいると色々と為になる事が書かれており「目からウロコ」の話が多く、本当にタメになる。今起こっている年金問題のような国民不在の体質は「戦前の軍部と同じ」なんて事にも気が付くだろうから、是非みんなにオススメしたい本なのだ。