■「北の国から」の時代背景■
「北の国から」というドラマ&スペシャル・ドラマがオン・タイムで放映されていた頃、ボクが「若者」と言われた時代は、正にバブル景気の絶頂期とその前後にあたる。振り返るとそれは、多くの人達が欲望に駆られて動く時代だった。
その頃は、多くの人々が土地や株の投機に奔走し、ゴルフは「男のたしなみ」とまで言われて会員権が数千万円もするゴルフ場には人々が溢れていた。
象徴的な話として、本来は高額な乗用車であるはずのBMWの3シリーズが六本木のカローラと呼ばれ、「大学生を含む若年層の多くが乗り回している。」といった話があったほどだ。
しかし、考えてみると生産性の無い、あるいは低い若年期に、そんなことが出来たのは一部の例外を除けば親等からの資金援助があってのこと。そんな身分で大量消費=浪費?を行い、贅沢の味を覚えてしまうことが、その後の人生に好影響を与えるとは到底思えない。そんな状態がマトモな訳があるまい。
元よりボクは群れることが嫌いな「右向け右」ならぬ「右向け左」のひねくれ者なので、世間の流れに小さな抵抗を示して自身ではある程度距離を置いていたつもりだったが、それでも何だかんだで小躍りはしていた。だから、その後に起こるバブルの崩壊と、それに続く現代までに至る苦しい時代、そして何よりもその間に消えた、本来であれば次世代に受け継ぐべき有形無形の財産の消失を思えば、猛省しなくてはならない立場にあるのは確かだ。
そんな、バブル期を含んだ流れの中であって、黒板五郎というドラマの主人公を通して常に警鐘とメッセージを送り続けていたのが、脚本家の倉本聰氏であった。
●富良野近郊は「豊穣の季節」を迎えていた●
■拝金主義■
バブル期を懐かしみ、「あの時代をもう一度」とばかりに、その時代に夜な夜な踊り狂っていた女史を再び登場させるというTV番組なんかを見掛けたこともあるが、それはトンでもないことだ。本当に振り返るのも恥ずかしいバカな時代なのだ。
悲しいことにバブル期に大増殖した拝金主義者は崩壊以降も生き残り、時折メディアが煽る「勝ち組、負け組」などのキーワードと共に顔を出し、お金や所有物の多寡で価値を判断するような時代の後遺症は続いている。そして、その後継者までもが確実に育っている。
昨秋に世間を騒がせた結婚詐欺事件は、「高額なブランド品と豪華な食事」欲しさに犯行を重ねたものであるが、この事件は今も続く拝金主義の象徴のように思える。
ビンボー人のヒガミと言われればそれまでだし、自分の金をどう使おうが勝手である。更には「人の趣味趣向は千差万別」それは理解しているつもりであっても、こういった流れの中にある、「本人の努力や工夫、そして能力が反映されない、お金さえあれば誰にでも手に入る物」を欲しがり、それを持つことで見栄を張る体質は、ボクの理解が及ぶところではないし、それ欲しさに自身の労働の対価でもない金を使うのであれば、尚更の話だ。
■「セレブ」■
近年において、メディアが使う言葉の中に「セレブ」という言葉がある。本来の語源である「セレブリティー」は有名人、著名人、名士といった意味合いで、肯定的にも否定的にも使える言葉であるらしいが、現代日本では、「その人の素養は関係なしに、単に金持ちであるとかブランド品を身につける」ということを表す言葉になっているようだから、拝金主義的な臭いがする言葉の一つだとボクは捉えている。そして、今ではそれを絡めた造語の数も増えているようだ。
先日、「たかじんのそこまで言って委員会」というTV番組の中で、あるコメンテーターが、
「バブル期を忘れられない主婦が、借金をしてまでブランド品を買い求め、それが消費者金融利用者の一角を占め、返済できずにいる者も多い。」という、話をしていた。この話には、無理な借金で買う「『セレブ御用達のブランド』って、一体何なの?」と思ってしまう。
よくよく振り返ってみると、このように背伸びをしてまで「ワンランク上」の社会に首を突っ込もうとする風潮は、今に始まったことではない。それは昔からあって、ボクなんぞは「日本が文明国家であることを欧米各国に示そう」とばかり、社交界よろしく、海外からの客人を招いて舞踏会を何度も開いた「鹿鳴館」をついつい思い浮かべてしまう。
鹿鳴館に集う当時の日本人高官や、その妻達はマナーやエチケットなどを知るハズもなく、食事、着こなし、ダンスなどは、様にならず、逆に招いた客人達に「日本人は滑稽」と嘲笑されていたのだ。治外法権撤廃という裏事情があったにせよ「身の丈に合わない」であるとか、「板につかない」という言葉はそんなことを表すためにあるのだと思う。
中には「プチ・セレブ」という言葉までがあり、ささやかな一品の贅沢を表すそうだが、これなんかは「セレブの世界にプチなんてあるものか!」とツッ込みたくなってしまう。
言わせてもらえば、その感覚は「今日はお父さんの給料日だから、いつもの豚や鶏ではなくて牛肉よ。」と言っていた時代の話と「どこが違うの?」と思え、とても「セレブ」と冠する話題ではないように感じる。
■バブルで失ったもの■
「近頃の、若者の多くは金を使わない。」と、このブログでも書いたことがあるが、ややもするとそれは批判的な内容であった。
しかし、こと「北の国から」に込められたメッセージの中にある、「つつましく生きる」ということや「身の丈にあった生き方」という点では「我々世代よりも優れているのでは?」とさえ思え、見習うべき点も多いと思うことがある。
ただし、だからと言って、大きな世界を知ることもなく、「こぢんまり」と小さくまとまっていては時代を生き抜く力や知恵は沸いてはこないと思うが、ここまで不景気が続き、新卒者の就職さえままならない状況下では、それは難しいことなのかも知れない。それに、そんな時代を作った責任の一端がある世代が言うべき言葉ではないのかも知れないと、ボクは、近頃では気弱になりつつある。
元来我々日本人は、例えば山にそびえる岩塊を見たり、川の淵を見たりするだけで、それを「恐れ多い物」として神格化し、あがめ奉る民族だった。だから、自然は「破壊し、克服するもの」ではなく、これまた「北の国から」に込められたメッセージのとおり、「頂戴し、利用するもの」だったはずである。そしてそこで培ってきた知恵や技術が日本的な細かな心遣いとなり、それが工業製品等に反映された結果がバブル以前の、経済発展の基礎になっていたのだと思う。
だからこそ「拝金主義に走った際に忘れたものを、もう一度思い返すこと」これが今の日本に必要なことの一つではないか?と思えてならない。しかし、悲しいことにボクなんかが唱えたってどうにもならないし、説得力は全くないのだが…。
■子供に伝えるには■
何せ「北の国から」はTVの連続シリーズだけでも24話=18時間もあり、家に全て揃っているスペシャル編を含む全巻を見るには相当時間がかかるのだが、今は家族3人で見て(見直して)いる真っ最中だ。
ボクがこのドラマを見るのは、これで4回目になるのだろうか?。しかし、子を持つ立場になった今になって見直すと、イメージが変わっていたりするのがオモシロく、新たな発見も多い。また、感動はいつまで経っても薄れはしない。それだけ、このドラマがリアリズムに則したモノであり、込められたメッセージには深い意味があるということなのだろう。
かく言うボクには黒板五郎や倉本聰氏が最近まで指導していた富良野塾の生徒のように自給自足に近い生活なんて出来ないが、幸いにもボクの好きなアウトドア関連の遊び、とりわけ釣りは、自然からの恵みを享受しつつも利用し、ある一面では闘う遊びだ。そんな遊びを通じて、黒板五郎の遺言の一部だけでも子供に伝えてやりたいとは思うのだが…。現実には彼にとっての興味は別のところにあって、目下のところ厳しいようだ。
●黒板五郎の遺言=倉本聰氏からのメッセージ●
「北の国から」というドラマ&スペシャル・ドラマがオン・タイムで放映されていた頃、ボクが「若者」と言われた時代は、正にバブル景気の絶頂期とその前後にあたる。振り返るとそれは、多くの人達が欲望に駆られて動く時代だった。
その頃は、多くの人々が土地や株の投機に奔走し、ゴルフは「男のたしなみ」とまで言われて会員権が数千万円もするゴルフ場には人々が溢れていた。
象徴的な話として、本来は高額な乗用車であるはずのBMWの3シリーズが六本木のカローラと呼ばれ、「大学生を含む若年層の多くが乗り回している。」といった話があったほどだ。
しかし、考えてみると生産性の無い、あるいは低い若年期に、そんなことが出来たのは一部の例外を除けば親等からの資金援助があってのこと。そんな身分で大量消費=浪費?を行い、贅沢の味を覚えてしまうことが、その後の人生に好影響を与えるとは到底思えない。そんな状態がマトモな訳があるまい。
元よりボクは群れることが嫌いな「右向け右」ならぬ「右向け左」のひねくれ者なので、世間の流れに小さな抵抗を示して自身ではある程度距離を置いていたつもりだったが、それでも何だかんだで小躍りはしていた。だから、その後に起こるバブルの崩壊と、それに続く現代までに至る苦しい時代、そして何よりもその間に消えた、本来であれば次世代に受け継ぐべき有形無形の財産の消失を思えば、猛省しなくてはならない立場にあるのは確かだ。
そんな、バブル期を含んだ流れの中であって、黒板五郎というドラマの主人公を通して常に警鐘とメッセージを送り続けていたのが、脚本家の倉本聰氏であった。
●富良野近郊は「豊穣の季節」を迎えていた●
■拝金主義■
バブル期を懐かしみ、「あの時代をもう一度」とばかりに、その時代に夜な夜な踊り狂っていた女史を再び登場させるというTV番組なんかを見掛けたこともあるが、それはトンでもないことだ。本当に振り返るのも恥ずかしいバカな時代なのだ。
悲しいことにバブル期に大増殖した拝金主義者は崩壊以降も生き残り、時折メディアが煽る「勝ち組、負け組」などのキーワードと共に顔を出し、お金や所有物の多寡で価値を判断するような時代の後遺症は続いている。そして、その後継者までもが確実に育っている。
昨秋に世間を騒がせた結婚詐欺事件は、「高額なブランド品と豪華な食事」欲しさに犯行を重ねたものであるが、この事件は今も続く拝金主義の象徴のように思える。
ビンボー人のヒガミと言われればそれまでだし、自分の金をどう使おうが勝手である。更には「人の趣味趣向は千差万別」それは理解しているつもりであっても、こういった流れの中にある、「本人の努力や工夫、そして能力が反映されない、お金さえあれば誰にでも手に入る物」を欲しがり、それを持つことで見栄を張る体質は、ボクの理解が及ぶところではないし、それ欲しさに自身の労働の対価でもない金を使うのであれば、尚更の話だ。
■「セレブ」■
近年において、メディアが使う言葉の中に「セレブ」という言葉がある。本来の語源である「セレブリティー」は有名人、著名人、名士といった意味合いで、肯定的にも否定的にも使える言葉であるらしいが、現代日本では、「その人の素養は関係なしに、単に金持ちであるとかブランド品を身につける」ということを表す言葉になっているようだから、拝金主義的な臭いがする言葉の一つだとボクは捉えている。そして、今ではそれを絡めた造語の数も増えているようだ。
先日、「たかじんのそこまで言って委員会」というTV番組の中で、あるコメンテーターが、
「バブル期を忘れられない主婦が、借金をしてまでブランド品を買い求め、それが消費者金融利用者の一角を占め、返済できずにいる者も多い。」という、話をしていた。この話には、無理な借金で買う「『セレブ御用達のブランド』って、一体何なの?」と思ってしまう。
よくよく振り返ってみると、このように背伸びをしてまで「ワンランク上」の社会に首を突っ込もうとする風潮は、今に始まったことではない。それは昔からあって、ボクなんぞは「日本が文明国家であることを欧米各国に示そう」とばかり、社交界よろしく、海外からの客人を招いて舞踏会を何度も開いた「鹿鳴館」をついつい思い浮かべてしまう。
鹿鳴館に集う当時の日本人高官や、その妻達はマナーやエチケットなどを知るハズもなく、食事、着こなし、ダンスなどは、様にならず、逆に招いた客人達に「日本人は滑稽」と嘲笑されていたのだ。治外法権撤廃という裏事情があったにせよ「身の丈に合わない」であるとか、「板につかない」という言葉はそんなことを表すためにあるのだと思う。
中には「プチ・セレブ」という言葉までがあり、ささやかな一品の贅沢を表すそうだが、これなんかは「セレブの世界にプチなんてあるものか!」とツッ込みたくなってしまう。
言わせてもらえば、その感覚は「今日はお父さんの給料日だから、いつもの豚や鶏ではなくて牛肉よ。」と言っていた時代の話と「どこが違うの?」と思え、とても「セレブ」と冠する話題ではないように感じる。
■バブルで失ったもの■
「近頃の、若者の多くは金を使わない。」と、このブログでも書いたことがあるが、ややもするとそれは批判的な内容であった。
しかし、こと「北の国から」に込められたメッセージの中にある、「つつましく生きる」ということや「身の丈にあった生き方」という点では「我々世代よりも優れているのでは?」とさえ思え、見習うべき点も多いと思うことがある。
ただし、だからと言って、大きな世界を知ることもなく、「こぢんまり」と小さくまとまっていては時代を生き抜く力や知恵は沸いてはこないと思うが、ここまで不景気が続き、新卒者の就職さえままならない状況下では、それは難しいことなのかも知れない。それに、そんな時代を作った責任の一端がある世代が言うべき言葉ではないのかも知れないと、ボクは、近頃では気弱になりつつある。
元来我々日本人は、例えば山にそびえる岩塊を見たり、川の淵を見たりするだけで、それを「恐れ多い物」として神格化し、あがめ奉る民族だった。だから、自然は「破壊し、克服するもの」ではなく、これまた「北の国から」に込められたメッセージのとおり、「頂戴し、利用するもの」だったはずである。そしてそこで培ってきた知恵や技術が日本的な細かな心遣いとなり、それが工業製品等に反映された結果がバブル以前の、経済発展の基礎になっていたのだと思う。
だからこそ「拝金主義に走った際に忘れたものを、もう一度思い返すこと」これが今の日本に必要なことの一つではないか?と思えてならない。しかし、悲しいことにボクなんかが唱えたってどうにもならないし、説得力は全くないのだが…。
■子供に伝えるには■
何せ「北の国から」はTVの連続シリーズだけでも24話=18時間もあり、家に全て揃っているスペシャル編を含む全巻を見るには相当時間がかかるのだが、今は家族3人で見て(見直して)いる真っ最中だ。
ボクがこのドラマを見るのは、これで4回目になるのだろうか?。しかし、子を持つ立場になった今になって見直すと、イメージが変わっていたりするのがオモシロく、新たな発見も多い。また、感動はいつまで経っても薄れはしない。それだけ、このドラマがリアリズムに則したモノであり、込められたメッセージには深い意味があるということなのだろう。
かく言うボクには黒板五郎や倉本聰氏が最近まで指導していた富良野塾の生徒のように自給自足に近い生活なんて出来ないが、幸いにもボクの好きなアウトドア関連の遊び、とりわけ釣りは、自然からの恵みを享受しつつも利用し、ある一面では闘う遊びだ。そんな遊びを通じて、黒板五郎の遺言の一部だけでも子供に伝えてやりたいとは思うのだが…。現実には彼にとっての興味は別のところにあって、目下のところ厳しいようだ。
●黒板五郎の遺言=倉本聰氏からのメッセージ●