中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

言い尽くされた言葉

2011-04-09 09:12:30 | その他
 「歴史は繰り返す」という言葉は、もう聞き飽きるくらい使われ続けている。
 人間には、キズの痛みや病気の苦しみ、はたまた精神的なことに至るまで本来は忘れるように出来ているそうだ。それは、前向きに生きなければならない人間にとって不可欠な機能だが、反面、忘れてはいけないことも沢山ある。近代史の中を覗いてみると…。


■太平洋戦争(大東亜戦争)の基本戦略■

 歴史書の数々を手がけている半藤一利さんは著書の中で、旧軍にあった官僚体質の一つとして「起こって困ることは、起こらないことにする。」という思想をよく指摘している。
 例えば太平洋戦争(大東亜戦争)自体が、「対アメリカ戦争は避けられないから最初の何年かは善戦して、アメリカ軍の反撃が始まる前にアジアの資源地帯を押さえ、守りを固めて『不敗の体勢』をとり、その後は有利な条件で講和する」という基本戦略であったのだが、「もし、アメリカ軍の攻勢時期が早まり、講和せずに更に攻め込んでくればどうするのか?」ということについては、具体的な策を考えないままに戦争へと突入していたというのだ。
 実際に本格的なアメリカ軍の反撃が予想以上に早く始まると、兵力を小出しにしては各個に撃破されるということを繰り返して消耗していった。「このままではじり貧になる」として、米軍を押し返すために本腰をあげて大兵力をつぎ込もうとしたときには既に熟練パイロットや精鋭部隊の数が減って、思うように事が運ばなくなっていたのだ。
 そういった目論見の甘さから破綻が始まり、その結果は日本人の死者だけでも300万人以上という犠牲者を産み出した。そして、最終的には国家の破滅という結末が待ち構えていたのだ。


■太平洋戦争(大東亜戦争)の作戦■

 戦時中の個々の作戦の中でも代表的な失敗策と言われる「インパール作戦」を振り返ってみると…。
 この作戦は、日本軍の根拠地のあるビルマ(現ミャンマー)から200km以上も離れたインド国内にある連合軍=イギリス軍の拠点地のインパールを、30~60kgもの装備を背負った兵士達とそれ以上の重量物を背負った牛馬が、途中でいくつもの標高2000m以上の山々を超えつつ、徒歩で移動した後に攻撃するという作戦だった。
 当然ながら、立案当初から移動の困難さと補給の不備を指摘され、現場の指揮官の一部から強く反対されていたものを、現地本部の司令官の「付近のビルマ人からの徴収に加えて移動に使う牛馬を潰して食えばよい」という判断と、その司令官に旧来から同調的(友人とも)であった直属の上官であるビルマ方面軍の司令官の裁可で無理矢理遂行することになったのだ。
 敵の拠点を叩くという着眼点に対する評価は高かったという説もあるし、現場指揮官と兵士達とが奮闘して作戦初期段階にはイギリス軍をピンチに陥れた場面もあったが、最終的には参加将兵約8万6千人のうち戦死者3万2千人余り(その大半が餓死者)、戦傷者、戦病者(栄養失調者とマラリアや赤痢等の患者)は4万人以上という犠牲を出して失敗した。
 主な敗因は当初の指摘通りの無理な行軍と、元々から補給物資の絶対量が足りないうえに移動中の渡河で牛馬の半数以上が流されてしまったことによる餓えと、最終的には投石による対抗しか出来ない状態までに陥った弾薬類の補給の不備だったそうだ。(対したイギリス軍は豊富な物資を空輸し続けてもらっていた。)
 情けないことに立案した司令官は着の身着のまま状態でビルマ国内に撤退してきた数少ない将兵を「おまえらが弱いからだ」とばかりに罵倒した挙げ句、撤退する日本軍を追って攻め込んできた連合軍の砲声が司令部の近くで聞こえ始めた途端に自らが我先に前線から消え去ったという。
 にも関わらず、その司令官とその上官はこの作戦の失敗について大した責任を問われなかったのだが、それは作戦を許可した更に上層部の責任が問われることになることを避けるためだったそうだ。
 この様にずさんな計画の下、無謀とも言える積極果敢に推進する側の勢いに押されて後方のフォロー無しに突き進んだ作戦は数多くあり、その結果、戦地では弾薬、食料等の不足が原因でマトモに戦わずして戦傷病死や餓死した兵士は数知れないのだ。


■疚しき沈黙■

 旧海軍はその国力の差から対米戦争には反対する勢力もあったし、戦中に遂行した勝ち目のない作戦にも反対する意見があったのに「その声がなぜ大きくならなかったのか?」に対する答えが「海軍反省会」と言われる旧将官達が戦後に集まった会議の中での録音にその肉声が残っている。

 「心の中では解っていながら口には出せず、組織の空気に個人が飲み込まれていく。」「これを疚しき(やましき)沈黙と呼んでいました…。」

……………。



■福島原発の今■

 今、「起こっては困ること」が福島の原発で実際に起こっている。
 そしてそこでの出来事を上述した66年も前の戦中での出来事に当てはめてみると、多くの部分で合致してしまうことにボクは我々日本人の「進歩のなさ」を感じて落胆してしまうのだ。
 また、付け加えるのなら、被害を小さく見積もった事後報告を小出しに発表し続けている姿は、まるで大本営発表的に思えてしまうのだが…。



■203高地での児玉源太郎■

 しかしながら、それよりも更に遡った明治時代に目をやると、昭和から平成にかけてとは違ってリーダーシップをとることの出来る人物が多く存在し、実際にその人達の知恵と行動が窮地からの脱出に繋がった例が多いことに気付かされるので、希望が生まれてくる。その代表者として日露戦争時の児玉源太郎を挙げておきたい。

 日露戦争に関する本は歴史書から小説まで様々なモノが発刊されているが、その中でもっとも代表的なモノが司馬遼太郎著「坂の上の雲」だということは多くの人との意見が一致するところだと思う。勿論この作品は「小説」として書かれているし、書かれた時代がやや古いことから最新資料を基にして書かれている現代のモノとは違う解釈があって「史実とは違う」と指摘されることがある。それを踏まえたうえで引用すると…。

 日露戦争の代表的な戦いの一つである、旅順要塞の攻略戦。その中でも港内に籠もるロシアの艦隊を砲撃するための観測地点である203高地の攻防での際、指揮官である乃木希典と参謀長の伊地知幸介のコンビは、防御を固め機関銃を据えた陣地に向けて小銃で突撃を繰り返すという戦法(当初はそれ以外の方法がなかったという説が今では有力)でいたずらに死傷者を出し続け、膠着状態が続いていた。
 それに業を煮やした大本営が、総参謀長の児玉源太郎を派遣するのだが、現地に到着した際にまず児玉が指令部内で確認したことは、部内の人間が203高地に張り付いている百余人の兵士の姿を人づてではなく「自身の目で確認したのか?」ということだった。そして誰も居ないということを知った児玉は参謀クラスの3人を弾が飛び交う中に派遣して実情をその目で確かめさせるとともに、司令部自体を兵が実際に戦っている激戦地近くへと移動させる命令を下す。
 また、作戦会議の際に記入された地図に間違いを見付けた途端に、その地図を作成した参謀の「陸軍大学卒業生にのみ与えられる名誉の記章」をはぎ取り、「国家は貴官を大学校に学ばせたが、貴官の栄達のために学ばせたのではない。」と叱責した。
 児玉が到着して以降も203高地はロシア軍と何度も争奪を繰り返していたが、ついに児玉は、それまで「残った味方を撃ってしまう」という理由等から使用を制限していた28cm砲の203高地への集中使用を決意する。しかし命令を受けた砲の専門家達に「移動には2ヶ月はかかる」と言われてしまう。そこを「万人単位で移動させろ!」と大喝して督励した結果、たった一日での移動を成功させるのだが、その集中使用を始めてから僅か半日で203高地の攻略を終えたそうだ。


 国家的危機が訪れた場合には強烈なリーダーシップをとれる人物の牽引が必要だと思うが、残念ながら現在の日本に適任者が居るようには思えない。しかし、なぜ明治時代には児玉源太郎や、それ以外の偉人達のようなリーダーシップをとれる人物達が居たのだろうか?。それは児玉源太郎達を産んだ明治には市民の中に沢山のミニ児玉源太郎が居たからだと思う。
 ボクを含む我々現代日本人は戦後の高度成長期を経て「経済は一流、政治は二流(あるいは三流)」と言った風潮の中、自らの豊かさのみを追い求めていたように思う。そして、たとえ選挙があっても「行っても変わらない」とばかりに、ろくに投票すらしてこなかった。(勿論、最近では少しマシになっているが…。)しかしそれは熟慮したうえでの「行っても変わらない」ではなく「何にも考えていなかった」ことに対する言い訳だったように思う。どうやらそのツケが回ってきているようだ。
 最近見たyoutubeの中では「我々国民の政治に対する意識が三流だから政治が三流なのだ。」と、とある評論家が言っていたが、正しくその通りだと思う。
 今後更に続くであろう、未曾有の危機を乗り越えるには我々市民側に本腰を入れた意識改革が必要になってくるだろう。かく言うボクも子供達の未来のためにその決意の下に生きてゆくつもりだ。
コメント
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