都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
今、日本相撲協会は、八百長問題で大騒ぎになっています。今日は「八百長」の語源について考えてみましょう。
八百長は、明治時代初期の八百屋の店主「長兵衛(ちょうべい)」に由来するといわれています。
八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」といい、大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫と囲碁仲間であったそうです。囲碁の実力は長兵衛が勝っていたが、八百屋の商品を買ってもらう商売上の打算から、わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫のご機嫌をとっていたのです。伊勢ノ海五太夫は、今でいう相撲協会の偉いさんだったそうです。
しかし、その後、回向院近くの碁会所開きの来賓として招かれていた本因坊秀元と八百屋の長兵衛が互角の勝負をしたため、周囲に長兵衛の本当の実力が知れわたってしまいました。
以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを八百長と呼ぶようになったのです。
ですから、最初は囲碁の勝負であり、たまたま、相手が大相撲の年寄・伊勢ノ海五太夫であったために相撲の勝負に用いられるようになったのです。
尚、そのころ八百屋は、あらゆる精進の調菜、乾物、海藻、木の実、草根などを扱っていました。野菜だけを売買していたわけではありません。
やお‐ちょう【八百長】ヤホチヤウ
(明治初年、通称八百長という八百屋が、相撲の年寄某との碁の手合せで、常に1勝1敗になるようにあしらっていたことに起るという)
相撲や各種の競技などで、一方が前もって負ける約束をしておいて、うわべだけの勝負を争うこと。なれあい勝負。「―試合」
転じて、内々示しあわせておいて、なれあいで事を運ぶこと。「質疑応答で―をする」
広辞苑
大相撲では「注射」という隠語まであるといわれています。真剣勝負は「ガチンコ」というそうです。
大阪と相撲の関わりは深い。力士や相撲部屋を個人的に応援する「好角家」のことを「タニマチ」というのも、かつて大阪・谷町に住む相撲好きの外科医・萩谷義則(1847-1902)が力士を無償で診察したことが語源と言われています。
たに‐まち【谷町】
大相撲で、力士のひいき筋・後援者のこと。明治の末ごろ、大阪谷町筋4丁目の相撲好きの外科医が相撲取りからは治療代を取らなかったところからいう。
大辞泉
こうかく‐か【好角家】
角力(すもう)の好きな人。
大辞泉
それにしても、相撲とは純然たるスポーツなのでしょうか・・・。私は大相撲が純然たるスポーツだとは思いません。徒弟制度のような力士の育て方、髷を結うこと、土俵入り、弓取り式など・・・。形式や型を重んじるところは、歌舞伎のようです。また、「タニマチ」という贔屓(ひいき)の旦那衆の存在は芸能界のようです。これらを考えると、大相撲は「伝統芸能」のように思えてなりません。
プロレスを見て、八百長だという人はいないでしょう。相撲界にも八百長という言葉は存在していないのです。あえて言えば、「無気力相撲」です。
それも含めて、相撲ファンは「相撲興行」を見てきたはずなのです。
誰かがヒステリックに声を上げて、みんながヒステリックになる必要はないと思います。所詮、興行なのですから・・・。
したっけ。