都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
南北朝時代から室町・戦国時代を通して瀬戸内海を制し、中国・東南アジアにまで渡り、倭寇の名をとどろかせた村上水軍(海賊衆)。
村上水軍は、芸予諸島(げいよしょとう)を根城にして、活躍しましたが、そもそも瀬戸内海のほぼ中央に位置する芸予諸島の地理的条件、自然条件が、最強・最大の水軍を生み、育てた要因になっています。
げいよ‐しょとう【芸予諸島】
瀬戸内海中央部の諸島。広島(安芸)・愛媛(伊予)両県にまたがり、大島・大三島(おおみしま)・生口島(いくちじま)因島(いんのしま)などがある。
大辞泉
海峡が狭いことにより、航行する船を管理し易く、関所(関立)を作って航行する船から通行料(帆別銭・荷駄料)や水先案内料を徴収して、組織としての水軍の経営を安定させることができました。徴収を拒んだ船を襲撃することもあったそうです。
この関所(関立)を設置して荷駄料を徴収できたことが、単に収入源としてだけでなく公権力として豪族と対等の立場にあることを世に認めさせた面でも重要です。戦国時代末期に、ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが村上水軍を「海の大名」とまで称しています。
フロイス【Luis Frois】
[1532~1597]ポルトガルのイエズス会宣教師。永禄6年(1563)来日、織田信長の信任を得て畿内・九州で布教にあたった。布教のかたわら、「日本史」を著し、長崎で没した。
大辞泉
瀬戸内の代表する海賊衆、「因島村上」、「来島村上」、「能島村上」の村上三家と「今岡」、「忽那」、「得居」の六家 を総称して「伊予水軍」または「河野水軍」と呼ばれました。室町時代の伊予水軍は、海上警固や運輸を日常的に行い、多くの武将たちの警護を行いました。そのため、時の将軍・足利義持は、海上警固に対する感謝状を村上水軍に与えています。
むらかみ‐すいぐん【村上水軍】
中世、瀬戸内海で活躍した海賊衆。能島・因島などを根拠地とした村上氏一族を中心に、室町幕府や有力守護大名などから海上警固を命じられたりして勢威をふるった。
大辞泉
この時代、日本の海賊は、倭寇と呼ばれていました。朝鮮から中国沿岸、南洋諸島において、貿易と強奪を行っていたようです。15世紀はじめに日本を訪れた朝鮮通信使の朴瑞生は、倭寇の基地の半分は北九州にあり、残りの半分は下関より東の瀬戸内海沿岸や島々にあると記しています。
朝日日本歴史人物事典 朴瑞生の用語解説 - 朝鮮王朝初期の官人。日本語読みは「ぼく・ ずいせい」。字は汝祥,号は栗亭。太宗7(1407)年科挙に合格。正長1(1428)年通信正使 として日本に派遣され,翌年京都で室町幕府将軍足利義教に謁見して帰国した。
倭寇は、高麗王朝滅亡の原因ともされ、明ではその阻止に、100万人もの官兵を配置したこともありました。ただし、当時倭寇のうち、7割は中国人だったといいます。これらの明国海賊は、倭寇の手引きをし、平戸に基地を設けていた人物も、中にはいたようです。
15世紀の終わりに、河野通直が朝鮮国王成宗に献上物と使いを送り、通商を要求しています。この願いが受け入れられない場合は、朝鮮侵攻を行うと脅しをかけているそうです。
水軍城や砦の辺りを発掘すると、明銭や宋銭が出てくることもあることから、大陸との交易が行われていたことは確実です。また、強奪行為が行われていた可能性を否定することはできません。
倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれる。
ウィキペディア
倭寇と村上水軍は別だとする説もあります。
したっけ。