都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
聖書の中にはキリストの産まれた日を特定する記述はありません。
実際、キリストの誕生日は4月14日や夏だったとする説があります。聖書の記述に「羊飼いが寝ずの番をしていた」とあり、この地方の冬の寒さや雨の多さでは12月は不可能ではないか、というわけです。
では、何故キリストの誕生日を12月25日に定めたのでしょう。
実は、12~1月のこの時期は元々、中東や西欧において様々な祭りが行なわれている時期でもありました。何故なら、12月21日~25日頃は冬至であって、天の神「太陽」の力が最大に衰える時であり、かつ、これから復活する時でもあったからです。
人々は衰える太陽を元気付けようとし、また、甦る太陽を喜び、祝い、新しく訪れる年の更なる豊穣を願いました。
現代の通説では、紀元325年、小アジアのニカエア(ニカイアで)開かれた公会議で、この日を救世主キリストの誕生日と「定めた」と言われています。
小アジアのニカエアNicaea(現、トルコ領イズニク)で開かれた2回のキリスト教公会議。第1ニカエア公会議は、第1回公会議にあたり,325年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって召集され、各地の主教318名(伝承による。実際には250名以下)が参加した。この会議はキリスト教公認後最初の全体的集会であり、キリスト教の勝利を祝う祝典の趣もあったが、本来の目的は教義問題、すなわちアリウスが提起した父なる神と子なるキリストの関係をめぐる論争の解決にあった。
それまでは12/25(冬至)、1/6(冬至・旧暦)、3/21(春分)のいずれかでした。また、3世紀頃は5月だったそうです。
そして、354年からは「ローマ教会」がニケア公会議の決定に従い、379年には「ギリシャ教会」が従いました。そして現代に至ります。
つまり、300年以上経ってから勝手に決められた誕生日なのです。本当のことはわからないのです。
したっけ。