都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
本日2回目の更新です。
夏になると、お豆腐が美味しくなります。「冷奴」、さっぱりしていていいですね。何故、豆腐が「奴」なのでしょう。
食材を大きく四角に切ることを「奴に切る」といい、これが冷奴の語源です。
では何故、四角に切ることを「奴に切る」といったのでしょう。それは、江戸時代の大名行列でおなじみの槍持ち奴の着ていた衣装の紋所に由来するのです。
面白いことに槍持ち奴の紋はみんな釘抜きという方形の紋で同じだったそうです。
釘抜き紋:釘抜きは、勿論打込んだ釘を抜く為の工具ですが、現在のバールや釘抜きを考えると家紋としての原型は理解しにくいでしょう。昔の物は菱形の形をした座金とテコの二つからなり、この座金の穴にテコを入れて釘を抜いたのです。従って家紋の釘抜きは座金そのものを単純に図案化したものなのです。
したっけ。
サツキ(皐) ツツジ科 ツツジ属
学名:Rhododendron indicum
花期:春 5月中旬~6月中旬
原産地:日本
花の色:白、赤、ピンク、紫、緑、複色
樹高:50cm~1.5m
旧暦の皐月(5月)に咲くことから命名されました。「皐月躑躅(さつきつつじ)」を省略したものです。
杜鵑花(ほととぎす)が鳴く頃に咲く花であることから、「杜鵑花」とも書きます。
江戸時代から人気があって園芸化がすすみ、現在、1500種ほどもあるそうです。
他の大紫躑躅などの躑躅とよく似ていますが開花が5月中旬以降、と遅いので区別できます。躑躅が咲き終わった頃から咲き始めます。花の形は久留米躑躅によく似ています。
今年は、どの躑躅も花の付きが悪いようです。
したっけ。
今欧州各国では新型大腸菌O104の脅威にさらされています。新型大腸菌が出現する背景には清潔すぎる環境があるのだそうです。彼らは生き延びるために、更なる凶暴さを増しているのだそうです。
病原菌はいつ何処で私たちに襲い掛かるかわからないのです。
メリー・マロンは1900年代初頭にニューヨーク市周辺で散発した腸チフス(Typhoid fever)のうち7回は彼女が発生源だったそうです。そのため、彼女は1907年にNorth Brother Islandの病院に一旦拘留されましたが、1910年、食品を扱う職業にはつかないこと、定期的にその居住地を明らかにすること、という2つの条件つきで、隔離病棟から出ることを許され、再び自由を得ました。
「釈放」されてしばらくの間、メアリーは衛生局との取り決めを守って、洗濯婦など食品を扱わない家事使用人としての職に付き所在を定期的に連絡していたが、やがて連絡が途絶えて消息がつかめなくなりました。
次に彼女の居場所が明らかになったのは、釈放から5年後の1915年、再び腸チフス流行の感染源として見つかったときだったのです。
そのとき彼女は調理人として、しかもニューヨークの産婦人科病院で、偽名を使って働いていたそうです。そこで引き起こした腸チフスで25人の感染者と、2人の死者を出したのです。友人のためにゼリーを作ったのが原因だともいわれています。
この事件をきっかけに、彼女は再びに隔離され、亡くなるまでの23年間もの間、身柄を拘束されたのです。
普段は健常者と何ら変わらないままに隔離された彼女の、その後の人生を知る手掛かりは少ないのですが、病院内で看護師、介護人、研究室の技術補佐員としての仕事をしていたことが記録に残っているそうです。1932年に心臓発作から身体麻痺になり、その6年後の1938年、子供たちの声が聞こえる小児科病棟の近くに移されたベッドで息を引き取ったのです。
メアリーの死後、病理解剖の結果から、彼女の胆嚢に腸チフス菌の感染巣があったことが判明したそうです。
アイルランドからの移民だったメアリー・マローン(Mary Mallon, 1869年9月23日 - 1938年11月11日)は、世界で初めて臨床報告されたチフス菌(Salmonella enterica serovar Typhi)の健康保菌者(発病はしないが病原体に感染している不顕性感染となり感染源となる人)で、「腸チフスのメアリー(Typhoid Mary、タイフォイド・メアリー)」という通称で知られることとなったのです。
彼女は、自分が腸チフスの保菌者であるという自覚を持たなかったために、「邪悪な感染源」、もう一つは「不運な社会的被害者」という、二つの見方がなされたのです。いずれにしても、偏見と言う名のレッテルを貼られた彼女の人生は、苦難に満ちたものであったことは容易に想像できます。
「腸チフスのメアリー(Typhoid Mary)」のエピソードは、公衆衛生の意識を高めるための教材として、今も語られているそうです。
ちょう‐チフス【腸チフス】
水や食物に混入した腸チフス菌によって起こる消化器系感染症。高熱が持続し全身が衰弱するほか腸出血を併発することもある。日本では近年減少したが、輸入感染症としてみられる。感染症予防法の3類感染症の一。
大辞泉
考えてみれば、恐ろしい話です。何の罪もないのに23年間も身柄を拘束され、生涯を終えたのですから・・・。
まだ、解明されていない病気がどこかに潜んでいるかもしれません。次のメアリーは、あなたかも知れないのです。
したっけ。
本日、「キュウリグサ」、「スズラン」に続き三回目の更新です。
刺身は、新鮮な魚の切り身を生で食べるシンプルな料理です。一般的に関東地方では「お刺身」関西地方では「お造り」と言われ、関東地方ではマグロなどの赤身の魚が好まれ、関西地方では鯛などの白身の魚が好まれる傾向があるそうです。
四方を海に囲まれた島国の日本だからこそ、新鮮な魚が手に入りやすく、刺身の文化が発達したと考えられます。
刺身は昔から日本料理の中心的な存在だったそうです。伝統的な割烹(かっぽう)料理の献立は、まず何を刺身にするのかを決め、それに合わせ煮物や焼き物が決められていたそうです。つまり、何を刺身にするかによって献立全体が左右されたのです。
刺身という言葉は、もともと赤身白身問わず様々な種類の魚の切り身を皿に盛り付ける際に、何の魚かがわかるように、その魚のヒレを切り身に刺して出した事に由来するそうです。
次第に本来のヒレを刺す風習がなくなり「刺身」という名前だけが今に残ったというわけです。
また「刺身」の事を「切り身」と言わないのは、武家時代に「切る」という言葉が人を「切る」に繋がるという事で忌み嫌われていた事に由来しているようです。
更に「刺身」という名前も「身を刺す」に通じ縁起が悪いとされ、関西地方では「お造り」と呼ばれるようになりました。
婚礼などの祝いの席でも、「お造り」と呼ばれるようになりました。
もともと、「お造り」は、「つくり身」の「身」が略され、接頭語の「お(御)」がついた言葉で、女性言葉です。
現在では、「造る」という言葉のイメージから、きれいに盛り付けられた「切り身」や、「尾頭付きの切り身」を「お造り」と呼び、「飾り気のない切り身」を「刺身」と呼ぶ傾向にあるようです。
鳥や牛・馬などの新鮮な肉を刺身として食する場合もあります。牛トロなどといい最近人気があるようですが、私は苦手です。
したっけ。
本日「キュウリグサ」に続き二回目の更新です。
スズラン(鈴蘭) スズラン科(ユリ科) スズラン属
学名:Convallaria keiskei
別名:キミカゲソウ(君影草)
花期:春 4月、5月
原産地:日本~東シベリア
山地や高原の草地に生える多年草(耐寒性)です。
スズランは1属1種で、花壇などに栽培されるのはドイツスズラン(独逸鈴蘭)です。
日本や朝鮮半島に自生する本種はその変種です。ドイツスズランは花が葉と同じ高さに咲き、全体にやや大型であるのに対して、日本のスズランは小型で、花が葉より低い位置で咲きます。釣鐘状の白花が10個ほど下向きに咲きます。葉は長楕円形です。
自宅のスズランは日本の野生種です。
したっけ。
キュウリグサ(胡瓜草) ムラサキ科 キュウリグサ属
学名:Trigonotis peduncularis
花期:春
原野に生える。根葉は卵円形で長い柄(え)があり、茎葉は狭卵形。春、茎頂に淡青色の小花をつけます。
3 ㎜くらいの小さな 5 弁の花をつけます。葉を揉むと胡瓜の匂いがするのでこの名前がつきました。
草丈は10~30 ㎝にもなるのですが、春になったばかりのころには地面にはいつくばったような小さい頃からもう花がついています。
自宅前の小川の縁に沢山生えています。
同じムラサキ科のワスレナグサ(勿忘草)と見た目は似ていますが、花の大きさが違うので区別できます。ワスレナグサの花は6~9㎜です。
したっけ。
すっかり日が昇っている時間が長くなり、夏らしさを感じるようになりました。夏は気圧配置や大気中の塵などが影響して、朝日や夕陽の色を鮮やかにします。
スッキリとした光で目覚めさせてくれる朝日と、一日の終わりを告げてくれる夕陽、みなさんはどちらがお好きですか?
爽やかに、朝日といいたいところだが、残念ながら朝日なんて拝んだことがほとんどない。寝坊なんだよ。
それに比べて、病気でない限り、夕陽の時間はおきていることが多い。したがって、夕陽を見る機会は多い。
沈む夕陽に涙して、「バカヤローッ!」。青春だね。青春には夕陽が似合う。
誰だ?人生もう黄昏だろう何て言ってるのは・・・。
人生は、黄昏てから味があるってもんだよ。色んな欲もなくなってきて、純粋に生きられるってもんだ。沈む夕陽を眺めて、「ああ、今日も無事に終わった・・・」。静かな心持だよ。若いもんにはわかんないだろうな。
したっけ。
本日三度目の更新です。このところ写真ネタが多いので、ここで季節ネタを一つ紹介します。
「衣替え(ころもがえ)」は平安時代に始まった習慣だといわれています。その当時の宮中では、夏装束(なつしょうぞく)と冬装束(ふゆしょうぞく)が定められていたそうです。
中国の風習に倣って(ならって)1年に2回、4月1日と10月1日(旧暦)に着替えをする事が決められていたようです。この着替えの習慣を、当時は「更衣(こうい)」と呼んだそうです。
平安時代の中頃には、「更衣」は宮中の年中行事の1つとして定着していたそうです。この頃の「更衣」の習慣は、衣服の着替えだけでなく小物類にまで及んでいたといわれます。どんな小物を入れ替えたのでしょう。
当時の貴婦人であった女房(にょうぼう)が手に持つ扇についても、冬は桧扇(ひおうぎ)と呼ばれる檜(ひのき)でできた扇、夏は蝙蝠(かわほり)と呼ばれる紙と竹でできた扇を持つ事が、定められていたそうです。
鎌倉時代になるとこの風潮が更に加速し、遂には衣服だけでなく家具や調度品まで取り替えるようになって行ったそうです。
江戸時代には武家の制服として、表のように、年に4回もの「更衣」が細かく定められていました。
4月1日から5月4日まで |
袷 (あわせ) |
裏地の付いた着物 |
5月5日から8月末まで |
帷子 (かたびら) |
麻で仕立てた裏地の付いていない薄手の着物 |
9月1日から9月8日まで |
袷 (あわせ) |
裏地の付いた着物 |
9月9日から3月末日まで |
綿入れ (わたいれ) |
表布と裏布の間に綿を入れた着物 |
武家の服装が細かく定められていた事によって、この時代の一般庶民もこれに従うようになりました。
しかし、「更衣(こうい)」という呼び方が、天皇の着替えの役目を持つ女官の職名と同じだった事から、民間ではこうした着替えの習慣を「更衣(こうい)」と言わず、「衣替え(ころもがえ)」と呼ぶようになったそうです。
明治に入ると、官公庁や銀行などで働く人達(今で言うと国家公務員に当たる人達)の制服に夏服と冬服が定められました。そして、太陽暦が採用されるようになった後も、旧暦に合わせて、6月1日と10月1日に衣替えをするようになりました。
やがてこれが学生服に及び、更に一般の人達にも定着して行った、と考えられています。
現在では、「衣替え」の風習は以前ほど厳密なものではなくなっていますが、制服を着用する学校や銀行などの企業では、今もこの日に「衣替え」が行われているところが多いようです。
今年は、電力不足の懸念から、ノーネクタイどころか、アロハシャツや半ズボンといった、東南アジア並みのクールビズが実施されています。
また、和服を着る人達の間では「衣替え」が重要なしきたりとして残っていて、6月から9月までは単衣(ひとえ)と呼ばれる、表布や裏布といった、布地を重ね合わせて作ったものでは無い一枚仕立ての着物を、10月から5月までは袷(あわせ)と呼ばれる裏地の付いた着物を着る、という決まり事があるそうです。
したっけ。