福神漬物語 25
缶詰編
缶詰と福神漬
幕末にアメリカに向かった咸臨丸の荷物には漬物として梅干・沢庵しか積込まれておらず、日本郵船の船舶に明治の当時としては高価な漬物「福神漬」がどんなきっかけで積まれたかなかなか解らなかった。
多くのカレーライスに関する本に福神漬の関する記述がある。その由来を書いてある本を辿ってゆくと昭和9年ころに出版された『明治屋食品事典』から引用しているものが多い。また『明治屋食品事典』から次の本が原典として挙げられている。
大日本洋酒缶詰沿革史 42頁 1915年刊(大正4年)
福神漬は東京・下谷池之端野田清右門(商号酒悦)の創造に係わる。明治19年のころ蔬菜7種を醤油にて加味したる漬物を造り店舗にて販売したり、当時あたかも上野公園内に大日本水産会第一回品評会の開会があり、同会の陶山清猷が試みて、その着想と食味を覚え、同品評会の売店にて販売広告しても良いと許可を与えた。店主も直ちに同意して出品した運びになったが当時はまだ出来たばかりで田中芳男、河原田盛美等の案として七種の材料よりなる漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称に至った。
陶山清猷(すやませいゆう)とは著書に『有用藻譜 第1編』がある。
田中芳男とは1875年、博物館、動物園などをもつ上野公園の設立に尽力した。1881年、大日本農会1882年、大日本水産会の創設に尽し、日本での農学と農林水産業の発展に貢献した。
河原田盛美(かわはらだもりよし)農商務省漁業技師として全国に近代漁業の啓蒙に努める。農業、漁業関係で多くの著作を残す
水産博覽會報告 事務顛末ノ部 ― 抜 粋 ―
( 明治十六年九月二十九日出版届、 農商務省農務局藏版、 国立国会図書館蔵 )
三月三日 太政官より 水産博覧会規則 地方官心得書 並 売店店規則の布達あり」但 品物販売店は之なくして 塲内に食堂茶店を許すも 5軒のみ 農商務より 本会適当の者を選び 事務を担任せしめ 其人名を農務局ヘ通報すべき旨を府県に通達す
第一回水産博覧会
明治16年3月1日より明治16年6月8日まで上野公園にて開催。
明治16年3月27日
明治天皇が水産博覧会に行幸。 3月28日東京日日新聞記事より
明治16年6月10日・11日 時事新報
水産博覧会の来観の人数は22万9236人と報道されている。
この博覧会で水産缶詰が出品されていたと思われる。
明治16年の上野公園で開催された水産博覧会は国内の水産業の振興をはかったものだが福神漬の歴史に多大な影響があったと思われる。
一部の資料には水産博覧会に水産物でなかった福神漬が出品され評判になったというが新聞記事の様子ではそのような感じではないようである。ただ酒悦は香煎茶屋で水産博覧会場内の食事を出す店が5店舗あったようである。そこで福神漬が出されていた気がする。また明治の初めに日本に入った缶詰の技術が徐々に定着して行き水産物に応用していった時期にあたったともいえる。そこで上野にあった酒悦主人は福神漬に缶詰の技術を導入することを考えたのだろう。
缶詰編
缶詰と福神漬
幕末にアメリカに向かった咸臨丸の荷物には漬物として梅干・沢庵しか積込まれておらず、日本郵船の船舶に明治の当時としては高価な漬物「福神漬」がどんなきっかけで積まれたかなかなか解らなかった。
多くのカレーライスに関する本に福神漬の関する記述がある。その由来を書いてある本を辿ってゆくと昭和9年ころに出版された『明治屋食品事典』から引用しているものが多い。また『明治屋食品事典』から次の本が原典として挙げられている。
大日本洋酒缶詰沿革史 42頁 1915年刊(大正4年)
福神漬は東京・下谷池之端野田清右門(商号酒悦)の創造に係わる。明治19年のころ蔬菜7種を醤油にて加味したる漬物を造り店舗にて販売したり、当時あたかも上野公園内に大日本水産会第一回品評会の開会があり、同会の陶山清猷が試みて、その着想と食味を覚え、同品評会の売店にて販売広告しても良いと許可を与えた。店主も直ちに同意して出品した運びになったが当時はまだ出来たばかりで田中芳男、河原田盛美等の案として七種の材料よりなる漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称に至った。
陶山清猷(すやませいゆう)とは著書に『有用藻譜 第1編』がある。
田中芳男とは1875年、博物館、動物園などをもつ上野公園の設立に尽力した。1881年、大日本農会1882年、大日本水産会の創設に尽し、日本での農学と農林水産業の発展に貢献した。
河原田盛美(かわはらだもりよし)農商務省漁業技師として全国に近代漁業の啓蒙に努める。農業、漁業関係で多くの著作を残す
水産博覽會報告 事務顛末ノ部 ― 抜 粋 ―
( 明治十六年九月二十九日出版届、 農商務省農務局藏版、 国立国会図書館蔵 )
三月三日 太政官より 水産博覧会規則 地方官心得書 並 売店店規則の布達あり」但 品物販売店は之なくして 塲内に食堂茶店を許すも 5軒のみ 農商務より 本会適当の者を選び 事務を担任せしめ 其人名を農務局ヘ通報すべき旨を府県に通達す
第一回水産博覧会
明治16年3月1日より明治16年6月8日まで上野公園にて開催。
明治16年3月27日
明治天皇が水産博覧会に行幸。 3月28日東京日日新聞記事より
明治16年6月10日・11日 時事新報
水産博覧会の来観の人数は22万9236人と報道されている。
この博覧会で水産缶詰が出品されていたと思われる。
明治16年の上野公園で開催された水産博覧会は国内の水産業の振興をはかったものだが福神漬の歴史に多大な影響があったと思われる。
一部の資料には水産博覧会に水産物でなかった福神漬が出品され評判になったというが新聞記事の様子ではそのような感じではないようである。ただ酒悦は香煎茶屋で水産博覧会場内の食事を出す店が5店舗あったようである。そこで福神漬が出されていた気がする。また明治の初めに日本に入った缶詰の技術が徐々に定着して行き水産物に応用していった時期にあたったともいえる。そこで上野にあった酒悦主人は福神漬に缶詰の技術を導入することを考えたのだろう。