上野池の端酒悦さんのホームページから
酒悦主人と山岡鉄舟との交友関係があったという言い伝えを酒悦社員から聞いている。しかし根拠となる資料とか文献等は関東大震災とか戦災等で無くなっているという。想像だが山岡から接近したのではなく酒悦主人から山岡に接近したのではないのだろうか。亡くなる直前鉄舟は全生庵から依頼された10万枚以上の膨大な数の書を書いた(受取書がある)。さらに4万以上の扇子に書を揮毫したと言う。
酒悦の店名は上野寛永寺の管主輪王寺宮からいただいたから、明治維新後も心情的には旧幕府方の人達の交流が多かった。その理由として福神漬の命名を頼んだ相手は最後の戯作者とも言われた幕臣の子梅亭金鵞であった。
旧幕臣の明治維新 樋口雄彦著より
東京で旧交会という旧幕臣の親睦会が出来たのは明治17年で会長は山岡鉄舟・榎本武揚が歴任した。明治22年8月江戸時代の懐旧の情から結成された文化団体江戸会などが首唱した東京開市300年祭が開催された。委員長は榎本武揚で委員は前島密・渋沢栄一・益田孝ら旧幕臣の名士が顔をそろえた。明治東京の発展は江戸の遺産の上にあることを堂々と訴える機会となった。
島田三郎『開国始末』で井伊直弼を開国の功労者として評価したのは明治21年、福地桜痴『幕府衰亡論』明治25年など佐幕派史観というものが出てきた時代でもあった。こんな時代だからこそ歌舞伎で上野戦争が上演された意義があるのである。
下谷の人たちにとって彰義隊は徳川家の問題でなく、上野寛永寺輪王寺宮とその周辺の住民との関係となっていて、上野戦争は時間も短く江戸の下町のごく一部の歴史となって忘れ去られた。福神漬の生まれる背景にはこんな事情があった。
山岡鉄舟と彰義隊
上野戦争の前夜、山岡は勝海舟の命で上野にこもる彰義隊に対して説得を図るが失敗した。歌舞伎『皐月晴上野朝風』では長岡悦太郎(左団次)という名で出てくるが読売新聞や朝日新聞の劇評も厳しい評論となっている。天野八郎(菊五郎)と長岡の大議論の場も劇評では時間の無駄で省略したほうがよいとも言われていた。
でも酒悦の伝説の中で交流のあった山岡鉄舟と菊五郎がこの舞台で一緒になった。明治23年ならば、山岡が亡くなってまだ2年しか経っていない(明治21年死去)。
将軍家御典医の娘が語る江戸の面影 安藤優一郎著
明治の御一新後徳川幕府の体制に属していた人達は転職することとなる。明治政府に行く者もあったが多くは転職に失敗して苦難の人生となった。
築地の桂川家に出入りしていた柳河春三、福沢諭吉等の人々がいた。柳川春三は『中外新聞』という日本人による最初の新聞を発行した。『中外新聞』の成功で次々と模倣した新聞が発行された。
明治になって徳川の家臣は静岡に行った人達以外は仕事を変えねばなりませんでした。また静岡に行った人も人数が多く食うにも困る状態だった。しかし沼津兵学校の卒業生などは後に明治政府で活躍しました。
江戸に残った旧幕府の知識人は新政府に入ったり、商売を始めたりしたが、特に浅草周辺に集まった人達は反新政府の人達が多かった。そのような人達が新聞を発行し、左幕的論調で明治新政府(薩長で支配されている)を批判していてしばしば発行禁止となっていった。福神漬の名前を付けた戯作者梅亭金鵞は後に團團珍聞(まんが付き風刺雑誌)の主筆として活躍し政府を風刺していた。
酒悦主人と山岡鉄舟との交友関係があったという言い伝えを酒悦社員から聞いている。しかし根拠となる資料とか文献等は関東大震災とか戦災等で無くなっているという。想像だが山岡から接近したのではなく酒悦主人から山岡に接近したのではないのだろうか。亡くなる直前鉄舟は全生庵から依頼された10万枚以上の膨大な数の書を書いた(受取書がある)。さらに4万以上の扇子に書を揮毫したと言う。
酒悦の店名は上野寛永寺の管主輪王寺宮からいただいたから、明治維新後も心情的には旧幕府方の人達の交流が多かった。その理由として福神漬の命名を頼んだ相手は最後の戯作者とも言われた幕臣の子梅亭金鵞であった。
旧幕臣の明治維新 樋口雄彦著より
東京で旧交会という旧幕臣の親睦会が出来たのは明治17年で会長は山岡鉄舟・榎本武揚が歴任した。明治22年8月江戸時代の懐旧の情から結成された文化団体江戸会などが首唱した東京開市300年祭が開催された。委員長は榎本武揚で委員は前島密・渋沢栄一・益田孝ら旧幕臣の名士が顔をそろえた。明治東京の発展は江戸の遺産の上にあることを堂々と訴える機会となった。
島田三郎『開国始末』で井伊直弼を開国の功労者として評価したのは明治21年、福地桜痴『幕府衰亡論』明治25年など佐幕派史観というものが出てきた時代でもあった。こんな時代だからこそ歌舞伎で上野戦争が上演された意義があるのである。
下谷の人たちにとって彰義隊は徳川家の問題でなく、上野寛永寺輪王寺宮とその周辺の住民との関係となっていて、上野戦争は時間も短く江戸の下町のごく一部の歴史となって忘れ去られた。福神漬の生まれる背景にはこんな事情があった。
山岡鉄舟と彰義隊
上野戦争の前夜、山岡は勝海舟の命で上野にこもる彰義隊に対して説得を図るが失敗した。歌舞伎『皐月晴上野朝風』では長岡悦太郎(左団次)という名で出てくるが読売新聞や朝日新聞の劇評も厳しい評論となっている。天野八郎(菊五郎)と長岡の大議論の場も劇評では時間の無駄で省略したほうがよいとも言われていた。
でも酒悦の伝説の中で交流のあった山岡鉄舟と菊五郎がこの舞台で一緒になった。明治23年ならば、山岡が亡くなってまだ2年しか経っていない(明治21年死去)。
将軍家御典医の娘が語る江戸の面影 安藤優一郎著
明治の御一新後徳川幕府の体制に属していた人達は転職することとなる。明治政府に行く者もあったが多くは転職に失敗して苦難の人生となった。
築地の桂川家に出入りしていた柳河春三、福沢諭吉等の人々がいた。柳川春三は『中外新聞』という日本人による最初の新聞を発行した。『中外新聞』の成功で次々と模倣した新聞が発行された。
明治になって徳川の家臣は静岡に行った人達以外は仕事を変えねばなりませんでした。また静岡に行った人も人数が多く食うにも困る状態だった。しかし沼津兵学校の卒業生などは後に明治政府で活躍しました。
江戸に残った旧幕府の知識人は新政府に入ったり、商売を始めたりしたが、特に浅草周辺に集まった人達は反新政府の人達が多かった。そのような人達が新聞を発行し、左幕的論調で明治新政府(薩長で支配されている)を批判していてしばしば発行禁止となっていった。福神漬の名前を付けた戯作者梅亭金鵞は後に團團珍聞(まんが付き風刺雑誌)の主筆として活躍し政府を風刺していた。