明治23年5月に上演された歌舞伎は演劇の変わり目だった。森鴎外も観劇していたようで『芝居小屋と寄席の近代』倉田喜弘著によると『団十郎の濁っただみ声は聞くに堪えないので耳栓をしたほうがよい。(東京新報23年6月3日)』と鴎外は評論していた、批評の内容はとにかく新富座の『皐月晴上野朝風』を観ていたということになる。
明治23年6月15日読売新聞
昨日の新富座
昨日の同座は日曜と言い、ことに雨天だったため近来になく大繁盛で早速売り切れとなった。また当日成福の演じる上野輪王寺宮(北白川宮)殿下の御兄上である陸軍大将小松宮殿下もご見物あらせられ、また東本願寺の門跡もご見物された。
上野輪王寺宮(北白川宮)殿下の兄上の陸軍大将小松宮殿下は日清戦争末期に北白川宮を朝鮮半島に出陣させている。このことによって戊辰戦争の時、朝敵となったことが消えたと思われる。この時はまだ芝居見物する状況ではなく、兄の小松宮が見物したのだろう。
明治23年6月15日読売新聞
彰義隊の23回忌
昨日は戊辰の年戦死した彰義隊の23回忌あたるので榎本武揚・沢太郎左衛門・田邊太一・榊原健吉の諸氏は円通寺に参詣して大施餓鬼を執行した。(この行事に)尾上菊五郎を初めとして左団次ら歌舞伎俳優および作者竹柴其水並びに守田勘弥の代理も同寺に参詣し、菊五郎は銅製花瓶一対を、左団次は牡丹の造り花一対を奉納し、かつ新富座楽屋・茶屋・出方等より供物米百三十袋と団十郎・菊五郎・左団次を初め俳優一同より金二十五円を奉納したという。
上野彰義隊の墓賑う
苦情のため折角の銅碑を取り除き、一度は無縁の有様になった上野彰義隊の墓はその有志者の尽力によって再建となったが近頃は参詣するものが極めて少なく、たまたま昔を偲んで香花を献花するものがあるに過ぎなかった。今回新富座において当時の戦争を芝居にした以後大いに人々の懐旧の感情を起こしたので参詣人が日々増加し、駒込大乗寺の現住職は墓の周囲に鉄柵を造り、追善供養を営み、ことに彰義隊の人々および旧幕府の人々等は続々同所に参詣して香花を手向けかつ寄付金等をするものが多いという。
明治の当時もイベントがあると関係するところが繁盛するようである。また芝居も国が企画した第三回内国博覧会が上野で開催されている時期に合わせて上演した。
五代目菊五郎と上野池之端の『酒悦』主人との交友があったというが資料がなく、単なる有名人との付き合いがあったということが言い伝えでの残っていたのだろうと思っていた。しかし皐月晴上野朝風の上演報道から上野寛永寺関係者の一人として観劇の一団に加わっていたと思われる。なぜなら酒悦は寛永寺管主から店名をもらっていたのだからである。幕末に池之端周辺で参拝客のための香煎茶屋が3軒あったが全て『酒』 の一時をもらって店名としていた。
上野寛永寺と人々の交流
明治23年6月19日読売新聞
輪王寺の宮 従者の行方
目下その事跡を新富座で上演している。上野戦争の時、東叡山の座主である輪王寺の宮(今の北白川の宮殿下)は弾丸が雨のように降る間を危険を冒して戦地から落ちて行く時、宮とお供した坊主三名にて辛くも南葛飾郡下尾久村まで守護し参らせたが何分人目を引き怪しまれる恐れがあるので三名は大いに悩み村の百姓小原長兵衛なる者に頼み事情を告げ物置の隅を借り受け数日間ここに潜ませた。
それから泰平の世になって輪王寺の宮は北白川の宮と御改称あるなど百事新しくなった。かの尾久村の長兵衛は百姓のゆえ変わりがなく今も丈夫で暮らしているゆえ先頃新富座を見物したほどである。北白川の宮はもとより雲の上の人になってしまったのでこのような時、一時は家のうちに起居していたことを連絡することもなく素知らぬ顔で過ごしていた。一つ不思議なことは長兵衛のセガレに彦次郎と呼ばれる26歳の息子がいるが上野戦争の頃ようやく一人で歩くようなった頃で輪王寺の宮の隠れ家に握り飯などを運んだこともあったという。その後同村の田中某方へ養子となり、田中彦次郎と名前が変って近衛兵として勤めたこともあった。今は廻り廻って北白川宮の門番として勤めていると言うは珍しい奇遇と言う。
この頃から上野戦争の思い出が文献として出てくるようになる。
明治23年6月15日読売新聞
昨日の新富座
昨日の同座は日曜と言い、ことに雨天だったため近来になく大繁盛で早速売り切れとなった。また当日成福の演じる上野輪王寺宮(北白川宮)殿下の御兄上である陸軍大将小松宮殿下もご見物あらせられ、また東本願寺の門跡もご見物された。
上野輪王寺宮(北白川宮)殿下の兄上の陸軍大将小松宮殿下は日清戦争末期に北白川宮を朝鮮半島に出陣させている。このことによって戊辰戦争の時、朝敵となったことが消えたと思われる。この時はまだ芝居見物する状況ではなく、兄の小松宮が見物したのだろう。
明治23年6月15日読売新聞
彰義隊の23回忌
昨日は戊辰の年戦死した彰義隊の23回忌あたるので榎本武揚・沢太郎左衛門・田邊太一・榊原健吉の諸氏は円通寺に参詣して大施餓鬼を執行した。(この行事に)尾上菊五郎を初めとして左団次ら歌舞伎俳優および作者竹柴其水並びに守田勘弥の代理も同寺に参詣し、菊五郎は銅製花瓶一対を、左団次は牡丹の造り花一対を奉納し、かつ新富座楽屋・茶屋・出方等より供物米百三十袋と団十郎・菊五郎・左団次を初め俳優一同より金二十五円を奉納したという。
上野彰義隊の墓賑う
苦情のため折角の銅碑を取り除き、一度は無縁の有様になった上野彰義隊の墓はその有志者の尽力によって再建となったが近頃は参詣するものが極めて少なく、たまたま昔を偲んで香花を献花するものがあるに過ぎなかった。今回新富座において当時の戦争を芝居にした以後大いに人々の懐旧の感情を起こしたので参詣人が日々増加し、駒込大乗寺の現住職は墓の周囲に鉄柵を造り、追善供養を営み、ことに彰義隊の人々および旧幕府の人々等は続々同所に参詣して香花を手向けかつ寄付金等をするものが多いという。
明治の当時もイベントがあると関係するところが繁盛するようである。また芝居も国が企画した第三回内国博覧会が上野で開催されている時期に合わせて上演した。
五代目菊五郎と上野池之端の『酒悦』主人との交友があったというが資料がなく、単なる有名人との付き合いがあったということが言い伝えでの残っていたのだろうと思っていた。しかし皐月晴上野朝風の上演報道から上野寛永寺関係者の一人として観劇の一団に加わっていたと思われる。なぜなら酒悦は寛永寺管主から店名をもらっていたのだからである。幕末に池之端周辺で参拝客のための香煎茶屋が3軒あったが全て『酒』 の一時をもらって店名としていた。
上野寛永寺と人々の交流
明治23年6月19日読売新聞
輪王寺の宮 従者の行方
目下その事跡を新富座で上演している。上野戦争の時、東叡山の座主である輪王寺の宮(今の北白川の宮殿下)は弾丸が雨のように降る間を危険を冒して戦地から落ちて行く時、宮とお供した坊主三名にて辛くも南葛飾郡下尾久村まで守護し参らせたが何分人目を引き怪しまれる恐れがあるので三名は大いに悩み村の百姓小原長兵衛なる者に頼み事情を告げ物置の隅を借り受け数日間ここに潜ませた。
それから泰平の世になって輪王寺の宮は北白川の宮と御改称あるなど百事新しくなった。かの尾久村の長兵衛は百姓のゆえ変わりがなく今も丈夫で暮らしているゆえ先頃新富座を見物したほどである。北白川の宮はもとより雲の上の人になってしまったのでこのような時、一時は家のうちに起居していたことを連絡することもなく素知らぬ顔で過ごしていた。一つ不思議なことは長兵衛のセガレに彦次郎と呼ばれる26歳の息子がいるが上野戦争の頃ようやく一人で歩くようなった頃で輪王寺の宮の隠れ家に握り飯などを運んだこともあったという。その後同村の田中某方へ養子となり、田中彦次郎と名前が変って近衛兵として勤めたこともあった。今は廻り廻って北白川宮の門番として勤めていると言うは珍しい奇遇と言う。
この頃から上野戦争の思い出が文献として出てくるようになる。