年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 26

2009年12月03日 | 福神漬
福神漬物語 26
缶詰編
缶詰時報 ① 創刊は大正11年(1922)
日本缶詰協会はJR有楽町駅前の有楽町電気ビル北館12階にあります。そこに保存してある『缶詰時報』の中に大正時代の福神漬に関する記事は次のように記述されています。
第二巻
福神漬の昔と今
陸軍糧秣廠 丸本彰造
『なた豆はお胡子さんの耳たぶで、茄子は布袋さんのお腹を形どるなどと7種の野菜を集めて七福神、それを福神漬と名付けたもので,その昔江戸時代、上野東叡山寛永寺の坊さんが池之端の酒悦主人に廃物利用の漬物として教え、かくのごとく名付けたものである』と私は密かに伝え聞いておりましたが、今日の研究会で東京毎日新聞の鶯亭金升(永井総太郎)氏によってそれが誤りであることを初めて知りました。
 何でも氏のお話によれば福神漬の名付け親は○○(團團)珍聞(明治10年創刊,40年に廃刊した面白い新聞)の記者,梅亭金鵞先生(江戸時代名高い松亭金水先生の門人)であって先生が小石川指ヶ谷に住んで○○珍聞の編集をしたり、小説を書いたりしていたが、時は明治18年、時節は丁度夏の半ばころ、今から数えてまる38年前の昔、酒悦の主人が、なた豆と紫蘇と大根の三品をば、程よく味付けて缶詰にしたものを持ち来たり、これを売りたい、なんとか名付けを頼みますと開缶した。

梅亭金鵞先生試食一番『これはうまい,食を進める、栄養になる、そして本当に経済だ、これぞ誠に福の神に好かれる漬物で身体は丸々ふとり、お家繁盛万々歳』と福神漬と名付けたもので、なお酒悦主人は梅亭先生に頼んで木版の綺麗な引札を戸毎に配って広告したものであると。
 そしてこのことは鶯亭氏が梅亭先生の門人であって丁度その時試食し引札のすり方も手伝った確かな生き証人で、その時の引札を持ってこなかったのが残念であると鶯亭氏は回想的な眼差しで語られ、また酒悦さんが福神漬缶詰の祖先であることはこうした由来から起こっているが元来酒悦さんは江戸時代から香煎と屠蘇、その他祝儀の熨斗や酒の肴のウニやカラスミのような各国名産品売って居ったもので酒悦というお目出度い名前もそんなことから始まったのであろうと鶯亭氏は付け加えておられたが、福神漬が酒悦から出た、それが姓名判断から言って目出度いことのように思われるのであります。

 この缶詰時報は大正12年の頃で、記事によると酒悦の主人は最初から福神漬を缶詰にしていたことが解る。この当時でも上野東叡山寛永寺の話がでているので了翁禅師の話も知られていたのだろう。廃物利用とは寛永寺勧学講院で寮生に与えられたおかずは野菜クズの漬物であった。


 鶯亭氏は東京毎日新聞の記者であったためこの話はかなり広まっている。引札とは今のチラシ広告のことであって、福神漬を宣伝する必要があったためで、漬物は自給自足の時代では購入させるのは何か目新しいことが必要であったためである。

今日の(大正12年7月)開缶研究の福神漬はすべてで101品,他に参考品数点あったが、その中でチョッと変わった一品があった。それは従来福神漬と海苔の佃煮とを折衷したようなものであって,すなわち瓜が5割,その他は割き干し大根,沢庵、蓮根の順序に少々づつ、これに色彩的に蕗を極めて少量加え、調味液をドロドロの海苔にて仕上げた物である。材料は大切りである。ことに割き干し大根は長さ一寸くらいに切ってある。
 元来福神漬の最初は前記の通り,なた豆と紫蘇と大根の三品であって,畑作品のみであったが、この掘り出し物は畑のもの、田の物、海の物を配して造りあげたものであって,食料資源の趨勢と変化する人の嗜好から考えて,係る物が出来たということは偶然でない,そして従来にとらわれないという点に私は興味を痛くわかしたのであります。

大正12年頃は第一次大戦後の不況で福神漬の生産者が各種の工夫をしていたことが分かる。101品の福神漬の缶詰が品評会に出ていたことから考えると出品してない福神漬もあるのでかなり多くのブランドで出ていたのだろう。
 注意すべきは『敷島漬』『日本橋漬』のブランドで売られていた福神漬で『敷島漬』は今のサンヨー堂(東京都中央区日本橋堀留町1丁目)の製造していた福神漬で、『日本橋漬』は今でも販売されている福神漬の缶詰で、国分㈱(東京都中央区日本橋1-1-1)が製造していた。

それから,福神漬の切り方が日露戦争頃はすべて、細切であったが、近頃は大切の傾向になった。また味が塩味よりもあま味が勝ってきたようだ。そうして当時と比べれば材料が若干劣っているけれど,味は現代向きになって製缶技術は頗る進んできた、ことにラベルは非常に進歩して目を覚ますような如何にも食欲をそそる美術的なものの多いのに感嘆した、そして印刷缶が8割を占めていたも、余程ラベルに重きを福神漬においているように思われたのであります。
 元来缶詰は中身を食するので,中身がよければラベルに意匠を凝らし,費用かけることは無益のようであるけれど、福神漬はそのまま食卓にのせ、ラベルを眺めつつ,賞味することが他の缶詰に比べた場合が多いゆえに特に食味をそそる審美的であることがふさわしいことでこの意味において私は福神漬のラベルということには重きを置きたいと思います。

 すでに販売競争が激しくなっていて、缶の表面に美しいラベルを巻いたのでしょうか。ブランドによって味や品質にかなり差があったと思われます。 
ラカード即ち内面塗料を施した福神漬の缶詰は出品数百個のうち26品ありました。陸軍糧秣廠から参考品として出した明治45年4月製造の福神漬(ラッカードしない)は非常に黒色を呈して居ったが食べられないことはなかった。しかし普通から言えば食用不適という程度であろう。

コメント
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