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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

駿東紀行 2

2009年12月07日 | 福神漬
駿東紀行 2
神山復生病院をでて裾野市鈴木図書館に向う。鈴木図書館は地名とは思えないのでその由来を聞く。裾野市出身の鈴木忠次郎氏の寄付によって作られた図書館ということで図書館中央に銅像がある。
裾野市の中央図書館の役割を果たしている鈴木図書館にて郷土資料室の部屋に入り、鈴木農場、及び不二農園ことをしらべる。しかし地元の人もあまり知らないといわれて困ったがしばらくすると温情舎の本を探し出してくれた。
 『われらが学びや温情舎』という本だった。この本によると不二農園は明治8年静岡に移住した旧幕臣7名松平正修、御殿医者津田実、岡田三、古山欽三、高橋次郎、鈴木芳郎、和田正蔵。
 当時の静岡県初代県知事に払い下げを願い桃園の地を得た。苦労した開拓した土地で茶、杉、松、檜などを植えて生活していたが、明治中頃からの不況で生計を立てることが困難となり、明治32年10月精糖業で成功していた鈴木藤三郎が農場の負債を肩代わりし鈴木農場となった。しかし鈴木が日本醤油醸造のサッカリン混入事件で失敗し、大正3年に亡くなると岩下清周氏の不二農園となった。しかしその後まもなく岩下氏は北浜事件が起こり刑事事件の被告となり、岩下氏はこの農園で生活を送るようになった。この農園で働く人達のために小学校を作り温情舎と名付けた。
 この温情舎小学校の校歌は岩下清周の三井銀行時代の部下であった小林一三が作詞し、作曲は宝塚歌劇団だった。
 郷土資料はやはり地元の図書館に行かねばなかなか解らない事を深く感じた。ここから『成功に死し、失敗に生きた』といわれた岩下家族の道が始まり、今の神山復生病院と不二聖心女子中学校高等学校が始まる。全てはサッカリンという人工甘味料の悪戯かもしれない。
コメント (1)
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