歌舞伎と福神漬
相撲茶屋と芝居茶屋
明治時代の終わりに帝国劇場が出来るまでは歌舞伎等の芝居を見るためには芝居茶屋を通じて観ることになっていた。切符の手配や交通手段の手配等が茶屋の人達の手配で行われていてその様子は今泉みね『なごりの夢』に生き生きと描かれている。芝居見物当日いや前日から準備が行われ朝早くから夕方までの芝居興行につきあうこととなる。この様な仕組みは平成の今でも相撲見物に残っていて本場所のチケットの手配は相撲茶屋を通して行われる。本場所の時間は午前9時から夕方6時まで行われていて江戸時代とほぼ同じような気がする。江戸時代は仕切りの時間制限がなかったので取組みが今より少なかったかもしれない。
江戸末期に浅草での芝居興行は午前6時頃から午後5時頃までの興行でしたから、芝居見物は一日がかりでした。見物客は芝居茶屋を通して入る上客と木戸から入る一般客があって、上客は桟敷で食事は芝居茶屋で取ります。一般客は土間で『かべす』(菓子・弁当・寿司のこと)の客と言って軽蔑していました。相撲茶屋は制度的には芝居茶屋の同様な江戸時代の興行維持の仕組みかもしれません。相撲の良い桟敷席は相撲茶屋に独占されていて一般客には良い席が少ないと言われています。
明治23年新富座で上野の戦争を題材として『皐月晴上野朝風』が上演された。上野戦争で亡くなった人達の23回忌とかで明治も落ち着いて明治政府も武士の時代に逆戻りしない自信が付いていたのか上野戦争(彰義隊)物が上演できた。まだ戦争の関係者も生きていてかなり前評判がよく、江戸と呼ばれた時から東京に住んでいた人々には涙を誘ったようである。
芝居茶屋 演劇大辞典より
江戸時代から明治初期までの観劇機関のひとつ
寛永元年(1624年)江戸に櫓を上げた当時、劇場の周囲の空き地に許可を得てよしずばりの掛け茶屋を出したのがことの初めであった。
開場を待つ観客に茶をすすめたものが中々の人気となり、次第に観客がなじむに連れて荷物を預かったり、茶屋に頼んで木戸札の手配を頼んだり、働くものから湯茶をもらって弁当を食べたと言う。
昔の観劇は開演時間と幕間が長かったので茶屋で休息したり食事を取ったりするので一日楽しく観劇するには芝居茶屋を利用しないと観劇できなかった。
大茶屋 表茶屋 桟敷席の大部分を占めていた。
小茶屋 裏茶屋 俳優に接近することが出来た。
水茶屋 場内の飲食物の手配をする。
とにかく観劇に費用が掛かったので明治末期に開場した帝国劇場が出来ると衰退した。
このような劇場の姿は今では想像つかないが混雑した場内は空気が汚れ、トイレの悪臭が漂ったり、観劇する場の桟敷で飲食するため汚れていたという。
相撲茶屋と芝居茶屋
明治時代の終わりに帝国劇場が出来るまでは歌舞伎等の芝居を見るためには芝居茶屋を通じて観ることになっていた。切符の手配や交通手段の手配等が茶屋の人達の手配で行われていてその様子は今泉みね『なごりの夢』に生き生きと描かれている。芝居見物当日いや前日から準備が行われ朝早くから夕方までの芝居興行につきあうこととなる。この様な仕組みは平成の今でも相撲見物に残っていて本場所のチケットの手配は相撲茶屋を通して行われる。本場所の時間は午前9時から夕方6時まで行われていて江戸時代とほぼ同じような気がする。江戸時代は仕切りの時間制限がなかったので取組みが今より少なかったかもしれない。
江戸末期に浅草での芝居興行は午前6時頃から午後5時頃までの興行でしたから、芝居見物は一日がかりでした。見物客は芝居茶屋を通して入る上客と木戸から入る一般客があって、上客は桟敷で食事は芝居茶屋で取ります。一般客は土間で『かべす』(菓子・弁当・寿司のこと)の客と言って軽蔑していました。相撲茶屋は制度的には芝居茶屋の同様な江戸時代の興行維持の仕組みかもしれません。相撲の良い桟敷席は相撲茶屋に独占されていて一般客には良い席が少ないと言われています。
明治23年新富座で上野の戦争を題材として『皐月晴上野朝風』が上演された。上野戦争で亡くなった人達の23回忌とかで明治も落ち着いて明治政府も武士の時代に逆戻りしない自信が付いていたのか上野戦争(彰義隊)物が上演できた。まだ戦争の関係者も生きていてかなり前評判がよく、江戸と呼ばれた時から東京に住んでいた人々には涙を誘ったようである。
芝居茶屋 演劇大辞典より
江戸時代から明治初期までの観劇機関のひとつ
寛永元年(1624年)江戸に櫓を上げた当時、劇場の周囲の空き地に許可を得てよしずばりの掛け茶屋を出したのがことの初めであった。
開場を待つ観客に茶をすすめたものが中々の人気となり、次第に観客がなじむに連れて荷物を預かったり、茶屋に頼んで木戸札の手配を頼んだり、働くものから湯茶をもらって弁当を食べたと言う。
昔の観劇は開演時間と幕間が長かったので茶屋で休息したり食事を取ったりするので一日楽しく観劇するには芝居茶屋を利用しないと観劇できなかった。
大茶屋 表茶屋 桟敷席の大部分を占めていた。
小茶屋 裏茶屋 俳優に接近することが出来た。
水茶屋 場内の飲食物の手配をする。
とにかく観劇に費用が掛かったので明治末期に開場した帝国劇場が出来ると衰退した。
このような劇場の姿は今では想像つかないが混雑した場内は空気が汚れ、トイレの悪臭が漂ったり、観劇する場の桟敷で飲食するため汚れていたという。