皐月晴上野朝風
明治23年4月下旬
新富座の5月公演の予告記事が現れてくる。
明治23年5月15日上野公園山王台にて、戊辰の役の23回忌を上野山下の飲食店と協議し、相撲を一回限りの興行をするという。同時期に4月1日から7月31日まで第三回内国勧業博覧会を上野公園で開催されていた。わが国最初の電車が340m走ったという。博覧会の総入場者は100万人を越えていた。ついでに上野公園の隣の不忍池の競馬場で5月16、17、18日の第3回内国勧業博覧会附属臨時競馬会を開いている。このような時期を狙って上野物=彰義隊の芝居を企画した。
西郷隆盛の復権
明治22~23年ころ
明治維新の指導者、西郷隆盛は、西南戦争によって賊名を背負ったまま死んだ。明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布を機に名誉が回復され、上野公園山王台(明治31年)に銅像が建てられることになった。明治23年五月から上野公園にて第三回内国勧業博覧会が開かれた。さらに上野戦争の死者の23回忌と言うことで歌舞伎の際物として『皐月晴上野朝風』という芝居が企画された。ほぼ同じ頃西郷隆盛のための寄付金集めの広告が新聞に載っていた。維新によってもたらされた混乱の収拾と憲法発布ということによって明治政府の自信がついたためだろうか。
岡本綺堂 ランプの下にて
明治劇談
明治23年5月興行新富座『皐月晴上野朝風』より
前興行の『め組の喧嘩』の成功に味をしめた新富座は上野戦争23回忌と言うことを理由として彰義隊の一件を脚色し上演した戦略があたって、開演前から東京市中に評判が立った。もちろん新富座でも種々の宣伝に努めて、上野の宮様を誰が勤めるとか、当時まだ生きていた下谷の湯屋の亭主を五代目菊五郎が勤めるとか色々な噂が新聞紙上を賑わしていた。果たして開幕すると上野の戦争の場などは生々しく大評判で寛永寺の宮様が草鞋履きで上野を落ちるくだりなど、上野戦争を経験していた老人などは涙を流していたという。
明治の23年ともなれば明治憲法が発布され、西郷隆盛が大赦されて明治政府も武士の時代に戻ることも無い自信の表れかもしれない。こんな時にこの芝居が上演されたのである。しかし明治政府は西郷の銅像を日本初とすることは出来ず、急遽靖国神社入り口に大村益次郎の銅像を建て、日本初の銅像を上野の方向に姿を向けた。
明治の初めの頃は上野戦争に着いて語ることは出来ず、親族等の間にひそかに伝えられていた。福神漬の販路の拡大等を調べてゆくうちにこの様な事実があった。
明治23年4月下旬
新富座の5月公演の予告記事が現れてくる。
明治23年5月15日上野公園山王台にて、戊辰の役の23回忌を上野山下の飲食店と協議し、相撲を一回限りの興行をするという。同時期に4月1日から7月31日まで第三回内国勧業博覧会を上野公園で開催されていた。わが国最初の電車が340m走ったという。博覧会の総入場者は100万人を越えていた。ついでに上野公園の隣の不忍池の競馬場で5月16、17、18日の第3回内国勧業博覧会附属臨時競馬会を開いている。このような時期を狙って上野物=彰義隊の芝居を企画した。
西郷隆盛の復権
明治22~23年ころ
明治維新の指導者、西郷隆盛は、西南戦争によって賊名を背負ったまま死んだ。明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布を機に名誉が回復され、上野公園山王台(明治31年)に銅像が建てられることになった。明治23年五月から上野公園にて第三回内国勧業博覧会が開かれた。さらに上野戦争の死者の23回忌と言うことで歌舞伎の際物として『皐月晴上野朝風』という芝居が企画された。ほぼ同じ頃西郷隆盛のための寄付金集めの広告が新聞に載っていた。維新によってもたらされた混乱の収拾と憲法発布ということによって明治政府の自信がついたためだろうか。
岡本綺堂 ランプの下にて
明治劇談
明治23年5月興行新富座『皐月晴上野朝風』より
前興行の『め組の喧嘩』の成功に味をしめた新富座は上野戦争23回忌と言うことを理由として彰義隊の一件を脚色し上演した戦略があたって、開演前から東京市中に評判が立った。もちろん新富座でも種々の宣伝に努めて、上野の宮様を誰が勤めるとか、当時まだ生きていた下谷の湯屋の亭主を五代目菊五郎が勤めるとか色々な噂が新聞紙上を賑わしていた。果たして開幕すると上野の戦争の場などは生々しく大評判で寛永寺の宮様が草鞋履きで上野を落ちるくだりなど、上野戦争を経験していた老人などは涙を流していたという。
明治の23年ともなれば明治憲法が発布され、西郷隆盛が大赦されて明治政府も武士の時代に戻ることも無い自信の表れかもしれない。こんな時にこの芝居が上演されたのである。しかし明治政府は西郷の銅像を日本初とすることは出来ず、急遽靖国神社入り口に大村益次郎の銅像を建て、日本初の銅像を上野の方向に姿を向けた。
明治の初めの頃は上野戦争に着いて語ることは出来ず、親族等の間にひそかに伝えられていた。福神漬の販路の拡大等を調べてゆくうちにこの様な事実があった。