福神漬物語 37
三遊亭円朝と福神漬
まだ具体的な福神漬と円朝を結びつける史料が見つからないが円朝は福神漬の池之端周辺に20歳位まで住んでいた。明治という時代の東京は明治のなかばの頃まで江戸時代の風景が残っていて徐々に東京の中心から変化していくときだったのです。
円朝をはじめ江戸のときから東京に住んでいた人達は基本的に明治新政府を心情的に嫌っていたが徐々に文明開化の進展と共に対応してゆくときでもあった。
近代落語の祖といわれる三遊亭円朝は30歳の時に明治維新と遭遇した。池之端周辺には幕末期から戯作者たちが数多く住んでおり、様々な交流があったと思われる。明治新政府の文明開化させるため演劇等の興業は江戸時代の風習を改めるため教育することを要求された。しかし、明治10年の西南戦争まで東京は落ちついていなく、武士等が消えた東京は消費地として不況であった。政府は不況を打破するためと文明開化を進展させるため様々な手段を講じた。上野公園で明治10年第一回内国産業博覧会(国内の産業を振興することを目的)に開かれた内国博は都合5回開催され、第3回までがこの上野公園で開催されています。
そんな時代的風景の中で福神漬が生まれたのです。近代工業の爆発的発達と同様に様々な技術の同時進行によって発展したと同じです。
三遊亭円朝と山岡鉄舟との交友は明治10年から明治21年まで11年間師事したことになる。この間、円朝は井上馨・山縣有朋・三島通庸・渋沢栄一・益田孝といった明治政財界の社交の場を利用して『芸人風情』の世界から新時代の文化人として明治新政府の中枢と対等に付き合えるまで大きく引き上げてもらった。また明治政財界人にとっては江戸文化人と付き合う必要が明治東京では必要であった。
福神漬はそのような時期に上野池之端で創生され広まっていた。
三遊亭円朝 天保10年(1839)~明治33年(1900) 62歳
台東区の下谷神社は寛政10年(西暦1798年)に江戸で初めて有料で落語がでた寄席の発祥地であった。円朝は幕末に湯島天神下で生まれ、青年期まで居住地は池之端の周囲の地域に住んでいた。湯島天神下は芸人の人達が多く住んでいたところで差別を受けていた地域でもある。
谷中の鉄舟と交流が有名で他の福神漬の交友関係の中心ともなる人だが肝心の『酒悦』との関係が資料の無いためあまり知られていない。現在の『酒悦』が鈴本演芸場の隣にあるのは歴史の皮肉でもある。
円朝の落語『七福神詣で』は明治30年代の豪商・金持ちをめぐる話だが円朝の貴紳士交友振りが知られる。福神漬は明治20年代では当時としては高価な漬物で販売するにはかなりの努力を要していて、結果として広まったのだがその過程は今でも不明で想像推測でしかない。
明治東京畸人伝 森まゆみ著から
円朝は湯島切通下に生まれ、親は池之端茅町にあった『山口』という寺子屋に円朝を通わせた。この学校は明治になって樋口一葉が通った学校となったといわれている。12歳の頃池之端仲町の商人のところに奉公に出たが性に合わなかった。また安政の頃は池之端七軒町に住んでいて浅草の高座に通ったと言う。
福神漬の出来た池之端周辺は浅草へ集まった芸人たちのたまり場でもあったのだろうか。明治の20年頃までは東京となっていてもまだ江戸の風情が浅草周辺には残っていた。江戸の町名が明治の町名に変り、また徒歩行動圏から人力車・馬車鉄道・汽車の発達で行動圏が広がってどんどん変化していって、江戸と言う時から住んでいた人たちが東京という町に変化についいてゆけなく懐旧の情が出る頃でもあった。
三遊亭円朝と福神漬
まだ具体的な福神漬と円朝を結びつける史料が見つからないが円朝は福神漬の池之端周辺に20歳位まで住んでいた。明治という時代の東京は明治のなかばの頃まで江戸時代の風景が残っていて徐々に東京の中心から変化していくときだったのです。
円朝をはじめ江戸のときから東京に住んでいた人達は基本的に明治新政府を心情的に嫌っていたが徐々に文明開化の進展と共に対応してゆくときでもあった。
近代落語の祖といわれる三遊亭円朝は30歳の時に明治維新と遭遇した。池之端周辺には幕末期から戯作者たちが数多く住んでおり、様々な交流があったと思われる。明治新政府の文明開化させるため演劇等の興業は江戸時代の風習を改めるため教育することを要求された。しかし、明治10年の西南戦争まで東京は落ちついていなく、武士等が消えた東京は消費地として不況であった。政府は不況を打破するためと文明開化を進展させるため様々な手段を講じた。上野公園で明治10年第一回内国産業博覧会(国内の産業を振興することを目的)に開かれた内国博は都合5回開催され、第3回までがこの上野公園で開催されています。
そんな時代的風景の中で福神漬が生まれたのです。近代工業の爆発的発達と同様に様々な技術の同時進行によって発展したと同じです。
三遊亭円朝と山岡鉄舟との交友は明治10年から明治21年まで11年間師事したことになる。この間、円朝は井上馨・山縣有朋・三島通庸・渋沢栄一・益田孝といった明治政財界の社交の場を利用して『芸人風情』の世界から新時代の文化人として明治新政府の中枢と対等に付き合えるまで大きく引き上げてもらった。また明治政財界人にとっては江戸文化人と付き合う必要が明治東京では必要であった。
福神漬はそのような時期に上野池之端で創生され広まっていた。
三遊亭円朝 天保10年(1839)~明治33年(1900) 62歳
台東区の下谷神社は寛政10年(西暦1798年)に江戸で初めて有料で落語がでた寄席の発祥地であった。円朝は幕末に湯島天神下で生まれ、青年期まで居住地は池之端の周囲の地域に住んでいた。湯島天神下は芸人の人達が多く住んでいたところで差別を受けていた地域でもある。
谷中の鉄舟と交流が有名で他の福神漬の交友関係の中心ともなる人だが肝心の『酒悦』との関係が資料の無いためあまり知られていない。現在の『酒悦』が鈴本演芸場の隣にあるのは歴史の皮肉でもある。
円朝の落語『七福神詣で』は明治30年代の豪商・金持ちをめぐる話だが円朝の貴紳士交友振りが知られる。福神漬は明治20年代では当時としては高価な漬物で販売するにはかなりの努力を要していて、結果として広まったのだがその過程は今でも不明で想像推測でしかない。
明治東京畸人伝 森まゆみ著から
円朝は湯島切通下に生まれ、親は池之端茅町にあった『山口』という寺子屋に円朝を通わせた。この学校は明治になって樋口一葉が通った学校となったといわれている。12歳の頃池之端仲町の商人のところに奉公に出たが性に合わなかった。また安政の頃は池之端七軒町に住んでいて浅草の高座に通ったと言う。
福神漬の出来た池之端周辺は浅草へ集まった芸人たちのたまり場でもあったのだろうか。明治の20年頃までは東京となっていてもまだ江戸の風情が浅草周辺には残っていた。江戸の町名が明治の町名に変り、また徒歩行動圏から人力車・馬車鉄道・汽車の発達で行動圏が広がってどんどん変化していって、江戸と言う時から住んでいた人たちが東京という町に変化についいてゆけなく懐旧の情が出る頃でもあった。