明治23年5月29日読売新聞
菊五郎へ天野氏よりの書状
去る23日の読売新聞紙上に掲載した『音羽屋の参詣』と題し、彰義隊の隊長だった天野八郎氏の息女すず子(今年27歳)氏より去る24日菊五郎のもとへ書状を贈られたというのでその全文を次に掲載する。
『読売新聞明治23年5月23日を拝見し今回新富座において亡父八郎の役を御勤めについて一昨日亡父の墓に参詣くださり、かつ大破している墓を大修繕くださることを読んでそのことは事実でございます。ご厚志の段はありがたく御礼申し上げます。その件につき少々申し上げたいことは墳墓の件はご存知のごとく如何にも破損いたしており、私ども遺族に於いて今年は23回忌にあいあたり、方々をもって修繕を加えんと思っております。
また新聞紙上に記事となっていたように糺問所において死去いたした後、湯島天神地内に住居している田口喜太郎氏と申すものは亡父の別懇のものであります。同氏のご厚意により遺体を収め、私どもはその節は厳しい法律のゆえ姓名を名乗ることも出来ずただ一通りの回向し埋葬しただけのことでありました。それゆえその寺の住職でさえまったく遺族なき者と思っていとようです。そのような時秋元寅之助氏等(新聞には寅雄氏とあり芝居では寅之介)の御厚意に今の墳墓をたててくださったことは感謝しておりました。
このような次第につき此の度修繕を加えてくださることは私どもは感謝していると秋元氏等に一応話しております。このような結果を招き私どもは秋元氏菊五郎氏らにまことに相済まぬ儀にて失礼ながら書面をもってお礼申し上げます。
明治23年5月23日夜
天野すず子
明治23年5月29日読売新聞
菊五郎へ天野氏よりの書状
寺島 清様(五代目尾上菊五郎のこと)貴下
亡父(天野八郎のこと)の性格を二三書き添え、参考まで申し上げます。
一 生来大酒のみで一升(1.8L)くらいは飲みます。
一 常紋は三つ柏にて、才蔵(漫才)の風呂敷のようにみえ、まことに好ましくないと申して浪に七曜の星をつけたのを用いておりました。
一 浴衣は鼠地に香車を染めたものを用い、全て何の印にも香車を用いていました。
一 居間の額には隷書にて『無二諾』秋氏の書いたのを掛け、これに対して『集義』と楷書にて書いているのを掛け、これは自己を責める道具だと言っていました。
なお詳しきことは神田区小川町二番地田口喜太郎氏なり芝区四国町二番地四号須賀いく方天野すず子と訪ねて下されば委細お話あげます。また写真も一枚ありますので御用があれば御覧に入れることが出来ます。
くれぐれもご厚志の段お礼申し上げます。
この感謝状を一覧して菊五郎は大いに喜び早速衣装の紋を改めんと紋帳を取り寄せ調べたが浪に七曜星の付いている紋はなく、その雛形および天野氏の写真とも一覧いたしたいと天野すず子氏方へ弟子を以って問い合わせたが別に紋の雛形はなく、また写真は知人のもとに貸し与えたので近日中に取り寄せるとのことにて同優(菊五郎)は来月中旬には天野すず子氏を招待して新富座を見物させるという話が出ていた。
この時代は記事の信憑性を高めるため実名実住所で女性は特に年齢付だった。そして二十歳前の一般女性は美女か孝女となって記事に現れることが多い。芸者さん報道では二十歳前は年齢つきでそれ以後は名前だけのような気がする。
彰義隊遺聞 森まゆみ著
読売新聞の記事でわからないことがこの本に書き記されていた。湯島天神内に住んでいた田口喜太郎氏は獄中で亡くなった天野八郎の遺体を回向院に埋葬したことがわかった。この本によると小川屋喜太郎となっている。小川屋は屋号だろう。五代目菊五郎が音羽屋で本名が寺島と言う関係となる。明治4年に彰義隊の生き残りの同志が回向院に天野八郎を弔い石碑を立て法名をつけた。
また天野八郎の隠れ場を漏らした彰義隊七番隊隊長石川善一郎は後に天野の遺族の面倒を見たという。
『皐月晴上野朝風』を明治23年5月に上演した菊五郎が彼の扮する回向院にある天野八郎の墓を訪ねて、墓を修復した。この行動に対して明治4年に墓を建立した元彰義隊の同志は施主に無断で修復したとのことで怒り(芸人風情に修理された)円通寺に改葬し、天野八郎の碑をたて榎本武揚の額がある。また問題の菊五郎の修復した台石もあるという。つまり今の墓は菊五郎の芝居がなければ円通寺になかったこととなる。芸人に対して『』という差別感がまだ残っている時代だった。今の歌舞伎役者はこの人達の苦労の上に成り立っている。
福神漬の生まれた上野周辺の状況が明治22年の憲法発布・明治23年の第三回内国博覧会のあたりから変ってきた気がする。それは戦後の復興期から『もはや戦後ではない』と言われた時代になった時と似ている。
菊五郎へ天野氏よりの書状
去る23日の読売新聞紙上に掲載した『音羽屋の参詣』と題し、彰義隊の隊長だった天野八郎氏の息女すず子(今年27歳)氏より去る24日菊五郎のもとへ書状を贈られたというのでその全文を次に掲載する。
『読売新聞明治23年5月23日を拝見し今回新富座において亡父八郎の役を御勤めについて一昨日亡父の墓に参詣くださり、かつ大破している墓を大修繕くださることを読んでそのことは事実でございます。ご厚志の段はありがたく御礼申し上げます。その件につき少々申し上げたいことは墳墓の件はご存知のごとく如何にも破損いたしており、私ども遺族に於いて今年は23回忌にあいあたり、方々をもって修繕を加えんと思っております。
また新聞紙上に記事となっていたように糺問所において死去いたした後、湯島天神地内に住居している田口喜太郎氏と申すものは亡父の別懇のものであります。同氏のご厚意により遺体を収め、私どもはその節は厳しい法律のゆえ姓名を名乗ることも出来ずただ一通りの回向し埋葬しただけのことでありました。それゆえその寺の住職でさえまったく遺族なき者と思っていとようです。そのような時秋元寅之助氏等(新聞には寅雄氏とあり芝居では寅之介)の御厚意に今の墳墓をたててくださったことは感謝しておりました。
このような次第につき此の度修繕を加えてくださることは私どもは感謝していると秋元氏等に一応話しております。このような結果を招き私どもは秋元氏菊五郎氏らにまことに相済まぬ儀にて失礼ながら書面をもってお礼申し上げます。
明治23年5月23日夜
天野すず子
明治23年5月29日読売新聞
菊五郎へ天野氏よりの書状
寺島 清様(五代目尾上菊五郎のこと)貴下
亡父(天野八郎のこと)の性格を二三書き添え、参考まで申し上げます。
一 生来大酒のみで一升(1.8L)くらいは飲みます。
一 常紋は三つ柏にて、才蔵(漫才)の風呂敷のようにみえ、まことに好ましくないと申して浪に七曜の星をつけたのを用いておりました。
一 浴衣は鼠地に香車を染めたものを用い、全て何の印にも香車を用いていました。
一 居間の額には隷書にて『無二諾』秋氏の書いたのを掛け、これに対して『集義』と楷書にて書いているのを掛け、これは自己を責める道具だと言っていました。
なお詳しきことは神田区小川町二番地田口喜太郎氏なり芝区四国町二番地四号須賀いく方天野すず子と訪ねて下されば委細お話あげます。また写真も一枚ありますので御用があれば御覧に入れることが出来ます。
くれぐれもご厚志の段お礼申し上げます。
この感謝状を一覧して菊五郎は大いに喜び早速衣装の紋を改めんと紋帳を取り寄せ調べたが浪に七曜星の付いている紋はなく、その雛形および天野氏の写真とも一覧いたしたいと天野すず子氏方へ弟子を以って問い合わせたが別に紋の雛形はなく、また写真は知人のもとに貸し与えたので近日中に取り寄せるとのことにて同優(菊五郎)は来月中旬には天野すず子氏を招待して新富座を見物させるという話が出ていた。
この時代は記事の信憑性を高めるため実名実住所で女性は特に年齢付だった。そして二十歳前の一般女性は美女か孝女となって記事に現れることが多い。芸者さん報道では二十歳前は年齢つきでそれ以後は名前だけのような気がする。
彰義隊遺聞 森まゆみ著
読売新聞の記事でわからないことがこの本に書き記されていた。湯島天神内に住んでいた田口喜太郎氏は獄中で亡くなった天野八郎の遺体を回向院に埋葬したことがわかった。この本によると小川屋喜太郎となっている。小川屋は屋号だろう。五代目菊五郎が音羽屋で本名が寺島と言う関係となる。明治4年に彰義隊の生き残りの同志が回向院に天野八郎を弔い石碑を立て法名をつけた。
また天野八郎の隠れ場を漏らした彰義隊七番隊隊長石川善一郎は後に天野の遺族の面倒を見たという。
『皐月晴上野朝風』を明治23年5月に上演した菊五郎が彼の扮する回向院にある天野八郎の墓を訪ねて、墓を修復した。この行動に対して明治4年に墓を建立した元彰義隊の同志は施主に無断で修復したとのことで怒り(芸人風情に修理された)円通寺に改葬し、天野八郎の碑をたて榎本武揚の額がある。また問題の菊五郎の修復した台石もあるという。つまり今の墓は菊五郎の芝居がなければ円通寺になかったこととなる。芸人に対して『』という差別感がまだ残っている時代だった。今の歌舞伎役者はこの人達の苦労の上に成り立っている。
福神漬の生まれた上野周辺の状況が明治22年の憲法発布・明治23年の第三回内国博覧会のあたりから変ってきた気がする。それは戦後の復興期から『もはや戦後ではない』と言われた時代になった時と似ている。