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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

駿東紀行 その後

2009年12月13日 | 福神漬
駿東紀行 その後
東京に戻って資料を確認する。『斯民』は立川市にある都立の図書館に所蔵されている。本当に必要な部分は大正2年10月のところだが余分に借り出したところに鈴木農園のいきさつが書いてあった。多分サッカリン入り醤油事件がなければ、今の不二聖心女子高等学校は存在しなかっただろうし、小林一三はサラリーマン経営者で終わってしまっていただろう。つまり阪急百貨店の福神漬無料提供もすべては日本醤油醸造のサッカリン事件から始まっている。今から百年前の話だがそれぞれの経緯が断片的に伝えられ、今となっては誰も知らない話でカレーライスと福神漬の話が独り歩きしてしまっている。

『斯民』中央報徳会 明治40年3月23日 第12号
鈴木農園の所在地は静岡県駿東郡富岡村定輪寺字桃園
総面積は78町9反1畝13歩
内訳 田 8背3歩
   畑 14町7反1畝21歩
   宅地 1反19歩
   山林 63町9反2畝22歩
買い入れ価格 一万八千円 経費を入れれば三万一千円という。
鈴木藤三郎氏の話によると、幕臣黒田久綱氏他4名と共同し明治6年頃から開墾が始まったが、黒田氏が東京武官として就職し、他の人達は努力して開墾し、さらに黒田氏の援助にもかかわらず、次第に困窮した。されとてこの地を分割して売却するには忍びずといっていたところ、駿東郡長の斡旋でこの地を買い入れたという。桃園にあった鈴木藤三郎の自宅には山岡鉄舟の書による扁額があり『桃園』と書いてあった。
 この農園には小作人が10戸、農繁期には他より10人ほど雇って経営していた。小作人には4間半2間の家屋建築し無料にてこれを貸与し、鍬・鍬等の農機具を与えていた。農場については5町歩ばかりリンゴ・ブドウ・柿等の果樹を栽培していた。野菜は小山にある富士紡績と交渉して、職工のために新鮮な野菜を提供して喜ばれているという。製茶については年一千貫産しているという。目下牛舎を作っていて、肥料をこれによって作るという。その他にアヒル・ニワトリ等を飼っているという。
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