明治23年5月24日読売新聞
下谷連の総見物
今回新富座において上野の戦争劇を上演するにつき下谷区(今の台東区の西の部分)にてはそれぞれ組を分けて総見物をしようと相談中だという。今その主なる所をあげれば第一数奇屋町・同朋町の校書(ゲイシャ)連中、第二守田治兵衛氏の連即ち仲町連中、第三湯屋佐兵衛氏連即ち竹町連中、第四は松源連中、第五は大茂連中、第六は松坂屋連中、第七は雁鍋連中等であるという。
松源楼の場で数奇屋町の芸者の話が出てくる。
下谷花柳界があった同朋町は今の上野松坂屋南館あたりだった。同朋町はすぐ近くの数寄屋町とともに下谷花柳界として当時東京でも柳橋、新橋につぐ格式と規模を誇った。さて福神漬の酒悦は池之端仲町なので第二の仲町連中に入って見物したのであろうか。酒悦主人と五代目菊五郎との接点がなかなか見えない。
上野松坂屋は江戸時代寛永寺の御用達として発展した。さて最後の雁鍋連中だが池之端仲町裏の場で『雁鍋で食べて吉原に行こうか』というセリフがあった。料亭か料理の種類なのだろうか。とにかく皐月晴上野朝風という際物の歌舞伎は下谷の町衆にとって日頃のうっぷんを晴らし懐旧の情を呼び起こす芝居であった。
明治23年5月24日読売新聞
梅幸への贈り物
(五代目尾上)菊五郎が今度新富座にて彰義隊の組頭天野八郎を演じるについてはこのほど越前屋佐兵衛氏より輪王寺(今日の北白川宮)下山の際、御使用なった泥付の草鞋(わらじ)と同殿下直筆の『知足』の二字のある掛け軸を菊五郎に与えたところ、菊五郎は熱心にもその草鞋と掛け軸を床の間に掲げ出勤のたびに朝夕三拝しているという。然るに越前屋にてはさらに菊五郎はかくのごとくと聞くやさらに東叡山中堂大伽藍の棟上にあった十六菊の御紋付瓦一個を贈った。菊五郎のこの上なく喜び、重宝がっていると言う。
越前屋佐兵衛氏湯屋で竹町湯屋の場で出てくる。
北白川宮殿下は日清戦争後台湾に向かい現地で亡くなった。戦前台湾にあった台湾神社は北白川殿下が祀られていた。知足とは《「老子」33章の「足るを知る者は富む」から》みずからの分(ぶん)をわきまえて、それ以上のものを求めないこと。分相応のところで満足するこという。北白川宮は五代目菊五郎にどの様な意味で『知足』の掛け軸を贈ったのだろうか。
明治23年5月28日読売新聞
新富座の出揃い
新富座は大抵出揃ったと手一昨日は大入り客止めとなったようである。しかし一番目の狂言の大詰めの(皐月晴上野朝風)博覧会の場はまだ出揃っていないので本当の出揃いは次の土曜日になるだろう。
(第三回内国)博覧会の場は公演初期の頃は上演されることはなかったようである。今ではあまり考えられないが当時は新作の歌舞伎を未完成で上演していたらしい。観客の反応を見て変えていったようである。『竹柴其水集』の脚本には第七幕の博覧会の場には広告小僧なるものが出てきて宣伝をしていた。もし上演していたらどの様な商品を宣伝していたのだろうか。
下谷連の総見物
今回新富座において上野の戦争劇を上演するにつき下谷区(今の台東区の西の部分)にてはそれぞれ組を分けて総見物をしようと相談中だという。今その主なる所をあげれば第一数奇屋町・同朋町の校書(ゲイシャ)連中、第二守田治兵衛氏の連即ち仲町連中、第三湯屋佐兵衛氏連即ち竹町連中、第四は松源連中、第五は大茂連中、第六は松坂屋連中、第七は雁鍋連中等であるという。
松源楼の場で数奇屋町の芸者の話が出てくる。
下谷花柳界があった同朋町は今の上野松坂屋南館あたりだった。同朋町はすぐ近くの数寄屋町とともに下谷花柳界として当時東京でも柳橋、新橋につぐ格式と規模を誇った。さて福神漬の酒悦は池之端仲町なので第二の仲町連中に入って見物したのであろうか。酒悦主人と五代目菊五郎との接点がなかなか見えない。
上野松坂屋は江戸時代寛永寺の御用達として発展した。さて最後の雁鍋連中だが池之端仲町裏の場で『雁鍋で食べて吉原に行こうか』というセリフがあった。料亭か料理の種類なのだろうか。とにかく皐月晴上野朝風という際物の歌舞伎は下谷の町衆にとって日頃のうっぷんを晴らし懐旧の情を呼び起こす芝居であった。
明治23年5月24日読売新聞
梅幸への贈り物
(五代目尾上)菊五郎が今度新富座にて彰義隊の組頭天野八郎を演じるについてはこのほど越前屋佐兵衛氏より輪王寺(今日の北白川宮)下山の際、御使用なった泥付の草鞋(わらじ)と同殿下直筆の『知足』の二字のある掛け軸を菊五郎に与えたところ、菊五郎は熱心にもその草鞋と掛け軸を床の間に掲げ出勤のたびに朝夕三拝しているという。然るに越前屋にてはさらに菊五郎はかくのごとくと聞くやさらに東叡山中堂大伽藍の棟上にあった十六菊の御紋付瓦一個を贈った。菊五郎のこの上なく喜び、重宝がっていると言う。
越前屋佐兵衛氏湯屋で竹町湯屋の場で出てくる。
北白川宮殿下は日清戦争後台湾に向かい現地で亡くなった。戦前台湾にあった台湾神社は北白川殿下が祀られていた。知足とは《「老子」33章の「足るを知る者は富む」から》みずからの分(ぶん)をわきまえて、それ以上のものを求めないこと。分相応のところで満足するこという。北白川宮は五代目菊五郎にどの様な意味で『知足』の掛け軸を贈ったのだろうか。
明治23年5月28日読売新聞
新富座の出揃い
新富座は大抵出揃ったと手一昨日は大入り客止めとなったようである。しかし一番目の狂言の大詰めの(皐月晴上野朝風)博覧会の場はまだ出揃っていないので本当の出揃いは次の土曜日になるだろう。
(第三回内国)博覧会の場は公演初期の頃は上演されることはなかったようである。今ではあまり考えられないが当時は新作の歌舞伎を未完成で上演していたらしい。観客の反応を見て変えていったようである。『竹柴其水集』の脚本には第七幕の博覧会の場には広告小僧なるものが出てきて宣伝をしていた。もし上演していたらどの様な商品を宣伝していたのだろうか。