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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 39

2009年12月22日 | 福神漬
福神漬物語 39
江戸の下層社会 朝野新聞編 塩見鮮一郎
築地に住んでいた今泉みねの本からから桂川家(蘭学者・御殿医)をめぐる人々の交流へ、さらに明治維新後の成島柳北と浅草で薬屋を開いたが士族の商法で失敗したという記述から、この本を読むこととなった。
 この本は大まかに三章に分かれていて二章はエタとヒニンのことが書いてある。残りの一章にゴウムネコツジキ(乞胸乞食)というのがある。あまり聞きなれない言葉で縁日の芸人や富くじの結果の報道なども含まれていて今の新聞記者のようなことも含まれていたようで明治時代は新聞記者の質も悪く記事を捏造したり金品をゆすっていたり、癒着してさり気なく宣伝していたようである。

福神漬の宣伝文を書いた梅亭金鵞(戯作者)や鶯亭金升(新聞記者)が関係して来るにはこのような事情がある。明治の中頃までは取材の新聞記者の地位はかなり低く軽蔑されていたといって良い。また新聞記者の人脈が初期は浅草で次第に銀座に集まっていて、浅草の方は幕府贔屓の人が多かった。成島柳北は日本の新聞の草分けと言ってもよい人で福神漬の宣伝文にはこの様な裏事情がある。

やまと新聞
明治19年に条野伝平(日本画家鏑木清方の父)という人たちが創刊した、いわゆる「小新聞」で、「大新聞」が男性知識人の読むものとされたのに対し、「女の読むべき新聞」としてスタートしました。
 本社は東京市京橋区尾張町二丁目 、今の銀座にありました。銀座に当時の報道機関が集中し、歌舞伎等の演劇も次第に浅草から今の銀座・築地に移転して来ました。今ではあまり考えられないのですが銀座の文明開化と浅草の江戸文化と当時はまだ残っていたようです。福神漬の創製された上野池之端はちょうど両者の中間ともいえるがどちらかと言えば江戸文化よりでした。しかし周囲(池之端)に三菱の茅町本邸を中心とした三菱関係者が住んでくるようになります。
日本で初めて講談の筆記(三遊亭円朝のもの)を連載したのは、このやまと新聞です。連載読み物の威力は大きく、日本語の文体が大きく変り、創刊後間もなく1万部を超え、明治22年には東京でいちばん売れる新聞になりました。

こしかたの記 鏑木清方著
戦後まで生きていた日本画家鏑木清方の随筆は明治の下町の風景がよく見える。今の東京都中央区にある京橋税務署・都税事務所は関東大震災まで新富座という歌舞伎等を公演する劇場であった。鏑木清方は少年時代に彼の自宅から歩いていける範囲内にあったせいか頻繁に出入りしていて後に新聞挿絵画家としての素養を得たような気がする。
明治のスキャンダル報道 小新聞=庶民・婦女子向け
大新聞(政治を主に扱う)は取り上げていないかほんの少ししか取り上げていなかったが庶民を読者層とした小新聞は積極的にスキャンダルを取り上げて時には捏造してまで読者の興味をそそる新聞を発行し赤新聞と言われていて販売部数が増えても軽蔑されていました。
 その赤新聞の代表は黒岩涙香の『萬朝報』で新聞の三面にニュースを載せ泥棒・強盗・詐欺・横領・不倫の記事が中心でした。
 特に『弊風一斑蓄妾の実例』は大人気でした。明治の年代は妾をもつことが男の甲斐性と思われていた時代で権妻(妾のこと)と言う言葉もあり妾を持つ習慣がありました。明治になって少し経つと妾を持ってもよいという法律は消えましたが明治30年代になってもこの習慣が残っていました。有名人の妾宅の住所付きで記事が書かれ、男の面目が失われました。その記事となった有名人の中には森鴎外・馬越恭平などがいて福神漬人脈の中心と思われる浅田正文も書かれました。妾を囲っている有名人は涙香の『まむしの周六』として恐れた。彼はスキャンダル記事は新聞部数を増やす手段として考えていました。彼のニセモノの正義は妾を持ちたくても持てない大衆の嫉妬に支えられていました。大衆の嫉妬に支えられた新聞は部数が拡大し一流新聞となりました。涙香は後に新聞の内容も一流となりたくて日露戦争直前に内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦を論説委員に抱えましたが日露開戦論に転向し急に部数が減りました。





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