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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 36

2009年12月19日 | 福神漬
引札絵ビラ風俗史 増田太次郎著
鶯亭金升の福神漬の引札の刷り物の話から、明治の当時の引札の文章が浅草付近は戯作者が書いてあるのが多く、一方銀座では新聞社が多かったので記者や作家が広告の文を書いていたことが多い。
 明治の銀座は文明開化の象徴としてレンガ造りの建物が並び輸入品や流行品が並ぶ町として発展した。一方の浅草は江戸時代から浅草寺の門前町として発展してきた。さらに吉原遊郭や芝居興業の町でもあった。銀座は時代の先端を行く町ならば浅草は時代に取り残された人のための町でもあった。
 浅草の引札は戯作者が文章を作ったのが多く河竹黙阿弥や仮名垣魯文も引札文を書いたと知られている。上野池之端『酒悦』主人より福神漬の宣伝文(引札)を依頼された戯作者梅亭金鵞であったのは当時としては当然のことでもあった。明治20年ころまでの東京の消費者は江戸のころから住んでいた人が多かったかもしれない。江戸・明治の頃の広告文の料金は生活できるほどではなく、生活の足しにしかならなかったという。

 カレッタ汐留のアドミュージアムにある資料によると江戸時代から明治の中頃までは日本の近代広告の基礎とも言える時代で商人が広告として色々工夫して宣伝を行っていた。特に明治の初期は上野池之端の守田宝丹(宝丹=胃腸薬)と岸田吟香(精水・せいきすい=目薬)の二人は薬の宣伝で有名であった。
特に池之端の守田宝丹の薬(宝丹)は幕末の文久2年(1862年)に発売し、コレラなどの予防薬として重宝されたようだ。商品としての「宝丹」を明治新政府に申請し、第1号公認薬として認可された。また守田宝丹は、宝丹の販売のために、新聞広告をはじめとして、PR誌を創刊したり、ポスター・看板・引札(ちらし)などを活用した。また歌舞伎の役者や落語家に「宝丹」のセリフを言わせたりして明治広告の先導者でもあった。
 同じ池の端仲町にあった福神漬の創始者(酒悦)主人野田清右衛門にも商品の宣伝方法について影響を与えたと思われる。

明治中期までの質素倹約
明治百話 篠田鉱造著より
旧幕の武家時代の家風が明治の家庭に伝わって質素倹約が基本でした。特に山の手では武家上がりの士族商法の家が多く、質素倹約をしつけられていました。
 少なくとも明治中期までは東京の人々の食生活の基本は自給自足に近いもので官僚・学生・軍隊等の需要が漬物の消費を支えていただろう。村井弦斎『食道楽』などはもっと遅く明治の終わりころの話で漬物を漬けることは女性の常識とされていた。

この様な時代に漬物を有料にして販売するにはかなりの工夫と努力が必要であった。
コメント
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