福神漬物語 44
明治23年5月16日読売新聞
彰義隊23年追弔会
かねて記事にしていたように昨15日上野桜ヶ岡において彰義隊戦死者23年追弔法会を行われたが同法会は当時関係の戦友が発起したもので朝より老若男女の参詣多く、本郷白山前町日蓮宗大乗寺よって音楽大法要をおこない、浄僧18名にて殊勝な追弔の式を行い、また禅宗長安寺よりは9人の浄僧を出だしおごそかに心経を唱えたよし。また同日午後4時半頃榎本文部大臣には右の参詣をかねて博覧会に向かったと言う。
榎本文部大臣とは旧幕臣榎本武揚のことでこの日は山縣有朋内閣の文部大臣であった。本当は追弔会に堂々と参加したかったと思われるが同じ上野公園で開催している第三回内国博覧会を見るついでに出席したと言う形で報道されている。文部大臣の肩書きで追弔会に出席したということか。様々な形で旧幕臣の復権が図られていた。
山縣内閣において榎本文部大臣の更迭
明治23年5月16日に榎本武揚文部大臣は山縣有朋総理大臣を尋ね、更迭の理由をきき辞任している。新聞記事によると榎本は長州系の人々と上手く行かず更迭の理由を検討されていたようである。御用新聞である東京日日新聞にはかなり前から情報がもれていたようであるが榎本がインフルエンザで休んでいたり、彰義隊23回忌が終わるまで引き伸ばされたかもしれない。正式な山縣内閣改造は5月17日となる。
榎本には地位にしがみつく意図はなかったが彰義隊23回忌には文部大臣として参加したことは維新後の旧幕臣の名誉回復を願っていたと思われる。山縣有朋はこの後、新文部大臣によって戦前の教育を変えた教育勅語を制定した。
福神漬の歴史の周囲にこのような以外な歴史が潜んでいる。
明治23年5月20日読売新聞
新富座 番付
同座はいよいよ21日正午12時より開場することとなったが、今改めてその狂言の場割り並びに役割を記すと一番目は皐月晴上野朝風は上野山下袴越の場、広小路松源楼の場、池之端仲町の裏の場、下谷竹町湯屋の場、凌雲院応接所の場、御徒町天野宅の場、東叡山黒門口の場、同山門前戦争の場、根岸御陰出裏の場、三河島不動前の場、北割下金魚屋の場、第三回博覧会の場とある。
上野山下、たんに山下ともいうが、東叡山寛永寺のふもと一帯をさす俗称である。明治になって、正式に上野山下町という名称になった。現在の、東京都台東区の上野駅構内不忍口あたりである。
狂言の場割の地名を見ていると人の多く住んでいる所の地名多い。これは観客の郷愁の情を誘う仕掛けかもしれない。敗残兵が江戸市中に逃れたという記憶が残っていたとおもわれる。
明治23年5月23日読売新聞
音羽屋の参詣
新富座の役者一同が彰義隊の墓へ参詣するよしは既に本誌に記事にしたが同座も急に昨日(22日)より開場することとなったが一同打ち揃って参詣できなかったので、(五代目尾上)菊五郎は一昨日に竹柴其水氏(原作者)を誘い自分が演じる天野八郎(彰義隊の隊長)の墓に参詣したという。天野氏の墓は千住小塚原にある回向院の下屋敷にあり、建立以来18年の星霜を経たものでこれを修繕する者がなく既に大破しているのでこの際菊五郎はその大修繕をするという。また菊五郎はその帰途三ノ輪町にある円通寺へ赴き彰義隊戦死者540名の墓へも参詣したと言う。天野八郎氏は上野戦争後即ち慶應4年7月大川端多田の薬師際にある炭屋文次郎方に潜伏しているところを召し取られ、西の丸下旧会津邸の糾問所へ引かれ直ちに揚屋入りを命ぜられ、同年9月大名小路元御役宅本多邸なる糾問所の揚屋へ移されたが、たまたま病を発し同年11月8日の夜に亡くなった。よってその翌日、前に書いた回向院下屋敷へ葬ることなり、この際湯島天神下の町人小川暮太郎なるもが乞うて遺体を納めて墓標を立ておいた。明治6年に至り元彰義隊組頭秋元寅雄氏等が発起となって今の場所に埋葬したと言う。
莚升(えんしょう)連の総見物
同連は熱心に左団次を崇拝するものであるが、今回同人が新富座の座頭となったので来月2日一同晴れ晴れしく同座を見物すると言う。この日は同連において高平土間40間を買いきり左団次万歳、新富座万歳とおのおの3回づつ声をかける趣向である。
新富座の大安売り
演劇通とて自任している都新聞社の諸氏は昨日新富座を買いきってその総見物をしたという。名に負う新富座のことならば定めし莫大な散財となると思ったらその貸しきり料はわずか百五十円という。
都新聞の購読者を獲得するため度々読者招待をしていた。今でも新聞の購読勧誘と同じ方法が明治23年にもあったということである。
明治23年5月16日読売新聞
彰義隊23年追弔会
かねて記事にしていたように昨15日上野桜ヶ岡において彰義隊戦死者23年追弔法会を行われたが同法会は当時関係の戦友が発起したもので朝より老若男女の参詣多く、本郷白山前町日蓮宗大乗寺よって音楽大法要をおこない、浄僧18名にて殊勝な追弔の式を行い、また禅宗長安寺よりは9人の浄僧を出だしおごそかに心経を唱えたよし。また同日午後4時半頃榎本文部大臣には右の参詣をかねて博覧会に向かったと言う。
榎本文部大臣とは旧幕臣榎本武揚のことでこの日は山縣有朋内閣の文部大臣であった。本当は追弔会に堂々と参加したかったと思われるが同じ上野公園で開催している第三回内国博覧会を見るついでに出席したと言う形で報道されている。文部大臣の肩書きで追弔会に出席したということか。様々な形で旧幕臣の復権が図られていた。
山縣内閣において榎本文部大臣の更迭
明治23年5月16日に榎本武揚文部大臣は山縣有朋総理大臣を尋ね、更迭の理由をきき辞任している。新聞記事によると榎本は長州系の人々と上手く行かず更迭の理由を検討されていたようである。御用新聞である東京日日新聞にはかなり前から情報がもれていたようであるが榎本がインフルエンザで休んでいたり、彰義隊23回忌が終わるまで引き伸ばされたかもしれない。正式な山縣内閣改造は5月17日となる。
榎本には地位にしがみつく意図はなかったが彰義隊23回忌には文部大臣として参加したことは維新後の旧幕臣の名誉回復を願っていたと思われる。山縣有朋はこの後、新文部大臣によって戦前の教育を変えた教育勅語を制定した。
福神漬の歴史の周囲にこのような以外な歴史が潜んでいる。
明治23年5月20日読売新聞
新富座 番付
同座はいよいよ21日正午12時より開場することとなったが、今改めてその狂言の場割り並びに役割を記すと一番目は皐月晴上野朝風は上野山下袴越の場、広小路松源楼の場、池之端仲町の裏の場、下谷竹町湯屋の場、凌雲院応接所の場、御徒町天野宅の場、東叡山黒門口の場、同山門前戦争の場、根岸御陰出裏の場、三河島不動前の場、北割下金魚屋の場、第三回博覧会の場とある。
上野山下、たんに山下ともいうが、東叡山寛永寺のふもと一帯をさす俗称である。明治になって、正式に上野山下町という名称になった。現在の、東京都台東区の上野駅構内不忍口あたりである。
狂言の場割の地名を見ていると人の多く住んでいる所の地名多い。これは観客の郷愁の情を誘う仕掛けかもしれない。敗残兵が江戸市中に逃れたという記憶が残っていたとおもわれる。
明治23年5月23日読売新聞
音羽屋の参詣
新富座の役者一同が彰義隊の墓へ参詣するよしは既に本誌に記事にしたが同座も急に昨日(22日)より開場することとなったが一同打ち揃って参詣できなかったので、(五代目尾上)菊五郎は一昨日に竹柴其水氏(原作者)を誘い自分が演じる天野八郎(彰義隊の隊長)の墓に参詣したという。天野氏の墓は千住小塚原にある回向院の下屋敷にあり、建立以来18年の星霜を経たものでこれを修繕する者がなく既に大破しているのでこの際菊五郎はその大修繕をするという。また菊五郎はその帰途三ノ輪町にある円通寺へ赴き彰義隊戦死者540名の墓へも参詣したと言う。天野八郎氏は上野戦争後即ち慶應4年7月大川端多田の薬師際にある炭屋文次郎方に潜伏しているところを召し取られ、西の丸下旧会津邸の糾問所へ引かれ直ちに揚屋入りを命ぜられ、同年9月大名小路元御役宅本多邸なる糾問所の揚屋へ移されたが、たまたま病を発し同年11月8日の夜に亡くなった。よってその翌日、前に書いた回向院下屋敷へ葬ることなり、この際湯島天神下の町人小川暮太郎なるもが乞うて遺体を納めて墓標を立ておいた。明治6年に至り元彰義隊組頭秋元寅雄氏等が発起となって今の場所に埋葬したと言う。
莚升(えんしょう)連の総見物
同連は熱心に左団次を崇拝するものであるが、今回同人が新富座の座頭となったので来月2日一同晴れ晴れしく同座を見物すると言う。この日は同連において高平土間40間を買いきり左団次万歳、新富座万歳とおのおの3回づつ声をかける趣向である。
新富座の大安売り
演劇通とて自任している都新聞社の諸氏は昨日新富座を買いきってその総見物をしたという。名に負う新富座のことならば定めし莫大な散財となると思ったらその貸しきり料はわずか百五十円という。
都新聞の購読者を獲得するため度々読者招待をしていた。今でも新聞の購読勧誘と同じ方法が明治23年にもあったということである。