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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 38

2009年12月21日 | 福神漬
守田宝丹 守田治兵衛(9代目)
今でも上野池之端仲町に薬の店舗を構える。『守田宝丹』という薬を明治初期に様々な手段を用いて販売し、日本広告史には必ず出る人。
 福神漬の販売拡大にはかなりの影響を与えたと思われる。明治の薬販売広告に関して、浅草派の人たちの後援者でもあったと思われる。明治23年新富座で公演があった『皐月晴上野朝風』という演目で守田治兵衛は池之端の人々を集めて総覧した。戯作者達が宣伝文を書いていた浅草派に対して新聞記者等が宣伝文を書いていた銀座派の代表は岸田吟香で目薬の宣伝広告をしていた。
守田宝丹 明治東京畸人伝 森田まゆみ著から
寛永年間に創建された上野寛永寺の門前町として池之端仲町は寛永寺の御用を足していた。さらに戦前までは不忍の池に向っていい料亭や待合が並んでいた。そして仲町通りには江戸時代から続いている老舗が並んでいた。明治に入って寛永寺の御用が無くなり一帯は寂れたがその中で九代目守田治兵衛は宣伝上手で各戸に薬の効能書きを配ったり、PR雑誌を創刊したり、歌舞伎役者に『宝丹の薬』の薬がよく効くとセリフに書き込ませたりしていた。この宣伝手段は今でも使われている手法でもある。明治年代まで色々な新聞に『宝丹』の宣伝が載っている。当時の新聞社にとって大事なクライアントだっただろう。守田は今の電通・博報堂の役目を明治時代に果たしていた。従って福神漬・酒悦の宣伝方法にもかなりの影響を与えたと思われる。
 又人物的にも逸話が多く慈善の寄付したりや公共事業に多大な寄与もした。さらに最後のちょん髷保持者としても有名で酒悦の野田清右衛門にも影響を与えたかもしれない。
岸田吟香『横浜新報もしほ草』1868年(慶応4年)後に東京日日新聞の記者となり、退社後、目薬の広告を東京日日新聞に出し成功した。新聞広告を商業的に利用して成功した最初の日本人とも言える。

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