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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 35

2009年12月18日 | 福神漬
北白川宮能久親王(きたしらかわよしひとしんのう)
千代田区北の丸公園にある旧近衛師団司令部庁舎を改修してできた「東京国立近代美術館工芸館」あります。その東隣に「北白川宮能久親王銅像」があります。
江戸から明治にかけて、東叡山寛永寺(上野)を統括していたのが、出家した天皇家子息『輪王寺宮』と呼ばれる方々でした。この輪王寺宮は、親王を自分の後継者として迎え、天台宗の統括を図るという天海大僧正の遺言により実現したものです。幕末の輪王寺宮公現入道親王は後の北白川宮能久親王で慶応3年(1867)21歳のとき輪王寺門跡を相続されていました。この後、上野の寛永寺に彰義隊が篭った時に反官軍の代表に擁立されています。
 吉村昭著『彰義隊』によると、明治維新の時、有栖川宮熾仁親王は恭順を条件に徳川慶喜を助命する方針を固めており、江戸から東征中止の要請と慶喜の助命嘆願のために訪れた輪王寺宮と静岡で会見し、宮に慶喜の恭順の意思を問うている。一方で、公現入道親王のもう一つの目的であった東征中止については、有栖川熾仁親王はこれを断固拒否した。天皇家子息でありながら幕府側とみなされ朝敵とされ、維新後、謹慎生活の後ドイツに留学し陸軍に入りました。日清戦争後台湾出兵を志願し台湾にて死去しました。

吉村昭著『 彰義隊』の広告に戊辰戦争でたった一人朝敵となった皇族がいたとあった。上野寛永寺の輪王寺宮のことだが、一日で終わった戦争のためあまり知られておらず、地元の人でも落ち武者の話しか知られていないだろう。
 上野の戦争の時。寛永寺の管主は輪王寺宮で元皇族でもあった。僧籍であったが最後の将軍が江戸城を出て寛永寺で謹慎することから彼の人生が変ってしまった。
 西軍(京都方)の理不尽な要求に対して抵抗をしようとした武士が彰義隊を結成し、最初は寛永寺での将軍警護と言う目的から江戸市中警護と言う仕事に変化し、西軍と衝突しさらに水戸に将軍が移動すると、寛永寺守護が目的となってしまった。
覚王院義観の生涯 長島進著から
上野戦争時、東叡山寛永寺の執当職であった覚王院義観のことを書いてある本。
 彼は今の埼玉県朝霞市の出身で縁あって東叡山に入った。慶應3年寛永寺の執当職つまり天台座主に代わり職務の代行を行う最高の地位についた。44歳であったと言う。ほぼ同じ時期に21歳の輪王寺宮もその地位に付いた。前例のない状況のもと彼等は寛永寺を守らねばならなかったのである。
 慶應4年の鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜が江戸に戻り、謹慎ということで江戸城を出、寛永寺で蟄居することから彼等が歴史の騒動の中に巻き込まれることとなった。
 慶喜を助けるため、静岡に向うが適当にあしらわれた。一般にこのことから覚王院義観の心に変化が生じ恭順から主義主張するという方向に変化したと言う。しかしこの本によると彼は執当職を忠実にこなしていたという。明治になって彰義隊が悪役となったが輪王寺宮の処遇と上野戦争の戦犯との整合性のため彼に責任を負わせた歴史となっている。戦犯となった覚王院義観は官軍の食事を拒み死去したという。
 江戸の庶民は上野戦争には参加してなくとも、彰義隊の敗残兵を市中にかくまった行動を見ても密かに応援していて、明治23年の歌舞伎で上野戦争が(皐月晴上野朝風)上演されると桟敷席で涙を流しながら見ていた人が多かったと言う。
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