大倉喜八郎と缶詰
明治の死の商人といわれた大倉喜八郎
日清戦争時の『石入り缶詰』事件のいきさつと、その報道を探ってみよう。
大杉栄 自伝より
日露の間に戦雲がだんだんに急を告げて来た。愛国の狂熱が全国に漲(みなぎ)つた。そして唯一人冷静な非戦的態度をとつていた萬朝報(新聞)までが、急に其の態度を変へだした。幸徳秋水と堺利彦と内村鑑三との三人が、悲痛な「退社の辞」を掲げて、萬朝報を去った。
そして幸徳と堺とは、別に週刊「平民新聞」を創刊して、社会主義と非戦論とを標榜して起った。
雪のふる或る寒い晩、僕は始めて数寄屋橋の平民社を訪(と)うた。毎週社で開かれていた社会主義研究の例会の日だった。
中略
やがて二十名ばかりの人が集まった。そして、多分堺だったろうと思うが、「今日は雪も降るし、だいぶ新顔が多いやうだから、講演はよして、一つしんみりと皆んなの身上話やどうして社会主義に入ったかかと言うやうな事をお互に話しよう」と云ひだした。皆んなが順々に立つて何か話した。或る男は、「私は資本家の子で、日清戦争の時、大倉が缶詰の中へ石を入れたと云ふ事が評判になつてゐるが、あれは実は私のところの缶詰なんです。尤もそれは私のところでやつたんではなくって、大倉の方で或る策略からやったらしいんではあるが」と云つた。
「それぢや、やはり大倉の缶詰ぢやないか。どうもそれや、君のところでやつたと言うよりは大倉がやつたと言う方が面白いから、やはり大倉の方にして置かうぢやないか。」
かう云つたのもやはり堺だつたらうと思ふが、皆んなも「さうだ、さうだ、大倉の方がいゝ」と賛成して大笑ひになつた。其の資本家の子と云ふのは、今の金鵄(きんし)ミルクの主人邊見(へんみ)何んとか云ふのだつた。
大杉栄 自由への疾走 鎌田慧著
雪の夜の会合は1903年(明治36年)12月15日夜としている。この会合後平民新聞は「石ころ缶詰」報道し始めた。事実の捏造は今でも訂正されず信じられている。
大杉栄は大正米騒動の時、大阪において民衆に対して煽動行為を行なっていたが関東大震災で東京に戒厳令がしかれ、憲兵に虐殺された。米騒動は物価を安定させるため中央卸売市場法を作るきっかけとなり、関東大震災で日本橋魚河岸は戒厳令で立ち入り禁止となり、紆余曲折の経過を経て、昭和10年2月11日東京都中央卸売市場築地本場が開場した。
もし関東大震災と戒厳令が無ければ戦後まで日本橋に魚河岸があっただろう。
それにしても大倉喜八郎の「石の缶詰」は何時位から言われたのだろうか。福神漬の「樽」と関係あるのだろうか?
大杉栄 自伝の「大倉の石の缶詰話の捏造」は本当なのだろうか。
自伝は関東大震災で虐殺される少し前に書き始めたという。すると「石の缶詰」は日清戦争時であるのですでに25年近くは経っているし、平民社での会合も15年は経っている。大杉栄は自慢げに「大倉の石の缶詰」といっているがすでにある程度「大倉の石の缶詰」の話しは知られていたのではないだろうか。
木下尚江の「火の柱」 明治37年1月1日横浜毎日新聞に連載し始め3月20日で終わる。この間2月10日に日露戦争開戦となる。
木下尚江全集第二巻「火の柱」77頁
松島「あの砂利の牛肉缶詰事件の時など新聞はやかましい」といいかかると、大洞利八(大倉喜八郎)はあわてて「松島さん、そんな古傷の洗濯はご勘弁願います。まんざらご迷惑の掛け放しという次第ででも無かったようでごわすか」「それからかの靴の請負の時はどうだ。のり付けの踵が雨で離れて,水兵が梯子から落ちて逆巻く波へ行方知れずとなる、艦隊のほうから苦情を持込む」云々となって大倉喜八郎の悪徳商人ぶりを書いている。日露開戦時には大杉栄が書いている頃よりもすでに喜八郎は「死の商人」と知られていたのだろう。平民社の人たちは大倉を悪役に仕立てようとしていた。
虚偽の話は真実が無いから,いか様にも変化して伝わる。
明治の死の商人といわれた大倉喜八郎
日清戦争時の『石入り缶詰』事件のいきさつと、その報道を探ってみよう。
大杉栄 自伝より
日露の間に戦雲がだんだんに急を告げて来た。愛国の狂熱が全国に漲(みなぎ)つた。そして唯一人冷静な非戦的態度をとつていた萬朝報(新聞)までが、急に其の態度を変へだした。幸徳秋水と堺利彦と内村鑑三との三人が、悲痛な「退社の辞」を掲げて、萬朝報を去った。
そして幸徳と堺とは、別に週刊「平民新聞」を創刊して、社会主義と非戦論とを標榜して起った。
雪のふる或る寒い晩、僕は始めて数寄屋橋の平民社を訪(と)うた。毎週社で開かれていた社会主義研究の例会の日だった。
中略
やがて二十名ばかりの人が集まった。そして、多分堺だったろうと思うが、「今日は雪も降るし、だいぶ新顔が多いやうだから、講演はよして、一つしんみりと皆んなの身上話やどうして社会主義に入ったかかと言うやうな事をお互に話しよう」と云ひだした。皆んなが順々に立つて何か話した。或る男は、「私は資本家の子で、日清戦争の時、大倉が缶詰の中へ石を入れたと云ふ事が評判になつてゐるが、あれは実は私のところの缶詰なんです。尤もそれは私のところでやつたんではなくって、大倉の方で或る策略からやったらしいんではあるが」と云つた。
「それぢや、やはり大倉の缶詰ぢやないか。どうもそれや、君のところでやつたと言うよりは大倉がやつたと言う方が面白いから、やはり大倉の方にして置かうぢやないか。」
かう云つたのもやはり堺だつたらうと思ふが、皆んなも「さうだ、さうだ、大倉の方がいゝ」と賛成して大笑ひになつた。其の資本家の子と云ふのは、今の金鵄(きんし)ミルクの主人邊見(へんみ)何んとか云ふのだつた。
大杉栄 自由への疾走 鎌田慧著
雪の夜の会合は1903年(明治36年)12月15日夜としている。この会合後平民新聞は「石ころ缶詰」報道し始めた。事実の捏造は今でも訂正されず信じられている。
大杉栄は大正米騒動の時、大阪において民衆に対して煽動行為を行なっていたが関東大震災で東京に戒厳令がしかれ、憲兵に虐殺された。米騒動は物価を安定させるため中央卸売市場法を作るきっかけとなり、関東大震災で日本橋魚河岸は戒厳令で立ち入り禁止となり、紆余曲折の経過を経て、昭和10年2月11日東京都中央卸売市場築地本場が開場した。
もし関東大震災と戒厳令が無ければ戦後まで日本橋に魚河岸があっただろう。
それにしても大倉喜八郎の「石の缶詰」は何時位から言われたのだろうか。福神漬の「樽」と関係あるのだろうか?
大杉栄 自伝の「大倉の石の缶詰話の捏造」は本当なのだろうか。
自伝は関東大震災で虐殺される少し前に書き始めたという。すると「石の缶詰」は日清戦争時であるのですでに25年近くは経っているし、平民社での会合も15年は経っている。大杉栄は自慢げに「大倉の石の缶詰」といっているがすでにある程度「大倉の石の缶詰」の話しは知られていたのではないだろうか。
木下尚江の「火の柱」 明治37年1月1日横浜毎日新聞に連載し始め3月20日で終わる。この間2月10日に日露戦争開戦となる。
木下尚江全集第二巻「火の柱」77頁
松島「あの砂利の牛肉缶詰事件の時など新聞はやかましい」といいかかると、大洞利八(大倉喜八郎)はあわてて「松島さん、そんな古傷の洗濯はご勘弁願います。まんざらご迷惑の掛け放しという次第ででも無かったようでごわすか」「それからかの靴の請負の時はどうだ。のり付けの踵が雨で離れて,水兵が梯子から落ちて逆巻く波へ行方知れずとなる、艦隊のほうから苦情を持込む」云々となって大倉喜八郎の悪徳商人ぶりを書いている。日露開戦時には大杉栄が書いている頃よりもすでに喜八郎は「死の商人」と知られていたのだろう。平民社の人たちは大倉を悪役に仕立てようとしていた。
虚偽の話は真実が無いから,いか様にも変化して伝わる。