明治23年5月6日読売新聞
桐座の俳優 彰義隊の墓に詣でんと
今度新富町桐座(新富座)において上野戦争を上演することはかって本誌に記載したことだが同開場前多分来る12~13日頃五代目尾上菊五郎、初代市川左團次、四代目中村芝翫、四代目中村福助(後に五代目歌右衛門)その他の役者一同は上野彰義隊の墓に参詣し、帰路に松源楼にて昼飯をとったのち新富町に引き上げてくると言う。さて其の日の服装はどのようなものかというと西洋風のものは一切万事国粋主義にて五つの紋付の黒の羽織に仙台平のまち高袴を着用し、なるべく丈は旧幕の古風に扮装して華々しく参詣すると言うことだけどここに一つ昔風に直すことが出来ないのは髪型である。こればかりは奇才のある菊五郎も小首をひねって考えていたがちょん髷頭のかつらを被るのも不都合なのでどうしようもなく帽子を被ることに決まったと言う。
(江戸)上野広小路、料亭松源楼での官軍と彰義隊との間にトラブルがあったことが知られていた。
明治23年5月11日読売新聞
上野の戦争
今度新富座において上演する上野戦争の脚色中に同隊に関係なき者に大変に活躍させ、また(上野の)戦争と聞いて直ぐに逃走したものが戦功を立てたようになっていてかなり事実と異なっていて部分があるので、同戦争に関係あり、尚生きている人々からこれは心情が良くないと思い、目下この件につき(芝居の内容について)協議中という。
この当時は芝居興行を成功するため色々情報を新聞に提供していたようである
明治23年5月13日読売新聞
上野戦争の説明
元彰義隊の一人であった秋元某という人は(上野の戦争の)当時万端指揮を執っていた縁で今度ある人の斡旋で五代目菊五郎の自宅へ同人を呼び9日10日の両日同氏の記憶している当時の現状の有様ならびに戦争の様子より勇士等の実況を聞いていたという。またその席に同席していた河竹其水氏(歌舞伎の脚本家)は必要と思われる箇所を一々筆記していたので芝居の脚本の中で多少の影響があるだろう。
河竹其水は竹柴其水の誤りか。河竹黙阿弥は初期の名前は、河竹其水という名前を使っていて「スケ」という形で創作活動し弟子を育てていたかもしれない。
(五代目)菊五郎の投書袋
今度桐座(新富座)において一番目狂言に上野の戦争を演じるにつき毎日菊五郎の自宅へ数十の投書が舞い込み、その受付処理に面倒なほどの量だけれど芸熱心な菊五郎は大切に袋にしまっておき、知り合いの人にこれを示して喜んでいると言う。
明治23年5月15日読売新聞
音羽屋の稲荷祭
尾上菊五郎が稲荷を信仰していて、庭に社を作り祀っていると聞いている。一昨日は甲午の日であるので一家一門が討ち揃ってにぎやかに其の大祭を行った。社前の飾りつけは別段目新しきものはないが主人が有名な俳優なので神楽に代わって奉納する茶番狂言は中々感動させるものがあった。
この日は朝から雨が降っていたが来賓は元彰義隊の秋元某氏、劇作家や劇場主、他に夫人など十名余だった。この来賓を驚かすような趣向を企画し、折から降り出した雨をそのまま用いたほうが面白かろうと一同土蔵の中で秘密会議を開いてこそこそと評議しているうちに雨が止み、せっかくの趣向も少し手違いとなったが、来賓が続々来てしまったので、なんとなく茶番の趣向も決めねばならぬと見込み違いの晴れに因みようやく考えた『今間晴日暮馬鹿=さつきはれくれてのたわむれ』と外題して尾上菊五郎ら三人の役者が彰義隊に扮し、庭に数十箇所に花火の仕掛けをし、弾丸が空飛ぶ上野戦争の有様を見せようと実行した。さすがに頓知の菊五郎だと参加者一同大喝采した。次に同じ外題で俳優十余名が物まねをし、当日参加していた本人を驚嘆させたと言う。上野黒門口戦争の講談などがあって夜十二時頃まで近頃まれな盛況であった。
この当時でも芸能記者と言うものがあったのだろうか。記事の中でさり気なく次の芝居の案内をしていた。
この記事の中に『校書』という言葉があって『げいしゃ』とルビが振ってあった。辞書を引くと〔《唐の元 (げんしん)が蜀に使者として行ったとき、接待に出た妓女薛濤(せっとう)の文才を認め、校書郎に任じたという「唐才子伝」の故事から》芸者のこと〕彼女は『賓妓』という待遇を受けた。ふつうの芸者ではなく、客分の芸者という。芸者を『校書』と呼ぶのは、この話に由来している。
又記事中秋元某とあるが記事が時間の経つうちに実名記事として載ってくることになる。明治政府の意向を探っていたのだろうか。秋元某とは彰義隊本体の秋元虎之助(頭取)のことである。
また5月15日の記事の続きに音羽屋一門の人達が浅草の士族の家族の不幸な状況を聞いて一門から寄付金を集めて贈ったと言う。浅草の士族は火事に遭い、間借り先で病気に遭い主人が亡くなり、さらに子供が病気になって困窮していると言うことをある人から聞きつけたとのことである。樋口一葉の困窮した頃と同時代の話である。
今でも昔でも芝居興行は観客が入らねば成り立たない。桟敷の中が一人の観客でも演じなければならない。そのために色々な手段をとって芝居小屋に来るよう誘導していた。これらの業務をおこなっていたのが芝居茶屋と言う組織で次の芝居小屋にかかる演目の宣伝を番付というもので宣伝し勧誘していた。明治の中頃から番付の役目が新聞に変っていくことになる。都新聞(明治22年創刊)がその代表となって歌舞伎等の文化・芸能に強い報道を強化して新聞販売部数を増やしていった。歌舞伎はどちらかと言えば江戸文化というものでして洋風明治文化とはなかなか会わないものだが福地源一郎・渋沢栄一等の尽力でグランド将軍の接待とか明治20年4月麻布鳥居坂の井上馨邸で本邦初となる天覧歌舞伎と歌舞伎の地位の向上に努めた。鹿鳴館から日本文化の見直しの時代に入った時新富座で興行した竹柴其水のめ組喧嘩(神明恵和合取組)3月興行・上野戦争を題材とした皐月晴上野朝風5月興行で大当たりした。
新富座の明治23年5月興行の歌舞伎で上野戦争が過去の話になったのではないだろうか。福神漬はこれから日本各地に広まっていく。
桐座の俳優 彰義隊の墓に詣でんと
今度新富町桐座(新富座)において上野戦争を上演することはかって本誌に記載したことだが同開場前多分来る12~13日頃五代目尾上菊五郎、初代市川左團次、四代目中村芝翫、四代目中村福助(後に五代目歌右衛門)その他の役者一同は上野彰義隊の墓に参詣し、帰路に松源楼にて昼飯をとったのち新富町に引き上げてくると言う。さて其の日の服装はどのようなものかというと西洋風のものは一切万事国粋主義にて五つの紋付の黒の羽織に仙台平のまち高袴を着用し、なるべく丈は旧幕の古風に扮装して華々しく参詣すると言うことだけどここに一つ昔風に直すことが出来ないのは髪型である。こればかりは奇才のある菊五郎も小首をひねって考えていたがちょん髷頭のかつらを被るのも不都合なのでどうしようもなく帽子を被ることに決まったと言う。
(江戸)上野広小路、料亭松源楼での官軍と彰義隊との間にトラブルがあったことが知られていた。
明治23年5月11日読売新聞
上野の戦争
今度新富座において上演する上野戦争の脚色中に同隊に関係なき者に大変に活躍させ、また(上野の)戦争と聞いて直ぐに逃走したものが戦功を立てたようになっていてかなり事実と異なっていて部分があるので、同戦争に関係あり、尚生きている人々からこれは心情が良くないと思い、目下この件につき(芝居の内容について)協議中という。
この当時は芝居興行を成功するため色々情報を新聞に提供していたようである
明治23年5月13日読売新聞
上野戦争の説明
元彰義隊の一人であった秋元某という人は(上野の戦争の)当時万端指揮を執っていた縁で今度ある人の斡旋で五代目菊五郎の自宅へ同人を呼び9日10日の両日同氏の記憶している当時の現状の有様ならびに戦争の様子より勇士等の実況を聞いていたという。またその席に同席していた河竹其水氏(歌舞伎の脚本家)は必要と思われる箇所を一々筆記していたので芝居の脚本の中で多少の影響があるだろう。
河竹其水は竹柴其水の誤りか。河竹黙阿弥は初期の名前は、河竹其水という名前を使っていて「スケ」という形で創作活動し弟子を育てていたかもしれない。
(五代目)菊五郎の投書袋
今度桐座(新富座)において一番目狂言に上野の戦争を演じるにつき毎日菊五郎の自宅へ数十の投書が舞い込み、その受付処理に面倒なほどの量だけれど芸熱心な菊五郎は大切に袋にしまっておき、知り合いの人にこれを示して喜んでいると言う。
明治23年5月15日読売新聞
音羽屋の稲荷祭
尾上菊五郎が稲荷を信仰していて、庭に社を作り祀っていると聞いている。一昨日は甲午の日であるので一家一門が討ち揃ってにぎやかに其の大祭を行った。社前の飾りつけは別段目新しきものはないが主人が有名な俳優なので神楽に代わって奉納する茶番狂言は中々感動させるものがあった。
この日は朝から雨が降っていたが来賓は元彰義隊の秋元某氏、劇作家や劇場主、他に夫人など十名余だった。この来賓を驚かすような趣向を企画し、折から降り出した雨をそのまま用いたほうが面白かろうと一同土蔵の中で秘密会議を開いてこそこそと評議しているうちに雨が止み、せっかくの趣向も少し手違いとなったが、来賓が続々来てしまったので、なんとなく茶番の趣向も決めねばならぬと見込み違いの晴れに因みようやく考えた『今間晴日暮馬鹿=さつきはれくれてのたわむれ』と外題して尾上菊五郎ら三人の役者が彰義隊に扮し、庭に数十箇所に花火の仕掛けをし、弾丸が空飛ぶ上野戦争の有様を見せようと実行した。さすがに頓知の菊五郎だと参加者一同大喝采した。次に同じ外題で俳優十余名が物まねをし、当日参加していた本人を驚嘆させたと言う。上野黒門口戦争の講談などがあって夜十二時頃まで近頃まれな盛況であった。
この当時でも芸能記者と言うものがあったのだろうか。記事の中でさり気なく次の芝居の案内をしていた。
この記事の中に『校書』という言葉があって『げいしゃ』とルビが振ってあった。辞書を引くと〔《唐の元 (げんしん)が蜀に使者として行ったとき、接待に出た妓女薛濤(せっとう)の文才を認め、校書郎に任じたという「唐才子伝」の故事から》芸者のこと〕彼女は『賓妓』という待遇を受けた。ふつうの芸者ではなく、客分の芸者という。芸者を『校書』と呼ぶのは、この話に由来している。
又記事中秋元某とあるが記事が時間の経つうちに実名記事として載ってくることになる。明治政府の意向を探っていたのだろうか。秋元某とは彰義隊本体の秋元虎之助(頭取)のことである。
また5月15日の記事の続きに音羽屋一門の人達が浅草の士族の家族の不幸な状況を聞いて一門から寄付金を集めて贈ったと言う。浅草の士族は火事に遭い、間借り先で病気に遭い主人が亡くなり、さらに子供が病気になって困窮していると言うことをある人から聞きつけたとのことである。樋口一葉の困窮した頃と同時代の話である。
今でも昔でも芝居興行は観客が入らねば成り立たない。桟敷の中が一人の観客でも演じなければならない。そのために色々な手段をとって芝居小屋に来るよう誘導していた。これらの業務をおこなっていたのが芝居茶屋と言う組織で次の芝居小屋にかかる演目の宣伝を番付というもので宣伝し勧誘していた。明治の中頃から番付の役目が新聞に変っていくことになる。都新聞(明治22年創刊)がその代表となって歌舞伎等の文化・芸能に強い報道を強化して新聞販売部数を増やしていった。歌舞伎はどちらかと言えば江戸文化というものでして洋風明治文化とはなかなか会わないものだが福地源一郎・渋沢栄一等の尽力でグランド将軍の接待とか明治20年4月麻布鳥居坂の井上馨邸で本邦初となる天覧歌舞伎と歌舞伎の地位の向上に努めた。鹿鳴館から日本文化の見直しの時代に入った時新富座で興行した竹柴其水のめ組喧嘩(神明恵和合取組)3月興行・上野戦争を題材とした皐月晴上野朝風5月興行で大当たりした。
新富座の明治23年5月興行の歌舞伎で上野戦争が過去の話になったのではないだろうか。福神漬はこれから日本各地に広まっていく。