河竹黙阿弥と竹柴其水のこと
竹柴其水は河竹黙阿弥の三番目の弟子ともいう人で『皐月晴上野朝風』の脚本で、『天野八郎の場』『本所金魚屋の場』は河竹黙阿弥が書いたという。日本戯曲全集 第32巻
河竹黙阿弥の俳号(其水)を明治20年頃にもらい竹柴其水を名乗ったと言う。世間一般に知られている歌舞伎脚本の代表作は『め組の喧嘩=神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)』である。
新しい演目が上演され、ある程度たつと歌舞伎の劇評が現れる。今の時代の劇評と違ってあからさまに筋の変更を求めているのもある。変更が頻繁にあったのだろう。
明治23年5月新富座公演で上演された竹柴其水作『皐月晴上野朝風』の脚本を読むと、第七幕博覧会の場があるが時間が足りなく最初は上演されなかったようである。しかしこの脚本を読むと明治23年と言う時間が彰義隊と上野周辺の人々、時代の変化に乗った人、乗れない人の懐旧の情が染み出ている。今でも新撰組と比べて彰義隊は語られることも少ない。
明治23年6月4日 読売新聞 劇評より
下谷竹町湯屋越前屋左兵衛の場
榊原鍵吉は上野戦争の時、寛永寺の輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)の護衛を務め、山下(今の日比谷線仲御徒町駅付近)の湯屋、越前屋佐兵衛と二人で交互に宮を背負って三河島まで逃げた。
明治23年5月公演の皐月晴上野朝風で当時生存していた湯屋越前屋左兵衛の指導によって、風呂屋の内から見る造りで、菊五郎の意気込みが過剰に現れていた。
『御用』と言って官軍に湯に入れろと言われた左兵衛は『そりゃ出来ません。公方様と上野にご恩があるのでござります。官軍だって天子様の御家来だから悪いとは決してありませんがご恩のある人にたいして出来ません』ときっぱりと断ったセリフで下町の人の懐旧の感情を引き起こしたと言う。
越前屋左兵衛は自身が歌舞伎で登場し、さらに当時の人気役者菊五郎が扮するので連日のように新富座に通ったという。下谷の人々がご当地の歌舞伎で話題となっていたことがわかる。上野山下・三橋・竹町・数奇屋町・同朋町・池之端仲町の人達も通っただろう。また静岡に移住した旧幕臣も東京見物とともに歌舞伎を観ていた。
竹柴其水は河竹黙阿弥の三番目の弟子ともいう人で『皐月晴上野朝風』の脚本で、『天野八郎の場』『本所金魚屋の場』は河竹黙阿弥が書いたという。日本戯曲全集 第32巻
河竹黙阿弥の俳号(其水)を明治20年頃にもらい竹柴其水を名乗ったと言う。世間一般に知られている歌舞伎脚本の代表作は『め組の喧嘩=神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)』である。
新しい演目が上演され、ある程度たつと歌舞伎の劇評が現れる。今の時代の劇評と違ってあからさまに筋の変更を求めているのもある。変更が頻繁にあったのだろう。
明治23年5月新富座公演で上演された竹柴其水作『皐月晴上野朝風』の脚本を読むと、第七幕博覧会の場があるが時間が足りなく最初は上演されなかったようである。しかしこの脚本を読むと明治23年と言う時間が彰義隊と上野周辺の人々、時代の変化に乗った人、乗れない人の懐旧の情が染み出ている。今でも新撰組と比べて彰義隊は語られることも少ない。
明治23年6月4日 読売新聞 劇評より
下谷竹町湯屋越前屋左兵衛の場
榊原鍵吉は上野戦争の時、寛永寺の輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)の護衛を務め、山下(今の日比谷線仲御徒町駅付近)の湯屋、越前屋佐兵衛と二人で交互に宮を背負って三河島まで逃げた。
明治23年5月公演の皐月晴上野朝風で当時生存していた湯屋越前屋左兵衛の指導によって、風呂屋の内から見る造りで、菊五郎の意気込みが過剰に現れていた。
『御用』と言って官軍に湯に入れろと言われた左兵衛は『そりゃ出来ません。公方様と上野にご恩があるのでござります。官軍だって天子様の御家来だから悪いとは決してありませんがご恩のある人にたいして出来ません』ときっぱりと断ったセリフで下町の人の懐旧の感情を引き起こしたと言う。
越前屋左兵衛は自身が歌舞伎で登場し、さらに当時の人気役者菊五郎が扮するので連日のように新富座に通ったという。下谷の人々がご当地の歌舞伎で話題となっていたことがわかる。上野山下・三橋・竹町・数奇屋町・同朋町・池之端仲町の人達も通っただろう。また静岡に移住した旧幕臣も東京見物とともに歌舞伎を観ていた。