goo blog サービス終了のお知らせ 

 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 32

2009年12月15日 | 福神漬
海軍は輸入缶詰、陸軍は購入 田中正造全集第7巻522頁
明治29年1月24日田中正造の質問書に対しての明治政府の答弁書
 缶詰肉について海軍省は東京市の営業者買い上げをせず、これに反して陸軍省は東京市民より買い上げをしているのは、即ち海軍糧食は現品給与なるがゆえに平時に於いて航海のために缶詰肉を使用しており,航海日数が長きわたるし、また熱帯地方を通過する場合は従来内地製造品は到底保存に耐えず、常に舶来品を購入せざるを得ず、また貯蔵品もある。ただ僅かに試験用として内地製造品を買い入れたのみである。要するに海軍において需用の缶詰肉は主として外国品を購入していて、陸軍と比較することは出来ない。この答弁から、日清戦争時には福神漬の缶詰が海軍船には積まれていないことがわかる。もしこの当時から海軍カレーがあったとしても福神漬が添付されていなくて沢庵が付いていただろう。


明治28年2月10日都新聞
第八期帝国議会 衆院(2月9日)
 改進党の栃木鎮台田中正造は開会第一に壇上に現れて虎の吼ゆる如きの大声を放ちて缶詰買い上げに関して政府に質問の要旨を述べた。例の木綿の黒紋付を着た大男の壇上に現れたのは(今国会に)始めてである。
 途中略
征清の軍隊が凱旋の暁には(不正な行為をした)姦商の首が飛ぶかも知れないと罵り、原稿用紙を巻き演壇を叩きて、満面を赤くして意に任せて怒鳴ったのは田正君(田中正造)近来の痛快なる演説なりき。

 挙国一致でなければならない状況で日清戦争の勝利の目途も見え、世間でささやかれている軍用缶詰購入に関しての不正行為を糾弾していた。しかし、この時点では「石の缶詰」の話は出ていない。田中の演説では軍人は馬を尊ぶので消えた2600頭余の馬肉を軍人に食べさせたのは許さないと締めくくっている。この後政府の答弁が出てくる。

明治時代の食べ物の文献で西洋から始めて入った食物とか肉食のように
急に政府が奨励した習慣などの文献は多いが漬物のように江戸時代も明治時代もあまり変わらない物は記述されることも無く中々見つからない。



明治28年2月の田中正造の国会質問『牛肉缶詰買い上げに関する件』に対しての政府答弁は日清戦争当時の食品業界が良くわかる。田中正造全集第7巻513頁
『軍隊用牛肉缶詰買上等に関する質問に対する答弁書』 明治28年3月2日
第一 陸軍は牛肉缶詰を購買する場所は東京の外に仙台・名古屋・京都・和歌山・大阪・神戸・広島・長崎等あって,質問者の言うように決して専ら東京のみに限ってはいない。
 昨年(明治27年)6月朝鮮のこと(日清戦争)起こり,兵食用として牛肉缶詰の需用を生じるや,当時営業者中資力確実・製法完全と認める者が甚だ少なく,とっさの間この需用に応じる者なきを以って、舶来品を普通の商人から在庫品を購入していたが,(輸入品から)8・9月に至ると東京その他各地において缶詰製造に従事する者が続々と出,需用に緩急に応じて,これらを営業者より供給させていた。内地の製造額は次第に増加し,ついに外国品の供給を必要としないようになったが然るに内地の製造品はなお幼稚にして完全なる物でなく、酷暑に際し往々腐敗する缶詰があると聞き、一時製造所を官設にする議論があったけれど、民間業者がようやく缶詰製造業を興さんとするとき、官設工場によって,需用を途絶することは缶詰製造業の発展を妨げることになるので、むしろ缶詰製造業に従事する者を奨励誘導することによって改良を計るほうが良いとの議論が決まった。
 よって本業に従事する者を集めて協議せんと,10月15日を期してこれ(缶詰営業者)を本省に集めたが当日来会する者40名に達し,この際本省において専門の官吏を以って委員を組織し,営業者に指示する製造の方法,監督の範囲,検査の順序及び価格の如何等を調査し,さらに11月10日を期して見本缶詰を提出することを要請した。また東京府下を始め日本各地に委員を派遣して工場に就いて具体的に検査して製法の良く無い者は,懇切丁寧に指導した結果、今日あるように各地の製造者がその製造能力に応じて,軍需をまかなうようになった。今その製造所を述べると、東京は18,仙台3、名古屋1、京都3、和歌山1、大阪神戸岡山各4、広島6、長崎1を合わせて全国45箇所。
 而して,陸軍省が供給を独り関西地方に頼らないのは協議の結果で、牛肉缶詰の製法がよく、価格の適正なものであるならばどの地方でも購入しても良いとしている。

日清戦争時は軍用食料の確保まで準備が十分でなかった。輸入の缶詰から国産に替えたのは表向き国内産業の育成と述べているが、当時においては外貨が軍艦購入に費やされ食料購入に外貨を使うことは嫌われていた。これは綿花の輸入と砂糖の輸入と同じ状況である。綿花は綿布となって外貨を稼ぐが砂糖は専ら国内消費で嗜好品で無駄と思われ、戦費をまかなうため酒税と共に課税された。



第二 陸軍省が缶詰の買い上げを為すにはこれを従来の経験のある営業者から求めず専ら新設の業者から求めたことは無い。その供給者の中には間々新設創業の者、廃業再興の者無きにしも非ずといえども、これらの業者は皆適当な技術者を有する者にして,専ら新設の業者から購入するのでなく,資力・技術力の適否を問わず購入することは断じて無い。
 また質問者(田中正造)は製靴商・タバコ商が缶詰商となって缶詰を製造するごときといえども,陸軍省の指定した供給者はいろいろな業を営むといえど必ず適当な缶詰製造技術者を有し,製造の指揮・監督に欠けるところは一つもない。往々缶詰業のごときは資本家にして技術者を兼ねる者は稀で資本家は技術者を雇用するか共同経営となる者である。陸軍省は常に資本と技術の欠けることなきを調査していて、この点において資本家の専業者か兼業者かを問うことは無い。

 新規参入の業者がふえて、不正行為のウワサが出ていた。この年(明治28年)5月に陸軍省経理局員は広島への出張の途中自殺している。



第三 陸軍省が牛肉缶詰を買い上げを為すにあたり、その取捨選択する方法は協議会に参加し、陸軍省が指定する方法に従い誠実堅固に製造するものを選んでいて、今後もし粗製濫造に流れるかもしくは不正の行為あるものは拒絶するは勿論である。また納品された缶詰は製缶・精肉より荷造りに至るまで陸軍省の指定の方法に適しているか否かを点検し、かつ若干開缶実検品する手続きである。こうしてその製造能力を検定し製品の良否を判別するがごときはみな委員の任せ、その需要を各供給者に分割注文するごときはすべて購入責任者に与える。もし不良の品が発見された時は委員より検査の状況を購買主任者に通知し、事情軽きものは倉庫官吏によって処分し、事情重きものは購買主任者の指揮を待たせ、即ち取捨選択の処分は委員と購買責任者とを待って初めて実行する者であって一人二人の吏員によって左右されるべきことではない。
 終わりに一言すべきことは陸軍省は常に弊害の起こるところに注意しており、弊害を防ぐ方策を採っており当初の方針を変更して一方に利のあるように製造の方法・検査の規定を設ける等の事実は無いことを断言する。

田中正造は足尾鉱毒事件の告発で知られているが「牛肉缶詰購入」の件でも国会にて何回も質問している。しかし当時の衆議院の議事録からは「石の缶詰」の件には触れていない。むしろ消えた2600頭余の馬肉を問題としている。当時は乗り合い馬車が人力車と共に普及していて、馬に対して虐待ともいえるくらい酷使していて、弱った馬が馬肉となって缶詰に入っても判らない状況であった。このことは田中の演説で明治27年の頃は東京には二箇所の屠畜場があった。浅草と芝にあり半年で浅草では4~500頭の馬を処理していた。日清戦争が始まると2600頭余の馬が処理されたが、馬肉販売業者が増えず、何処に消えたかうわさになっていたのだろう。

 奸商と購買の癒着は日清戦争時からあって,『死の商人』とわれた大倉喜八郎は弁解することなく、風評に対して黙していて,かえって自伝で『上野戦争』のときに彰義隊に監禁され、幕府方に鉄砲を売らないことを理由にしたものだったが、喜八郎は「前に銃を納めたときの代金が未納だ。横浜のガイジン相手に現金商売をやっている者の立場も考えてくれ。」と物怖じせず主張し、開放された逸話のみ強調されていたので、『石の缶詰』事件も何時の間に大倉組の仕業になってしまっても彼は言い訳していない。『サンヨー堂85年史』より
 しかし、石の缶詰事件はどうして大倉喜八郎と結びついたのだろうか。その答えは田中正造全集第7巻529頁に答えが書いてある。それは日清戦争時(明治27年10月)に合名会社大倉組が東京・大阪支店・広島支店で販売者になっている。40匁牛肉缶詰は297万個陸軍が買い上げているが、その内大倉組は約28万3千個、240匁牛肉缶詰は総数約100万個のうち大倉組(東京・大阪・広島)全体で9万個納入している。田中正造の演説と大倉組の陸軍への納入額が多いから風評が立ったのだろう。なお海軍は別の統計と思えわれるから輸入缶詰は更に大倉組から納入されていたかも知れない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする